第41話 『菊花姫』
「なおちゃん、最近元気ないね」
「へっ? そ、そう……?」
「うん、ずっと上の空だよ?」
鷹宮さんの自宅を訪問してから、数日が過ぎた。
相変わらず、梅雨の空模様は芳しくなく、ぼんやりと部室の窓から灰色の空を眺めていたら、瀬川さんに心配されしまった。
幸い、修羅場の影響は見当たらず、そのことが尾を引くことはなかった。
それでも、全てが元通りというわけではなく、私はあの日からずっと考えていた。
『神崎直には年下は向いてないから、やめときなさい』
リフレインするのは、鷹宮さんのその指摘。ずっと耳にこびりついて離れない。
鷹宮さんは彼方くんの姉であり、本物のお姉さんだ。その彼女に向いてないと言われた。
あっちはプロなのだから、何かしら確信があるのだろう。しかし、それがどうしてもわからない。
そもそも、何かを好きになるのに、向き不向きなんてあるのだろうか? そんなの私の勝手だろうに。
そう開き直ろうと思っても、帰り際に見た光景が邪魔をする。
鷹宮さんにボロ負けして、悔しそうなのに、何故か楽しそうだった、彼方くんの表情。
もちろん私とゲームをしていた時も楽しそうではあったが、それよりもずっとずっと、良い顔をしていた。
恐らく、その辺りが、私と鷹宮さんとの決定的な違いなのだろう。その部分を見咎められたのだ。
しかし、具体的にどこがどう間違っていたのかが、わからない。自分の対応はそう悪くなかったように思えた。
彼方くんに何度負けても、決して悔しがらず、わざと勝たせてあげた場面すらあった。
どうしてそうしたかと言えば、あの少年の喜ぶ顔が見たかったから。それがショタコンの本懐である。
好きだからこそ、悲しんだり、悔しがったり、辛い目に遭ったりして欲しくない。当たり前だ。
それのどこが間違っているというのか。嗜虐的になれとでも言うつもりか?
そんなアブノーマルなプレイは、お断りだ。ちょっと縛るくらいで丁度いい。そう思っていたのだが。
しかしながら現実とラノベでは、その部分の捉え方が大きく異なる。彼方くんを縛るなど、実際には出来そうにない。本人の同意が必要不可欠。いや、同意があったとしても出来るとは思えない。
妄想の中では、ショタに対して好き放題出来るのに、いざ現実になると足が竦んでしまう。
どの口が言うのかと思われるかも知れないが、それが私の本音だった。そんなものだろう。
もし彼方くんが傷つけば、私はきっと胸が張り裂けそうになるだろうし、もしもあの子が泣いていたら、泣き止むまで寄り添って、優しい言葉をかけてあげたい。それが現実の私のスタンスだった。
もしもそう思う気持ちが、向いていないと言われる原因ならば、私には何が正解かわからない。
そんな詮無きことを考え続けていると、無意識にため息が漏れて、またもや瀬川さんに心配されてしまう。
「やっぱり変だよ……」
「ごめん……でも、体調が悪いとかじゃないから、そんなに気にしなくて平気だよ」
「そう言われても……ほら、有村くんだって、気になるでしょう?」
心中を吐露する気になれず、変調を誤魔化し続けていると、瀬川さんは有村くんに助けを求めた。
彼女が有村くんに声をかけるのは珍しい。
決して険悪ではないが、どこか一線を引いてるらしく、あまり2人が話している姿は見ない。
つまり、それほどの危機感を瀬川さんは抱いているらしい。えらいこっちゃ。
なんだか申し訳ないなと、恐縮していると、有村くんが私をチラリと見やり、一言。
「別に、俺は気にならないぞ」
そうだろうそうだろう。この男はそういう男だ。わかっていましたとも。
実はあれから有村くんと一緒に帰っていない。なんとなく、気まずくなっていた。
とはいえ、そんな殊勝な気持ちになっているのは私だけであり、彼はいつも通りだ。
せめて一言、寂しかったと言ってくれたら可愛げもあるのだが、ちっとも寂しそうじゃない。
今も吉田くん相手にカードゲームに興じており、片手間に受け答えしている有様である。
「気にならないって、有村くんはなおちゃんのことどうでもいいの?」
「そう言われてもな……」
手札を眺めながら、考え込む有村くん。たぶん、いま彼が考えているのは現在の戦況についてだろう。
自分の存在がカードゲーム以下の重要度しかないと知って、カチンとくるが、別に気にしない。
