◆その32 ~広場での幸せなひとときは
◆その32
借りている隣の家に帰るまで、だれも絵里に話しかけなかった。
話しかけられても反応できなかっただろうから、それはとてもありがたかった。
「だいじょうぶか?」
部屋の前まできてはじめてチャスが口を開いた。
全然だいじょうぶではなかったけれど、放っておいてほしいから絵里は頷いた。
頭がくらくらして、ベッドの上に腰かける。
胸に手を置いてみるけれど、絵里にはなにも感じられない。
(ここにある力……)
還れるなら還りたい。
この世界には絵里の居場所は見つけられないから。
そうすれば……ミュリエル姫を犠牲にして、この世界はしばし永らえる。
猶予期間が終われば、また同じことを繰り返し、犠牲を捧げて時間を得る。
それがこの世界のあり方として続いてゆくというのなら、それもひとつの形だろう。
もしかしたらいつか本物の救世主が現れて、世界が救われることがあるかもしれない。
(うん、それがきっと正しい道なんだよね)
別の世界のことに手を出すべきじゃない。
なにもかも元通り。それがいい。
結論は決まっている。
……なのにどうしてこんなに心が重いんだろう。
(知らなきゃよかった)
ミュリエル姫のこと、ハイラムのこと。ランバートやチャス、ユエンにも会わなければよかった。
そしたら楽に世界を捨てられたのに。
どれくらい俯いて座っていたのだろう。
控えめにドアをノックする音に、絵里は頭を上げた。
「エリィ、起きてるか?」
チャスの声だ。
「おーい、ちょっといいか?」
「あ、はい……」
絵里はのろのろと立ち上がってドアを開けた。
絵里を見たチャスの眉が一瞬気がかりそうに寄せられ、すぐにいつもの表情に戻る。
「あのさ、今朝会ったときアーニャが言ってたと思うんだが、今日村で結婚式があるんだ。気分転換に見に行ってみねぇか」
さすがにそんな気分にはなれない。絵里は首を振り、チャスを指してどうぞと外を示した。
「わたしはいいから、チャスさんたちだけで行ってきて」
「オレだけってことか? 追手がかかってるのがわかってるのに、離れるわけにもいかねぇだろ。ま、あんな話を聞いたあとじゃ出かけたくないのも当然だ。ゆっくり休んでてくれ」
あっさりと引き下がるチャスを、絵里は慌てて止めた。
「いいから行ってあげて。わたしはおとなしくここにいるから」
絵里は自分と部屋を指し、チャスと外を指す。
「いいって。そもそも結婚することすら、村に来るまで知らなかったくらいだからな」
チャスはなんでもないように言うけれど、知り合いが結婚式をするならきっと参列したいだろう。絵里のせいで出られないだなんて避けたい。
「……じゃあ行く」
「ん、なんだ? ああ、気ぃ使わせちまったか。気にしなくっていいって」
「行く!」
押し問答していてもらちが明かない。絵里はチャスを押しのけるようにして部屋を出た。
ランバートとユエンにも呼びかけ、4人で結婚式に向かった。
どこからか、音楽が聞こえてくる。
見かける人もどこか楽し気に見えて、村全体が浮き立っているような空気が感じられた。
アーニャの家か教会のような場所にでも行くのかと思っていたが、チャスが向かったのは広場だった。
広場のあちこちに仮ごしらえのテーブルが置かれ、料理の皿が並べられている。
湯気をあげる煮込み料理、さまざまな種類のパン、鳥の丸焼き、串焼き、果物、素朴な焼き菓子などが、ふんだんに盛られていた。この村は豊かには見えないから、これだけの料理はまさに大盤振る舞いといったところだろう。
広場の一角では楽器が演奏され、それにあわせて広場で踊っている人々もいた。
女性は服の上にふわりと、男性は腰にサッシュベルトのように、カラフルな布をまとっていて、そこかしこでひらりと色彩が翻る。これが村でのおしゃれなのだろう。女の子たちは布を見比べて、はしゃいだ声をあげている。
そんな様子は絵里の感覚では、結婚式というより村の祭りに近い。
「よく来てくれたな。ほら、まずはこれからだろう」
口ひげをたくわえたおじさんが、絵里にカップを手渡してくれた。
白く濁った飲み物からは、甘い香りが漂ってくる。
どんな味だろうと興味津々で口元に持っていこうとすると、チャスの手がひょいとカップを取り上げた。
「結構強いがだいじょうぶか?」
「強い?」
「酒だよ、さ・け」
えっ、と絵里は伸ばしていた手を引っ込めた。
「無理。ってかわたし未成年だし」
