第20話 『クレイジー』
「ど、どうしてこの子は便座に座っているの……?」
「そりゃあ、催したからに決まってるだろ」
金縛りが解け、なんとか絞り出した問いかけに、あっさりと返答する有村くん。
なに当たり前のこと聞いてんだ? みたいな態度だ。
しかし、彼が語った理由はたしかに当たり前だ。
便座に座っているのだから、それは催したからに決まっている。
けれど、私は他の理由であって欲しいと思ったのだ。
この女の子は別に催したから便座に座っているのではないと、そう言って欲しかった。
もしかしたら、ここまでの話は全て悪い冗談かもしれない。
そんな現実逃避をしてしまうくらい、私は追い詰められていた。
だって、もし本当にこの子が催していたとして、そんな画像をどうして見せる必要がある?
これまでの話の流れから、いくら疎い私にだって、この後の展開は予想がつく。
しかし、そんな予想なんて、糞食らえだ。もう嫌だ。私はどうしたらいいんだ。
ちょっと泣きそうになっている私に、彼はペラペラと饒舌にこの画像の良さを説明する。
「さて神崎、この画像の状況が理解出来たか?」
「……うん」
「それを踏まえた上で、この子の表情を見てくれ」
ずいっと、スマートフォンを接近させる有村くん。
思わず仰け反りながら、その子の表情を確認する。
恥ずかしそうに頬を染めて、何かを耐えるように唇を噛みしめている。
「……すごく、苦しそうだね」
「なんでだと思う?」
「……知らない」
「ちょっと考えればわかるだろ。便座の上で苦しそうにしてるんだから、それは当然……」
「うるさいっ!!」
思わず、怒鳴ってしまった。
荒い息を吐きながら、自分自信に戸惑う。私は、怒っていた。
たぶん、生まれて初めてキレた、のだと思う。
頭にかっと血が上って、理性を失ってしまった。
「か、神崎……」
「あっ……大きい声出して、ごめん」
「いいよ。熱くなる気持ちは、よくわかる。そのくらいこの子が魅力的だってことだよな」
我に返って、一応謝った。
しかし、全然わかってないことを抜かす有村くんに、再びキレそうになる。
なんだその言い方は。まるで私がこの状況に興奮しているみたいではないか。
たしかに興奮状態ではあるが、それは怒りによるものだ。
断じて催している女の子を見て熱くなっているわけではない。
本当にムカつく。絶対こいつは頭がおかしい。大嫌いだ。
しかし、それでも、彼は私の恩人であり、そもそも彼の好みを聞いたのは、私だ。
全て自分が撒いた種だ。ここで感情的になるのは、良くないだろう。
「ちょっとお手洗いに行って来る」
「うんこか?」
「そんなわけないでしょ!?」
冷静になるべく席を立つ私に、無神経な質問を口にする有村くん。
まあ、私が切り出したタイミングが最悪だったとしても、いくらなんでもこれはない。ありえない。
さすがにキレた。これはキレていいと思う。キレないと、私の沽券に関わる。
肩を怒らせながら、店内のトイレへと向かう。無論、用を済ませるつもりはない。
大声を出したせいで他の客の注目を集めてしまったようだが、そんなことは知らん。
怒気を吐きながら、冷たい水で手を洗う。彼との会話で汚染された自分を洗い流すように、念入りに。
もういっそのこと、このまま帰ってしまおうかとも思ったが、さすがにそれは早計だろう。
しばらく冷水に手を浸して、少しばかり冷静になる。
しかし、冷静になればなるほど、彼の非常識さが浮き彫りとなる。
明らかに常人の発想ではない。いかれている。ちっともさっぱり理解できない。
ロリコンなのは……まだいい。あれは病気みたいなものだとラノベに書いていた。
深刻な病を抱えている彼を詰るような趣味は持ち合わせていない。だから、許す。
だが、便座に座って催している少女に興味があるのは、許せん。完全に事案である。