それほど、今現在の私の悩みが個人的なものだからだ。こんなことで彼の手を煩わせたくない。
だから口を噤んだまま大人しくしていると、そんな私を見て瀬川さんは誤解したらしく。
「ほら、なおちゃんが拗ねちゃったじゃないの!」
「神崎、拗ねたのか?」
「いえ? 全く」
「ならよし」
速やかに誤解は解けて、有村くんはカードゲームへと意識を戻した。
非常に素っ気ない態度に見えるが、私としては彼のそんな無関心が有り難かった。
今現在抱えている問題は、自分で解決しないといけない問題だ。誰にも頼るつもりはなかった。
そう思うのは、私が意地っ張りだからだろうか? もしそうだとしたら、なんとも滑稽だ。
案外、人に聞けばすぐに答えが見つかるのかも知れない。けれど、それでは何の意味もないのだ。
自分で気づいてこそ、何かが得られる気がして、たとえそれが幻想だとしても、諦めたくない。
そう考えると、やはりこれはただの取るに足らない、くだらない意地であるとわかり、失笑してしまう。
なんだか進歩ないな、私。
最近、自分自身が変質していくのを実感して、少しは変わることが出来たかと思っていた。
それが、どうだ、この有様は。結局、私はあの頃から何も変わっていない。無知蒙昧で、愚かだ。
やっぱり、自己紹介の際の説明は、愚直の直に戻そうかしら? そんなことを思っていると、奴が現れた。
「よぉ、神崎! ぼけっとしてっと揉んじゃうぞ!」
「出たな……妖怪」
「げへへ……相変わらず無駄にいい乳してんな!」
音も無く背後に忍び寄り、声をかけてきた曲者。振り返らずともわかる。早乙女茜だ。
その乱暴な言葉遣いと、いやらしい手つき。このセクハラ教師は、今日も私の胸を揉んでいた。
背後から両手で両の胸を鷲掴んで、揉みしだかれる。それでも、私はムキになったりしない、
「早乙女先生、やめてください」
「いいじゃねーか。別に減るもんじゃないし」
「私が身持ちの固いことをご存じですか?」
「けっ! なに生娘みたいなこと言ってやがる」
「生娘みたいな、ではなく、正真正銘の処女です」
「なんだ、だったら賞味期限が切れる前にあたしが貰ってやんよ」
「あげません」
「よこせ!」
「絶対嫌です」
「せんせーの言うことが聞けないのか!?」
「聞く理由がどこにも見当たりませんので」
「まったく、これだから処女は……」
散々好き放題下劣な発言をした後、やれやれとばかりに胸から手を離す早乙女茜。
本当に、とんでもない痴女だ。同性なのにも関わらず、ここまで女の敵になれるとは。
下手なチンピラよりもよほどタチが悪い。どうしてこんなのが教師なんてやってんだ。
この国の教育現場の実情を本気で嘆いていると、早乙女教諭は話題を変更。
「そういやお前、近頃ブイブイ言わせてるらしいな」
今時ブイブイとか……私のお父さんだって言わないぞ。いや、言ったらびびるけどさ。
現代を生きる花の女子高生である私は、この手の退廃的な言葉は知らんぷりするべきだろう。
そう思い、顔の横で可愛くピースを決めて、小首を傾げ、とぼけてみた。
「ぶいっ?」
「似合わないからやめろ。そんなキャラじゃねーだろ」
「こりゃ失敬」
真顔で怒られて、反省。キャラじゃないとか言われた。そんなに似合わないだろうか。
なんて落ち込むのはやめて、話を本筋に戻す。
「私は別にブイブイ言わせたつもりはありません」
「でもクラスのガキ共が騒いでたぜ?」
「たぶん、人違いです」
「ふーん……鉄花姫と火花姫と柔花姫がどうのって言ってたけど、お前と鷹宮と瀬川のことじゃねーの?」
「そんな大げさなあだ名は知りませんね」
「とかなんとか言いつつ、姫って呼ばれて浮かれてたんだろ?」
「……別に」
「まったく、お前みたいなまだ尻の青いガキが姫とか、アホかっての」
案外気に入っているあだ名を痛烈に皮肉られて、これにはさすがにむっときた。
「あらやだ先生ったら、自分が姫って呼ばれないからって、拗ねてるんですか?」
「な、なにおぅ!? これっぽっちも拗ねてなんかねーし!!」
「やっぱり、図星なんですね」
「あー! せんせーに意地悪しちゃいけないんだー!!」
「先に意地悪してきたのは先生の方でしょ」
「うっせぇっ!! 罰として、あたしに相応しいあだ名を今すぐ付けろ!」
「なんの罰ですか、それ」
