◆その20 ~黒き翼は不吉を運ぶ
◆
トン、ト、ト、トントン、トン……。
チャスの指が地面を叩く。
イライラしているのかと思ったが、それにしてはリズミカルだ。
(あ、もしかして……)
絵里が顔を見上げると、チャスはにっと笑った。
「これしきじゃ、大きな力は使えねぇけどな」
普段は足を踏み鳴らしてのダンスで地の精霊に呼びかけるチャスだが、この状況下ではその方法が使えない。それでもなにか備えをしておこうというのだろう。
ランバートはと見れば、地面すれすれに剣を構え、空を警戒している。その緊張はなにかあればすぐさま、飛び出す力となるのだろう。
そんな2人の背に守られている安心感と、いつ頭上から襲われるかわからない魔のものへの恐怖が、絵里の中でせめぎ合う。
わぁっと、絵里の正面側後方から声があがった。
(向こうに行った?)
それなら今は近くに魔鳥はいないのか。痛くなってきた身体の体勢を絵里が変えようとしたとき、今度は正反対、絵里の背中側前方から悲鳴が聞こえた。
タイミング的に同一の敵とは考えられない。
敵は複数だ。
「伏せろ!」
「え?」
別の場所から聞こえた声に意識を向けていた絵里はランバートの声に焦ったが、そもそも絵里にはこれ以上伏せる余地はない。
視界の壁となっていたランバートとチャスが地に伏せる。
開けた視界の先には。
(来る!)
魔鳥がぐんぐん迫り来ていた。
目が離せずにいる絵里の頭を、ランバートかチャスか、どちらかわからない手が地面に押し付けた。
耳元で大きな衝突音が弾ける。
息ができないほどの風圧。
ばさり、と確かに聞こえた羽ばたきの音。
すべてが同時。
身体が抱えられて転がる。
止まって見上げた空には明るい陽。
回転しながら飛んでゆく、あれは荷馬車?
腕を引かれても、理解できない状況に絵里の脚はがくがく震えるばかりで、立ち上がることができない。
力任せに引きずるランバートの手にすがり、絵里が身を起こしたとき。
ガアァァン!
震動を伴う大音響とともに、落下した荷馬車が壊れ散る。魔鳥が激突し、宙にはね上げた荷馬車が落ちてきたのだ。
へし折れた木切れ、翻る布、車輪、荷馬車の残骸が高く跳ね、こちらへ飛んでくる。
「……っ!」
避けられない!
来るべき痛みと衝撃の予感に絵里は息を詰めた。
が。
突如吹き荒れた砂嵐が、壁となって残骸を押し戻した。互いにふつかり撥ねる破片の音が響く。
チャスの魔法が、すんでのところで発動したのだ。
そう絵里が理解したころには、ランバートは絵里の背を抱えるようにして走り出していた。
絵里も自分のできる最大限に脚を動かし、ランバートについて走る。目いっぱい、ただただ脚を動かすことだけに集中して、ぎりぎりの速度だ。
ランバートが目指しているのはおそらく、この先にある荷馬車か荷車、とにかく身を隠せる物陰だろう。何もない荒地の真ん中にいては、敵に狙ってくれというようなものだ。
それはわかるのだけれど。
(無理、そんなに速く走れない)
泣き言を言う余裕さえない。しゃべろうと口を開いたらきっと、脚がもつれて転んでしまう。
話すどころか、息をすることさえできず、絵里はぐっと口唇を引き結びで駆け続ける。
(もうほんとにダメ、転ぶ)
絵里が音を上げそうになったとき。
身体がバランスを崩して前に飛び出した。
転んだ?
違う。突き飛ばされた。
黒いものが脇をかずめ、絵里は横転した。
脇に熱い痛みが走る。
ザザザザザ、と黒い翼が土をえぐってゆく。
転がった勢いで絵里は地面に頭を打ち付け、一瞬気が遠くなった。
ずしん、とどこかで重い音がする。
(もうダメだ……)
肩で息をするたび、脇から痛みがのぼってくる。
心臓が苦しい、息が苦しい、どこが苦しいのかわからないぐらい無暗に苦しい。
通り過ぎた魔鳥が引き返して来たら、今度こそ絵里は引き裂かれるだろう。
それでももう、動けない。
「おい、しっかりしろ」
チャスの声がして、身体が揺すられた。そんなことをされると、顔が地面にこすられて痛い。
「放って、おい、て……にげ、て……」
チャスの手を払いのけたいが、力が入らない。
「よかった、こっちは無事か」
安堵の声に、ぼんやりかすんでいた絵里の頭の一部が覚めた。
(こっち……こっちって……? そうだ、ランバートさんは……?)
何が起きたのかは把握できなかったが、おそらく襲いかかってきた魔鳥の進路から絵里をそらすため、ランバートが突き飛ばしてくれたのだろう。それで魔鳥の爪は、絵里をかすめるだけですんだ。
「ランバート、さん……」
「ほかの敵が来る前に、まずは安全なところに身を隠さねぇと。起き上がれるか?」
「ランバートさん、は?」
「無理そうだな。抱えてくか」
回されるチャスの手を、絵里は今度は払いのけた。
この世界の言葉は話せないけれど、名前は共通。チャスが聞き取れていないはずがない。わざと無視しているのは明らかだ。
めまいを堪えて頭を起こすと、吐き気が襲ってきた。
歯を食いしばって目をしっかりと開けるとそこには。
――魔鳥が落ちて、崩れかけていた。
誰かが倒したのだろうか。そんな気配もなかったけれど、さし当たっての脅威がなくなったのはありがたい。
よく見ようともう少し頭をあげると、鋭い痛みが走った。押えると手を生温かい血が濡らす。脇腹を守るように身体をまげて、絵里はその痛みをやり過ごそうとした。
その視線の先に、ランバートがいた。
うつ伏せに倒れ、動かないランバートが。
チャスが位置を変え、絵里の視界を遮ろうとした。けれど絵里の身体はなにも考えないうちに跳ね起きる。
息の苦しさも傷の痛みも忘れ、絵里はよたよたとランバートの傍へと走った。
「ランバートさん!」
呼びかけても反応しない。
身体を揺すろうとして出した絵里の手が止まる。
血まみれの背中のどこに手をつけて良いのかわからなくて。
ランバートの背は魔鳥の爪に深く大きくえぐられていた。
「ランバートさん、ランバートさんっ!」
絵里の声はどんどん大きくなり、うわずってゆく。
「静かに。ほかの敵の注意をひいちまう」
肩をつかむチャスの顔を見上げ、その目に宿る痛苦の色に気づいた途端。
「いやあぁぁぁー!」
絵里の喉から裂けそうな悲鳴があがった。
「莫迦、静かにしろって」
周囲に目を走らせチャスが片手を絵里の背に回し、もう片手で口をふさぐが、悲鳴は止まらない。絵里自身でさえ止められない。
チャスは小さく舌打ちすると、絵里とランバートを背にする位置に立った。
絵里の悲鳴を聞きつけた魔のものがこちらに気づいて向かってきている。1体、2体……少し離れてもう1体。
「弔い合戦といくか」
止まらない絵里の悲鳴をバックに、チャスの脚がステップを踏む。
やるせなさを大地へ刻み付けるように。




