◆その1 ~召喚するならそれなりの仕方があるんじゃないですか?
◆
スポットライトの中で、人の王女と森の王が向かい合う。
強く呼びかけ足を踏み出す王女に一旦背を向け、森の王は考える時間を取る。それに合わせてBGMもフェードアウトし、舞台に沈黙が満ちる……。
「……っ!」
不意に腕をつかまれ、古坂絵里は漏れそうになった声を慌てて手で封じた。振り返ればそこには同じ演劇部の松田がいて、声には出さずに「見えるよ」と口を動かした。
出のタイミングを計ろうとしているうちに、袖の端によりすぎていたようだ。
絵里は松田に頷いて、少し下がった。絵里の役は森の妖精。さきほど王女の前でダンスを披露したときの白い衣装は、今はべっとりと血のりで汚れている。
2人が和解した瞬間、人の裏切りを告げて走りこむ役なのだから、うっかり登場前に観客に姿を見られたりしたら、かなり興ざめなことになってしまう。
「緊張してる?」
ささやくようにそう聞いておきながら、松田はすぐに違うかと笑う。
「古坂さんならそういうことないよね」
ぽんと背中をたたいて離れていく松田の言葉に、絵里は小さな痛みをおぼえる。
落ち着いてる、おとなしい、穏やかだ。そんな風に言われることが多いけれど、絵里は自分では全くそうだとは思えない。今だって本番を前に緊張しているし、動揺している。ただ感情を外に出すのが苦手なだけだ。
深呼吸に紛らわせてため息をつくと、今度は位置に気を払いながら、絵里は舞台を見守った。
森の王がゆっくりと王女を振り向き、足を踏み出そうとする。
――今だ!
「王よ……!」
かすれた必死の声をあげながら、絵里は下手袖から舞台中央へと駆け出した。
まぶしいスポットライトが絵里を捉え、目がくらむ。けれど練習の感覚を頼りに絵里は走り、足がもつれたように倒れこんだ。
舞台の床に顔を伏せた絵里には周囲の様子は見えない。だがすぐに王が助け起こしに来る。そこで最期のセリフを言ってがくりと首を垂れれば、絵里の出番は終了だ。
けれど……。
かなり待っても、誰も絵里を抱き起こしにこない。
(どうしちゃったのかな。何かトラブル? 佐野君、進行忘れちゃった?)
森の王役の佐野はセリフ覚えもいいし、普段まったくといってとちらないけれど、何が起きるのか分からないのが舞台というものだ。
不安になってくるが、絵里が起き上がったら完全に舞台は壊れる。もう芝居は失敗だと確信できるまでは動けない。
絵里は耳を澄ませて周囲の状況を探ったけれど。
(何も聞こえない……?)
セリフも、絵里が登場したと同時に始まるはずの不穏な音楽も、芝居が止まったことによる観客のざわめきも、何も聞こえない。
芝居は続いているのか、それとも。
絵里が息をつめ、全身で周囲の状況を捉えようとしていると。
「あの……大丈夫かの?」
しわがれた声が、ごく控えめにかけられた。
誰の声だろう。森の王役の佐野くんではないし、王女役の三嶋さんでもない。そもそも、こんなおじいちゃんみたいな声の人、北川田高校の演劇部にはいない。
(先生?)
自分とかかわったことのない先生なら、聞き覚えのない声でも不思議はない。でもそうだとしたら、舞台は完全に終わっている。
(もう……がまんできない)
これまでずっと耐えていたが、こうしているのももう限界だ。状況を把握したいという気持ちに負けて、絵里は首を左にひねりながらゆっくりと顔を上げた。
白い――。
周囲はふわふわした白に満たされていた。
霧、それとも綿。距離感がつかみにくい、白くもやもやと明るいものに囲まれているだけで、舞台も風景も何もない。
そのまま半身を起こしぐるっと首を回すと、こちらをのぞきこんでいる老人の姿が目に入った。
絵里もかなり小柄だが、老人はそれよりかなり背が低い。並んで立ったら絵里の肩ぐらいではないだろうか。わずがに灰色がかった白い衣はずるずる長く、ウェーブのかかった豊かなひげも衣と重なり床に広がっているのに、頭髪はない。
心配そうだったその表情は、絵里と目が合ってほっと緩んだ。
「おお生きておったのか。もしや転生勇者を間違えて召喚して、死体がやってきたのかと懸念しておったのじゃが。怪我は大丈夫かの?」
怪我?
