◆その19 ~陽を隠すのは雲ではなく
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町でなく天幕で夜を過ごした翌朝は、絵里の目覚めは早い。
それは寝心地がどう、という話ではなく、一刻も早くここから出たいから、という身もふたもない理由からだったりする。
目が覚めてすぐ身を起こすと、その気配で目覚めたミラが絵里の洗面の準備に動き出す。ヨランデも同時に起きるが、こちらは自分の準備をしているだけで、実質絵里の面倒を見るのはミラだけだ。
ヨランデがいる意味がどこにあるのか知らないが、ミラに指示を出す以外、仕事らしいことをしているのを見るのはまれだ。絵里をお目付け役のように、じっと眺めていることが多いが、あれが仕事というなら不毛すぎる。
ミラはいまだに絵里に対する態度はびくびくしているが、手際はよくなってきていた。もしかしたらミラも絵里が早く天幕から出て行くことを望んでいて、そのために手早いのかもしれないが。
洗面を終えて、出してくれたドレスを着て、と絵里はてきぱきと朝の身支度をしていった。ヨランデとミラのいる天幕での寝泊りを受け入れているのだから、それ以上譲歩するつもりはない。
ドレスを着終えて椅子に座ると、ミラが髪を梳かしつける。結い上げるのは嫌だから、梳かして髪飾りをつけるだけだ。
「あ……」
髪を梳かしていたミラが手を止めた。
「どうかしましたか?」
目ざとくヨランデが訊くと、ミラは手にしていた櫛を見せた。
「櫛の歯が……」
縁起悪っ、と絵里は反射的に思ったが、この世界では縁起なんて担いだりしないのか、それとも不吉の前触れに櫛の歯が折れる、なんてのは入っていないのか、
「救世主様の頭をひっかいたりしたら大変です。取り替えていらっしゃい」
ヨランデはミラにごく普通に命令しただけだった。
「もう十分梳かし終わってますから、出かけます」
足止めされてはたまらないので、絵里は髪を撫でつけ、自分で髪飾りを留めつけるとさっさと天幕を出た。
天幕の外には騎士が控えていた。
ランバートとて眠ったり休息をとったりしなければならないため、夜の間は絵里の護衛はランバートから騎士へと引き継がれているのだ。
騎士は天幕から出てきた絵里に軽く頭を下げ、後ろからついてくる。どう命令されているのか不明だが、これまで特になにも止められたことはないから、絵里は気にせず歩き出した。
空には雲1つ無く、よく晴れていた。
食事の支度をする煙が立ちのぼっている。
天幕を畳んだり、馬に餌をやったりと、外ではすでに多くの人が働いていた。
おはようと挨拶しながら、絵里はユエンの荷馬車に向かった。
「おはようございます」
ユエンに挨拶して、荷馬車にあがりこむ。ユエンはいつものように絵里の顔に視線を当て、すぐに元のように前を……今日は向かなかった。
絵里を見、自分の膝に視線を落とし、もう一度絵里を見る。
「どうかしました?」
あまり話しかけないようにとチャスから注意されていたけれど、つい聞いてしまう。けれどユエンは答えず、また視線を落としてしまった。
そんな状態のユエンの隣にいていいものか迷うけれど、来たばかりで去るのもおかしいから、絵里はそのまま隣に腰かけた。
ランバートが来ると騎士は前方へと戻り、その後はランバートが絵里の護衛をする。チャスがその補助のような位置にいて、困りごとや聞きたいことがあるときはハナに助力を求める。
荷馬車に揺られるのに飽きると、ほかの人たちのところへ行って、何をしているのか眺めたり、言葉を教えてもらったり。
それがここ最近の絵里の毎日だ。
言葉のほうはなかなか上達しなくて、片言……というよりむしろ、海外アーティストが付け焼き刃で教えてもらったいくつかの言葉を口にして、観客の受けを取るレベルにとどまっている。こちらの世界の言葉を話すと周囲の人に受けるところまで同じだ。
ベイジルに教えてもらったミュリエル姫が好きだという歌を、いい加減な歌詞をつけて歌っていると、ご機嫌だなとチャスが笑った。
チャスは曲に聞き覚えはなさそうだ。
(神殿学級の歌、だっけ。学校とは違うのかな)
そもそもこの世界には学校はあるのか。
旅の同行者に、完全に義務教育期間に入っていそうな年代の子がいるから、学校があるとしても日本とは違う形態だろう。
(歌詞をちゃんと聞いたら、神殿学級のことがわかるかも。ベイジルさんに歌ってもらおうかな)
そう決めて、絵里は荷馬車からぴょんと飛び降りた。
いつもベイジルがいるのはもっと後方だ。足を止めていれば後ろの人が追いついてくるだろうけれど、絵里はのんびりと後方に向かって歩き出した。
朝の行列はいつもより少し静かだ。
まだ調子が出ていないのか眠いのか、ぼんやりした表情の人が目立つ。
下働きの人は野営の際、天幕にぎゅうぎゅうに詰め込まれるらしいから、疲れが取れないということもあるのだろう。
絵里の後ろから、ランバートとチャスが話しながらついてくる。話しながらと言っても、聞こえるのはチャスの声ばかりで、ランバートは短い受け答えをしているだけだが。
――どちらが早かったのか。
雲1つなかったはずの空が突然曇ったのと。
ランバートに乱暴に腕を引かれ、絵里が後ろざまに転ぶのと。
肘を擦りむきお尻を地面に打ち付けた絵里の視界を黒い影が横切る。
シルエットは鳥。
だがその大きさは絵里が知る鳥のサイズではない。
両翼の差し渡しは、大人が2人並んで手を広げた長さを超える。
茫然としている絵里を、ランバートが更に引っ張った。
絵里は身体が傾いたまま、片手を地面に突っ張り、かろうじて引かれた方向に移動する。
ランバートに荷馬車の陰に放り込まれ、転がった身体が車輪にがつんとぶつかった。
脇腹に走った痛みに息をのむと、ランバートとチャスの背が盾のように絵里の視界をふさいだ。
「どうする?」
「鳥型は厄介だな」
列は散り散りになり、この荷馬車の周囲には何もない。空から狙ってくる相手に見つからぬように移動するのは困難だ。
「あいつはかなりでかかった。戦力が集まらねぇと倒すのは難しいな」
チャスがうなる。
遠くから悲鳴が聞こえた。前方側からだ。
「前に行ったか? 今のうちにもうちょっとマシな場所に移動するか?」
チャスの提案を、ランバートは退けた。
「別の奴かもしれん」
「そこは賭ってことで」
「今は賭はできん。こいつが狙われた」
ランバートの言葉に、絵里の身体が我知らずびくっと跳ねた。
「一直線に狙ってきた。また来るかはわからんが、用心は必要だ」
「んじゃ、ここで待機だな。荷馬車ん中、入ってもらうか?」
「動きが制限される」
「了解」
ランバートに答えたあと、チャスは荷馬車の下にもぐりこんだ形になっている絵里をのぞきこむ。
「怪我はしてねぇか?」
「はい」
チャスに訊かれ、絵里は頷いた。
最初に引っ張られたときに腕を、地面についたとき手のひらに、擦り傷ができていたがこの状況でそれを怪我とはカウントしないだろう。
絵里はそろそろと身体を回し、仰向けから外に身体を向けた横臥へと体勢を変えた。起き上がるには絵里のいる場所は狭すぎて、それくらいしかできなかったのだ。
ランバートの目はずっと空へと注がれている。
あの黒い鳥は本当に絵里を狙っているのか。
考えていると息苦しくなってきて、絵里は喉元に手を当てた。