「もちろん、この見目麗しいあたしを仲間はずれにした罰に決まってんだろ!?」
うわー完全に拗ねちゃってるよ、この人。
きっと、最初っから私の様子なんてどうでも良くて、あだ名を付けて欲しかっただけだ。
げんなりしつつ、瀬川さんに救いを求めて視線を送ると、すっと目を逸らされた。マジかよ。
くそっ……見捨てられちまった。こうなったら、男子に頼るしかない。
「吉田くん、この女に何かあだ名を付けてくれない?」
「い、いきなりそんなことを言われても……うーん、早乙女先生のあだ名かぁ……」
有村くんとカードゲームをしている吉田くんは、姫シリーズの名付けの親だ。
彼ならば、この迷惑極まりない害虫に相応しい糞みたいなあだ名を付けてくれる筈。
そう信じて、悩める彼の答えを待つこと、暫く。
「それなら、『肛門様』なんてどうかな?」
「おお! さすが吉田、冴えてるな!」
彼の口から飛び出したのは、そんな耳を疑う下品な命名。それを聞いた有村くんが偉業を讃える。
当てられる字はもちろん『黄門様』ではなく、『肛門様』だろう。なかなか、言い得て妙だ。
いつも自分の肛門の自慢をしているこの女にはぴったりだろうと思ったら、有村くんが追い打ちをかける。
「それなら、『ご老肛』もありだな」
「いいじゃん! ナイス、有村!」
「へへっ……よせよ、照れるだろ」
男子高校生特有のノリで、下品度が更に悪化。
いつもはそんなやり取りを聞いてドン引きする私も、今日に限っては噴き出した。
なにせ、今決めているのは、あの憎き早乙女茜のあだ名だ。いいぞ、もっとやれ。
そんな中、瀬川さんだけが引きつった表情をしていたが、全く気にしてなかった。
張り詰めた不穏な空気に気づかず、クスクス笑っていると……突然、落雷が落ちた。
「良い度胸じゃねーかてめぇらっ!!」
一喝されて、目をパチクリ。そこには怒髪天を衝く、早乙女茜の姿があった。
「なにが『肛門様』だ、なにが『ご老肛』だバカヤロー!! まだあたしの肛門はピチピチだっつーの!!」
「せ、先生、落ち着いて……」
「そんなにあたしのケツの穴が見たけりゃ見せてやろうじゃねーか!!」
「や、やめてください! 目が腐ったらどうするんですか!?」
「なんだと!? もうあったまきた!! ここまでコケにされたのは教師生活において初めてだ!!」
ワナワナと怒りに震える気の短すぎる顧問を何とか宥めようとするが、効果はなく。
「……おい神崎、あたしの尻を舐めろ」
「は?」
「聞こえなかったのか? 尻を舐めろって言ったんだよ」
「い、いえ、それは……」
「出来ないのか?」
「それだけは、ご勘弁を……」
「だったらこの場で印籠を披露するが、いいのか?」
「それも、どうかおやめください……」
「アレも駄目、コレも駄目……そんなんであたしの気が静まると思ってのか!?」
やべーこの女、マジでキレちゃってるよ。こわ。
しかも二択がえぐすぎ。尻を舐めるか、印籠披露とか……どっちにしろ世界が終わっちまう。
いや、印籠披露ってなんだって話だけど、文脈的に恐ろしすぎるよね。
完全に手詰まりとなって困窮していると、天使が施しを下さった。
「もう、なおちゃんったら調子に乗りすぎだよ」
救いの手を差し伸べてくれたのは、ラブリーエンジェル瀬川さん。
めっと叱ってくる彼女を思わず拝む。天はまだ私を見捨ててなかった!
え? 男2人はどうしたかって? とっくに逃げて、部室の隅でカードやってるよ。
「早乙女先生、もう一度チャンスをください」
「あ?」
「今度こそ、なおちゃんが素晴らしいあだ名を付けてくれる筈です」
そう言って、パチンとウインクを飛ばしてくる小悪魔大天使瀬川さん。
なるべくその好意をありがたく受け取ろうとしたが、これが存外、なかなか難しい。
なにそれ。要するに、もう一度ちゃんと早乙女先生のあだ名を考えろってこと? そんな無茶な。
とは言いつつも、人間、追い詰められれば何だって出来るもので、すぐに名案が閃いた。
「菊花姫……なんて、どうでしょう?」
「は? きっかって、何だ?」
「菊の花の姫と書いて、菊花姫。高貴な早乙女先生には、ぴったりのあだ名かと」
思いついたことをそのまま口に出して、それっぽい補足を付け加えた。
無論、こんなのはただの思いつきだ。どうして菊の花にしたかはご想像にお任せします!