絵里は自分の身体に視線を落とした。白い衣装とそれを無残に汚す血のしみ。この姿で倒れていたら重傷を負った怪我人か、死体に見られても仕方がない。
「怪我はしてません……。ただの血のりです」
まだぼんやりしたまま絵里は答えた。
「おお、よかった」
老人はやれやれと力を抜いたが、絵里の疑問はふくれあがるばかりだ。
聞きたいことばかりで喉が詰まる。けれどやっと口にできたのはごく普通の質問だった。
「ここ……何ですか?」
「世界のはざまじゃよ」
難しい言葉ではないのに意味が理解できなくて、絵里はただそれを繰り返す。
「せかいのはざま……」
「そう、ここはそなたのいた世界と、別の世界の間の場所じゃよ。まぁ正しくいえば、ここはすべての世界の間に位置するといえるのじゃがな」
老人はすっと身を起こすと、慣れた口調で話し出した。
「いきなりでさぞや驚いていることじゃろうが、そなたは今までいた世界から、別の世界に喚ばれたのじゃ。とはいえ、いきなり生活も習慣も言葉も必要な資質も違う世界へ喚ばれても困るじゃろう? また、喚んだ側とて何も出来ぬ者が現れても事態の解決は望めぬ。じゃから、喚ばれた者に必要な知識や力を与え、喚ばれた世界の助けとなれるようにする、そんな場所が必要となる。それが2つの世界の間にある、ここ――世界のはざまなのじゃよ」
すらすらとした説明は、絵里の理解の外を流れ落ちてゆく。
「意味わかりません……」
「ふむ」
老人は長いひげをしごいた。
「召喚という言葉は聞いたことあるかの?」
「アニメとかでなら」
「それなら話は早いの」
老人が手をかざすと、そこには大小さまざまな球体が浮かび上がった。
大きく輝く球、青みを帯びた球、赤い球、ドーナツのような輪を持つ球……。絵里にも見覚えがあるそれは、太陽系の模型だ。
「そなたのいた世界なら、この説明がわかりやすいじゃろう。これは惑星じゃが、世界もこんな風に点在しておる。この星ひとつひとつがそれぞれの世界。今わしらがいるのが、星と星の間の宇宙空間のような場所。世界は中心となる大世界を取り巻いて、さまざまな軌道で回っておる」
老人が手を振ると星は増え、そこに軌道の線が現れる。惑星の軌道のような円もあるが。それよりも彗星の軌道のような長い楕円形が目立つ。
「それぞれの世界は中で完結しており、基本的に交わることはない。じゃが、その中では解決できないと思われる問題が起きたときに、人は別世界の力を求めることがある。大きな犠牲を伴う行為じゃが、苦しいときに別の力を欲するのも人の性なのじゃろう」
重々しく首を振ると、老人は再び絵里と視線を合わせた。
「ある世界が別世界の力を欲し、召喚の議を執り行った。召喚の道はよく似た二世界間に開かれる。あまりにも違う環境では、喚び出された者が世界に馴染まず力を発揮できないからじゃろう。その際にたまたま近くにあった喚び出した側に似た世界が、そなたのいた世界。そして喚ばれたのがそなたというわけじゃ」
「困ります、そんなの」
「じゃから、それを困らぬように知識と力を……」
「そうじゃなくて、別の世界とか、いきなりそう言われて困る!」
相手がお年寄りだからと一応は丁寧にしゃべっていたのも忘れて、絵里はがしっとばかりに老人の衣をつかんだ。
「ややや……」
「わたし舞台の途中なの。抜けたら舞台が滅茶苦茶になる。そうじゃなくたって、急にいなくなったりしたら大騒ぎになるし、そもそも別の世界になんかいきたくない……元に戻して!」
「出来ぬのじゃ」
「そんな……っ」
「……すまぬ。わしはただの案内人。召喚を止めてやる力はないのじゃ」
肩を落とした老人の身体はとても小さく見えた。
「どうすれば戻れるの?」
「わからぬ」
老人の返答に絵里の足から力が抜けた。ぺったりと地面に座り込む。
「そんな……」
「じゃ、じゃがわしは、送り出した者の帰り路として再びここであいまみえたことがある。帰る方法はあるはずなのじゃ」
無事に戻るためにも、と老人は縮まっていた背を伸ばした。
「ここでそなたに必要なものを与えるとしよう。まずは世界の知識、そこで生き抜く力……そなたには剣か魔法か技術か、なにが合うかの。あとは幾ばくかの金銭と道具、その世界にふさわしき服装も……ぬおっ」
ふむふむと考えていた老人が、急にのけぞった。
「ふえっ?」
同時に絵里ものけぞる、否、首根っこをつかまれたような体勢で、座ったまま後ろに引きずられる。
「まだ何も与えておらぬのに、連れて行かれては困る。少し待つのじゃ。これ、待てと言うておるのじゃ、焦るでないぞ」
老人の抗議にも、絵里を引きずる力は緩まない。
「え、え、ええええ」
絵里は手足をつっばって抗ってみるが、霧が固まったような地面はまったく抵抗の役に立たない。
そうしているうちにも絵里の身体は引きずられてゆく。
「待て、待つのじゃ! ……ええい」
いまいましげにひげを跳ね上げると、老人は腕を振りかぶった。
「ほれっ」
絵里に向かってボールを投げるような恰好だが、手には何も持っていない。けれどもし何か持っていたとしたらそれが命中しただろうタイミングで、空気の固まりが命中したような感触がした。
と同時に、脳裏に光がはじけた。
「ほれ、ほれ、ほれぇっ」
絵里まで届くものもあれば、途中で落ちたのかまったく何も感じないこともある。
「せめてスキルだけでも持ってゆくのじゃー」
「おじいちゃん……」
気持ちはありがたい。けど。老人の投擲力は優れているとはいえず、絵里まで届くものが少ない。
(できれば野球選手みたいな案内人が良かったな……)
一体どのスキルが届いて、そのスキルがむなしく落ちたのかもわからないまま、絵里は引きずられていったのだった。