首を振ってから、この世界でも未成年飲酒は禁止されているんだろうかと考える。
「飲めねぇか。んじゃ」
チャスは取り上げたカップをくいっとあおった。本当に中身が強い酒なのか疑わしくなるほどあっさりと。
その横からユエンが、別のカップを渡してくれる。今度は警戒して口に運んだが、こちらの中身は果物のジュースのようだ。さっぱりした風味は、どこか日本の梨を思い出させる。
なにもお祝いを持ってきていないことが気になったけれど、絵里は勧められるままに飲み物を口にし、食べ物を受け取った。明らかに部外者の絵里がまざっていても、村の人は気にしていない。
広場では誰もが笑っていて、やっぱり祭りのようだ。
大きな拍手が沸き上がりそちらを見ると、本日の主役、アーニャと青年がやってくるところだった。
アーニャは淡い黄色のドレス姿で、青年は服の上に紺色の袖なしの外套を羽織っている。
ドレスといっても、今絵里が着ているよりもシンプルなものだったけれど、アーニャの輝く笑顔は主役と呼ぶにふさわしい。
「本日は盛大な祝宴を開いていただき、ありがとうございます」
青年が感謝を述べると、横でアーニャがしとやかに頭を下げた。冷やかしまじりの歓声に包まれて、アーニャの頬が赤く染まる。
「この村で大事に育てられたアーニャさんを、僕の村に連れて行ってしまうことになるけれど、ここと同じようにアーニャさんが笑って過ごせるように、力を尽くします」
青年が言うまでもなく、アーニャの嬉しそうな姿から、きっとそんな未来があるだろうと信じられる。
(恋愛なのかな、それともお見合いとか紹介とかで相手が決まるのかな……)
結婚に関するしきたりは絵里にはわからない。けれど、青年もアーニャも幸せそうで、祝う側の村人たちも肩ひじ張らずに祝っていて、この結婚は皆にとって良いものなんだろうなと自然に思える。
「これからは2人で力を合わせて、良い家庭を築いていきます。まだまだ未熟な2人ですが、どうぞよろしくお願いします」
「お願いします」
青年に続いてアーニャが頭を下げると、それだけで挨拶は終わったらしい。
おとなしく座って祝辞を聞くとか、生い立ちを語るとかもなく、それからは2人は村人に交じり、食べて飲んで、しゃべって。歌って、踊って、笑って、結婚式の時間を皆の間をめぐりながら楽しむ。
絵里たちのところにもやってきて、アーニャは青年に簡単に紹介した。
「たまにこの村に顔をのぞかせてくれる、チャスとユエン、こちらの2人はそのお友だちなの。ユエンがしばらくイルゲに預けられていたことがあって、その縁でこの村とかかわりがあるのよ」
「そうなんだ。この村に来たときは、ぜひうちの村にも寄って顔を見せてください」
青年の言葉に、絵里は友だちその2ですー、という笑みを返しておいた。
(わたしにはそんなときは、ぜったいこないけど……)
胸の奥でうずくそんな思いは見せないように。
食べきれないほどいっぱいに並べられていた料理が、それでも半分くらいに減ってきたころ。
演奏されていた曲の雰囲気が変わった。これまでの楽し気な曲とは違い、同じ音が長く伸ばされる、静かで儀式めいた曲が演奏される。
広場の真ん中で、長い衣をまとった老人が曲にあわせて杖をトン、トン、と打ち鳴らした。その前にアーニャと青年が、膝をつく。
村の人たちはその周囲を取り巻いて立っている。さっきまではしゃいでいた子供たちも、今は静かに見守っていた。
老人の口から発せられるのは、単調な歌のようであり、詩の詠唱のようでもあるつぶやきだ。翻訳されているにもかかわらず、絵里はその意味をよく捉えることができなかったけれど、おそらくは祝福の言葉だろう。
長いその言葉を紡ぎ終えると、老人はアーニャと青年の腕に触れ、向かい合わせになるように立たせた。
青年が手のひらを立てて右手をのばす。
アーニャがはにかみながら、同じように右手をのばし、青年の手に手を重ねる――そのとき。
絵里は強い力で突き飛ばされ、地面に手と膝を打ち付けた。なに、と問う間もなく、
「伏せろ!」
ランバートの警告と、広場の人々のどよめき。
身をよじって振り向いた絵里の視線の先で、青年がアーニャを抱きしめるようにしてしゃがみこむのが見えた。その向こうには、空からぐんぐん近づいてくる大きな鳥のシルエット。
(魔鳥……!)
広場に鳥の影が落ち、それを追うように黒一色の鳥が急降下する。
反応できずに立ち尽くしていた老人が、翼の風圧に尻もちをついたそのすれすれを、魔鳥はかすめるように通過した。