とにかく、これで駄目だったらあとはどうしようもない。世界の命運がかかっていた。
祈るような気持ちで早乙女先生のリアクションを待つ。さあ、吉と出るか、凶と出るか。
「ふむ……まあ、それなら、高貴なあたしにぴったりかもな」
なんと、お気に召してくれたらしい。
うはは、この女、マジで頭が沸いてやがる。
思わず笑い転げそうになったが、我慢。
「気に入って頂けたようで、何よりです」
「うむ。大義であった」
うひゃー! 成りきってるよ! 20代も半ばだろうに、お姫様気分だよ、この女!
せっかく飲み込んだ笑いが再びせり上がってきて、肩を震わせていると。
「よし、神崎に褒美をやろう」
「えっ?」
「お礼してやるって言ってんだよ、ありがたく思え」
「は、はあ……左様でございますか」
「ほら、ぼさっとしてないで、こっち来い」
なんかいきなり褒美とか言われて、困惑。
ポカンとしてると、手招きされて、恐る恐る近づく。
すると、ジェスチャーで耳を貸せと言われたので、仕方なく膝を曲げて背の低い先生の口元に耳を寄せると、こんな耳打ちをされた。
「特別に、このあたしが悩みを聞いてやんよ」
「いえ、結構です」
「ええっ!? なんでだよ!?」
即座にその申し出を断ると、早乙女先生は喚いた。
しかし、いくら喚かれても、相談をするつもりなどない。
第一、信頼できる先生ならともかく、どうしてこんな女なんかに打ち明けなければならないんだ。
絶対に馬鹿にしてくるに決まってる。ゲラゲラ笑って、皆に言いふらされるのがオチだ。
そんな羞恥プレイなど、ご褒美でも何でもない。私はそれで喜ぶような特殊な性癖は持ち合わせていない。そうしたことは吉田くんの担当である。
そんなわけで、断固として拒絶すると、早乙女茜は不敵な笑みを浮かべて。
「あたしに相談すれば、必ずその悩みを解決してやるぜ?」
そんな大言壮語をほざかれても、俄には信じがたいの、だが。
不思議と、本当に何でも解決してくれるように、見えた。
それは恐らく、彼女が大人だからであり、同時にとても頼りになる存在のように思えた。
思えば早乙女茜はこの部の顧問であり、私の担任だ。友達でもなければ、先輩後輩でもない。
そんな一線を画した人間にならば、話してもいいのかも知れない。子供として大人に相談するのは、別にそう悪いことではないような気がする。むしろ一番無難とも言えよう。
けれど、どうしても気が乗らない。ちっぽけなプライドが邪魔をして素直になれない私の背を、柔らかな天使の息吹がそっと後押ししてくれた。
「なおちゃんのこと、よろしくお願いします」
そう言って、深々と頭を下げる、瀬川さん。
それにつられて、部室の奥のほうで、吉田くんも頭を下げた。
そんな2人に目を見張っていると、今度は有村くんが。
「俺からも、頼む」
頭こそ下げなかったものの、真剣な眼差しを早乙女先生に送る、有村くん。
これには私も息が詰まって、胸が痛んだ。皆、心配してくれている。嬉しいけど、申し訳なくて。
何か言うべきだと思っても、なかなか何も言えず、口をパクパクさせていると。
「たくっ……揃いも揃って、暑苦しい奴らだな」
心底面倒臭そうに、盛大にため息を吐いてから、早乙女先生はにやりと笑い。
「あたしに任せろ。だから心配すんな」
ドンッ!と無駄に量感のある巨乳を叩いて、任せろと言う。
その彼女の言葉が、泥船なのか大船なのかはわからないけれど。
試してみる価値は、あるように思えた。
「先生」
「おう、どうすんだ?」
「私の話を聞いて下さい」
「なら、ついてこい」
「それじゃあ皆、ちょっと行って来るね」
意を決して早乙女先生に相談を持ちかけると、別室に向かうこととなった。
流石にこの場では話しづらいとみて、一応、配慮してくれたようだ。まるで教師のような対応だ。
不安そうな友達に感謝を込めた精一杯の笑顔を見せてから、先生のあとに続いて、私は部室を出たのだった。