今日得た彼の情報はどれも耳を疑うものばかりで、正直ドン引きである。
有村くんは、クレイジー野郎だった。それも、とびきりデンジャラスな男子高校生だ。
彼がただの猿なら、どんなに良かったか。あれではまるで、人に便を投げつけるゴリラだ。
それにかなりのポジティブ思考の持ち主で、とにかく主張の強い精神異常者だった。
ただ、そんな彼に助けられたのは事実であり、それが私の負い目だった。
借りを返してあげたいのは、やまやまだ。しかし、これ以上関わりたくない、ジレンマ。
というか、そんな異常性癖を持つ彼に対して、私に何が出来るというのか。
断言しよう。してあげられることなど、何一つない、と。
そこでようやく、自分の甘さを痛感した。何が、彼の力になってあげたい、だ。
人が抱えている悩みなど、大小様々に決まっている。
私はそのことをちっとも理解してなかった。
自分の尺度に当て嵌めて、それを超える事態に陥ると、こうして無力になってしまう。
こんな私を見たら、瀬川さんは幻滅するだろう。担任教師は、盛大に嘲笑するだろう。
やっぱり神崎はガキだなと、あの心底憎たらしい声音で、馬鹿にされる。
だが、どんなに馬鹿にされたとしても、もはや私にはどうすることもできない。
調子に乗って彼の秘密に触れてしまったことへの、これは罰だ。
私は罪を犯した。よって、罰を受けた。ただそれだけのことだ。
それを有村くんの所為にすることは出来ない。自分で一線を越えたのだ。
瀬川さんからの失望も、早乙女先生からの悪意も、甘んじて全て受け止めよう。
たとえそれで今晩枕を濡らす羽目になっても、全部自分が悪いのだから。
考えをまとめて、彼の待つ席へと戻る。
開口一番に、理解が出来ないと言うつもりだった。
気持ち悪いから、帰ると言って、立ち去る。
何も言わずに帰るよりは、幾分かマシだと思った。無論、自分にとっては、だが。
我ながら、最低だと思う。きっと有村くんも私を嫌いになるだろう。
それも含めて、自分自身に対する罰だと、受け入れるしかない。
凡庸な私には、クレイジーな彼に踏み込む資格はなかった。それだけのことだ。
しかし、いざ席まで辿りつくと、私は何も言えなかった。
独りで私の帰りを待つ有村くんの横顔が、とても寂しそうに見えたから。
その表情を見て、彼は自分の嗜好を理解してくれる存在はいないと悟っているのだと思った。
どうせ、誰もわかってくれない。そう言っている気がして……私は、考え直した。
ふと、自分が抱えている劣等複合のことが脳裏を過ぎる。
私はその趣味嗜好を誰にも打ち明けず、墓場まで持って行くつもりだった。
何故ならばそれは、完全に個人的なものだから。人に話すようなものではない。
有村くんの抱えている趣味嗜好も、それと同じだ。
それでも彼は、私に話してくれたのだ。
同じことを自分に出来るかと言われたら、自信はない。
それでも、思春期真っ只中の私たちの外側を向いている自意識は、聞いて欲しいと願う。
自分の秘密を誰かと共有したい欲求。それはきっと、その人と仲良くなりたいからだ。
より親密な関係を築く為に。だからこそ、彼は私に話してくれたのだろう。
そう考えると、内容はともかく、無下には出来ないと思った。
もし自分が有村くんに複合劣等を打ち明けた際に拒絶されたら、とてもとても、哀しいから。
だから私は、彼に優しくしようと、決意した。
彼が優しくしてくれたように、私も突き放したりはしない。
こんな寂しそうな彼を置き去りにして、帰ることなど、出来ない。
「お待たせ、有村くん」
「ん? お、おう、悪い。ぼーっとしてた」
「待たせてごめんね」
なるべく優しげな口調を意識して、声をかけた。さっきのことなんて気にしていないと装って。
私が戻ってきたことを知ると、彼は我に返って慌てた様子。
