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二章(3)

 イリスの言葉を聞き、彼は何か言いたそうに口を開きかける。しかしそれが言葉を放つ前にざりざりと耳障りな音が耳に入り、二人は息を潜めた。

「ど、どこに行きやがった、あのクソガキ共……あの女も、くそっ、くそっ……じゃ、邪魔しやがって」

 おぼつかない足取りの男が、じっとりと濡れた瞳で辺りを睨め回しながらこちらの方へと歩いてくる。見開かれた目は忙しなく揺れ動き、大振りなナイフは剥き身のまま。ゆらり、ゆらりとおもむろに、しかし確実に近付いてきていた。

「……この先は」

「行き止まりではありませんが、障害物もない通路です。それに、これ以上先に進むと表通りのすぐそこまで出てしまう」

 前進は不可能ということか。

 小さく舌打ち、イリスは思考する。奇襲、不意打ち、騙し討ちはお手の物だが、正直なところ直接的な戦闘はあまり得意ではない。それこそ護身術程度――いや、それにすら及ばぬ、スラム生活で嫌でも覚えた逃げ遂せるための術。それゆえに誰かを守りながら、というのは無理だ。他者を蹴落とし意地汚く生き残る、それだけのものだった。

 ならば出来ることは一つ。囮になり、この幼い国王が逃げるだけの時間稼ぎをする。

 意を決して物陰から躍り出ようとしたところで、イリスの腕が力強く掴まれた。

「ある程度時間を稼げば、僕の近衛兵が話を聞いてやって来るはずです。だから、イリスはそこで大人しくしていてください」

「何を――っ」

 反論は、脇腹の激痛に遮られた。とんっ、と軽く、彼が小突いたのだ。

「女性なんですから、体は大切にしてください」

 冗談交じりの声に、少し引きつった笑顔。

「これでも護身術程度は習っていると、そう言ったでしょう? それに、僕だって男です。そう何度も女性に助けられるっていうのは、情けなくて仕方がない」

 止める間もなく。

 イリスを引っ張り倒し、入れ替わりに少年は勢いよく飛び出した。ぎょっとした表情の襲撃者目掛けて、幼き王は裂帛と共に駆け出した。咄嗟に伸ばしたイリスの手は何も掴めぬまま――ただただ虚空を握りしめる。



「おおおぉっ――!」

 声が震える。冷たい汗が背中を伝う。足が絡まりそうになる。

 それでも、自分が行かなくては。自分がどうにかしなければ。それが出来なくて、どうしてこの国の頂に居られようか。国民を幸せに出来ようか。

 ロウは自分自身に言い聞かせる。恐怖も、焦燥感も、どうしてか溢れ出しそうになる涙も、全てを飲み込んで襲撃者の男に向かって行く。

 不意を突いたつもりだったが、しかし男の対応は早かった。すぐに迎撃の体勢を取り、粘着質な笑みを浮かべて唇を舐める。

「わ、わざわざ自分から出てくるなんて、へへっ……ふへっ……ば、馬鹿な野郎だぁ」

 もはや目的は達したと言わんばかりの表情。その油断を――絡めとる。

 男から数歩離れた距離で急制動。身を屈め、地面に手を着き、腕立ての要領で体を浮かせてナイフを持った手を蹴り上げた。

 鈍色が宙を舞う。苦悶と驚愕の表情を浮かべた男に、追撃。素早く体勢を立て直しての足払い。辛くも交わされるが、男は武器を失いながら後退を余儀なくされる。

「ふぅっ――」

 無意識に止まっていた息を、深く吐き出す。取り敢えず、ではあるものの、思惑通り武器を手放させることは出来た。これで無抵抗に、一瞬の内に殺されてしまう危険性は排除した。後は素手と素手――ではない。

「こ、このクソガキッ……! ころ、こっ、殺してやる……っ」

「おっと」

 極めて優位性を見せ付けるように。余裕ぶって。虚勢を張って。

 ロウは小振りなナイフを取り出して見せた。それは物陰を飛び出す際のどさくさに紛れて拝借した、イリスの愛用品。

「動かないでください」

 震えそうになる手を、どうにか押さえ付ける。刃物を握ることに恐怖心はない。だが、それを人に向けるとなれば別だ。触れれば身を裂き、突き立てれば簡単に死んでしまう。凶器。その言葉の意味と重みは、質量を持ってロウの腕に訴えかけていた。

「へ、へへ……」

 へらへら、と男は手を上げて笑って見せる。

「なんだぁ、あんた、そりゃあ……殺そうって気概が、微塵もないじゃねぇか」

 わかっている。その通りだ。だが、時間を稼げればいい。長くは持たない牽制だろうと構わない。自分だけが武器を持っている、その優位性こそが重要なのだ。それだけで相手は迂闊に手出し出来なくなる。

「貴方は何故僕を狙うのですか」

 後は、会話による時間稼ぎ。そして疑問。

「そりゃあ……金、金のためさぁ……他に何があるってんだい」

「誰に頼まれたんですか」

「言えねぇなぁ……あ、あんたが代わりに金をくれるってんなら、へへっ……教えてやっても良いけどよ」

 とぼけたように男は答える。

「無駄よ、そんなこと聞いたって」

「イリス……」

 脇腹を押さえながら、イリスが物陰から出てくる。恨めしそうな顔の理由は、脇腹を小突いたこととナイフを拝借したこと、どちらだろうか。

「こういう手合いは話にならないわ。会話しているようで、そうじゃない。出し抜く算段をしているだけ」

「けへへっ、嬢ちゃん、よくわかってんなぁ……よく知ってんなぁ……」

 面白そうに。可笑しそうに。

 否定することもなく外套の下にある瞳が細められ、嬉しそうに嗤う。

「平和ボケしたこの国じゃわからないかもしれないけど、人は狡猾でずる賢いものよ。そして中にはお金のためになんだってする人間もいる――そういう人間を使う側もいる」

「それは――ゾッとしないですね」

「そうね、そうよね……それが正常な反応よ。無知ではあるけれど、罪ではない。知らないままでいられるのが一番だし、想像もしないで済むのが最良よ」

 苦々しく、吐き捨てるように。

 少女の表情は、嫌悪感に塗れていた。

 自分と変わらない年頃の少女――それなのに、見て来た世界は全くの別物だったのだろう。きっと自分は恵まれていた。綺麗なだけの世界で、優しい人たちに囲まれて、何かに真っ直ぐ取り組むことを許される場所で生きて来た。彼女の内情も、これまでも、ロウには何もかもが想像出来ない。

 罪ではないと彼女は言ったが。

 やはり罪に違いないとロウは思う。

 知らなければ慮ることも、手を差し伸べることも出来はしないのだ。

 もどかしい――自分には知らないことが多すぎる。出来ないことだらけだ。助けてくれた少女がこんな表情を浮かべているのに、どう声を掛ければ良いのかすらわからない

 ――不意に。

「ロウッ――!」

 どん、と衝撃。視界にはイリスの小さな背中。

 既視感。

 始めに助けられた時と同じ光景。

 違うとすれば。

 手負いの彼女の動きは鈍く、襲撃者が隠し持っていたナイフは――端からイリスに向かって伸びていた。

 ああ――これはダメだ、避けられない。

 迫りくる鈍色を前に、イリスは諦めにも似た感想を抱いた。

 走るだけなら問題はなかった。しかし身を捩り、かわすというのは、負傷した脇腹が許してくれない。恐怖はない。感慨もない。何もない――それが少しだけ悲しいと思った。

 悔いを残せる程、自分は何かをしてきたわけではなかったのだと実感する。ただ生きるだけだった。成されるがままに野たれ死ぬのが嫌なだけだった。楽しいことも悲しいことも辛いことも、何もかもに不感症になって生き延びているだけだった。

 それが今、終わろうとしている。着々と、死の気配が迫って来る。

 最期に少しは何か出来たかな、と思う。平和ボケした王国の、甘ちゃんな国王陛下をお救い出来たのだ。受勲ものだろう。何と誉高いことか。心にも思っていないけれど。

 しかし、何かを成すことは出来たという充足感はあった。守りたいものを守るために、一生懸命になれた。それがとても懐かしく、また新鮮で、何故か涙が零れそうになる。

 嬉しい――嬉しいのだ。心のままに行動し、それが意味ある行為となった。悪意も背徳感もない、ただただ有り触れた善行。信ずるままに行動できたのなんて、一体いつぶりのことだろうか。

 死を直前にして、イリスは生きているのだと実感した。

 元々ないはずだった悔恨は、そうしてやはりなくなった。

 ようやく無為の日々から解放されるのだという安堵感と、最期に成すことの出来た満足感を胸にイリスは瞼を閉じる。

 ああ、本当に……だけどもう少しだけ、生きていたかった……――


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