たぶん、自分の発言を後悔していたのだろう。そう察して、ごく自然に接してあげることにした。
誰にだって、失言はある。つい、言うべきではないことまで言ってしまうことはある。
私なんて、しょっちゅうだ。瀬川さんの一件でも、失言が多かった。
だからこそ、人の失言には寛容になろう。自分だって、そうなのだから。
ひとまず、思考を切り替えることにした。
さっきのは、なしだ。なかったことにしてしまおう。そうしよう。
有村くんもだいぶ気にしているようだし、蒸し返さないのが、お互いの為だ。
そう思って、そのことには触れないことにしようと心に決めた、矢先。
「悪かったな、神崎」
「えっ?」
「俺、ちょっと無神経だったよな……」
なんと、彼のほうから謝ってくれた。
バツが悪そうに、ガリガリと後頭部を掻く、有村くん。
そう言われると、私の中に残っていた怒りは、綺麗さっぱり消え失せた。
純粋に、謝ってくれたことがうれしかった。彼はやはり常識人だったのだ。
非常識で、クレイジーで、いかれた、デンジャラス野郎とか思ってしまって、申し訳ない。
だから私も彼に謝ろうとしたら。
「でもさ、言ってくれれば良かったのに」
「は?」
「まさか漏らすまでうんこを我慢しているとは思わなかったからさ」
はい? 何を言っているんだろう、この男は。
「ちょ、ちょっと待って、有村くん……」
「いや、いいんだ。お前は何も言わなくていい。これは俺の責任だ」
「そ、そうじゃなくて、私は漏らしてなんか……」
「とにかく、漏らしちまったもんは仕方ない。気にすんな」
「だ、だから、私は……」
「今度、新しい下着を買ってやるよ。それで腹の虫が収まらないんだったら、汚しちまった下着の処分を引き受けてもいい。ほら、遠慮せずに汚れた下着をこっちに寄越せ。大丈夫。悪いようにはしないから……」
ぶちっ!っと、頭の血管が破断した音が聞こえた。
「ふざけんな……」
「は? なんだって?」
「ふざけんなって言ったのよ、この変態野郎!!」
バンッ!とテーブルに手のひらを叩きつけて、怒鳴り散らす。
当然、周囲の客たちが驚いて悲鳴をあげるが、知ったことか。
つーか、さっきの憂い顔は私が漏らしたと思っての表情だったってことか? 絶対に許せん。
私の怒声を浴びて目をパチクリさせている彼に詰め寄って、不満をぶちまける。
「いい? 私は漏らしてなんかいない。それからあんたの言ってることなんて、何一つ理解出来ない。はっきり言って、趣味を疑っている。ロリコンの上に、も、もも催している表情が好きですって!? 一体何考えて生きてんのよ!? 信じらんない! キモいんだよ、この変態ロリコン野郎! あと、漏らしてないから!!」
一息に、胸の内を洗いざらい吐露する。
いかに思ったことをズバズバ口にする私とは言え、ここまで罵詈雑言を吐いたのは初めてだ。
ちなみに漏らしていないと2回言ったのは、それがもっとも重要なことだからだ。
そんな私の激怒を受けた有村くんは呆気に取られて、唖然としている。
よし、この隙にさっさと帰ってしまおう。そう判断して、立ち去ろうとすると、肩を掴まれた。
「待てよ、神崎!」
「なにすんのよ、離して!」
「いいから落ち着けって! うんこを漏らして恥ずかしいのはわかるが、感情的になんなよ!!」
「だから漏らしてないって言ってんでしょ!?」
どんだけ勘違いをすれば気が済むんだこの男は。
未だに私が漏らしたと信じて疑わない彼の思い込みの激しさに、神経を逆撫でされ、怒りは最高潮。
取っ組み合いを始める寸前の私たちの肩を、ポンポンと遠慮がちに叩かれる。
「すみません、お客様。他のお客様もいらっしゃいますので……」
第二ラウンドが始まった私たちを止めたのは、他でもない。
それはこのお店の……店員さんだった。
すぐに謝罪をして、深く頭を下げながら、死にたくなった。




