二章(2)
「相変わらず元気だなぁ……」
とてとて、と歩く姿を形容すれば可愛らしいものだが、引く手は強く、また幼いゆえに気遣いもない。毎度のことながら、ロウは苦笑を浮かべる。
「おーじはげんきじゃないの?」
背中を押していた少女が不思議そうに首を傾げる。
「いいや、元気だよ。元気過ぎて中身が漏れちゃうくらいね」
元気の過剰摂取である。子供たちと一緒にいると楽しいし和やかな心持ちになれるのだが、如何せん元気に過ぎる。
「もれちゃうならふさげばいいんだよ!」
「わぷっ」
そう言って、今度は手を引いていた少年が小さな両手で口と鼻に蓋をした。成程道理だ、穴を塞げば漏れることもない――息を吸うことも出来ないのだけれど。
優しく少年の手を振り解き、
「大丈夫、大丈夫だよ。ありがとう、だけど次からは勘弁してね……」
空いた手で少年の頭を撫でて、苦笑。無邪気というのは時に恐ろしい。にしし、と得意げに笑っているのだから、きっとまた同じようなことを口にすれば同様の対応となるに違いない。気を付けなければ。
暑くもなく寒くもない、心地の良い陽気。今日の予定は、しかし未定。幼き獣の如き少年少女に連れられて、あっちへこっちへ右往左往。平和だ。いつも通りの平和だ。きっといつまでも続く、そうなるように頑張っている平和な日常だ。
――そんな折。
「後ろっ――!」
つんざくような、叫ぶような少女の声が耳を突いた。
反射的に振り返り、捉える。
たなびく黒衣。欲望に濡れた瞳、歪に浮かべられた笑み。突き出された両手の先には鋭い鈍色の輝き――的確に心臓を狙って繰り出された、殺意の塊。恐怖を感じる間も、驚く間もなく、それは吸い込まれるようにロウの胸へ伸び――
「っ――!」
どんっ、と衝撃。仰け反り、纏わりついていた子供たちと共に倒れ伏す。
乾いた地面に朱色が散った。さりとて痛みはなく――見上げた先に、艶やかな黒髪が揺れていた。その下にある少女の顔は苦悶に歪みながらも安堵したように笑みを浮かべ、決したように振り返る。
宿屋で貸し与えられる質素な服装、その脇腹から真紅の滴りがあった。
「君、怪我を……」
「いい。私に構う前に、その子たちを連れてさっさと逃げなさい」
「逃げるって……」
何が起こったのか理解が追い付いていない。だが、少し時間が経てば理解した。
――暗殺。
そういうにはあまりにもおざなりか。時間も人目も弁えず、ただただ殺そうという意思を行動に移しただけのもの。それゆえにわかりやすく、また、空恐ろしくもあった。形振り構わぬ情動、それの狂気を目の当たりにした。
自然、体が震えた。手足が悴んだように寒気を帯び、無意識に後ずさる。覚悟がなかったわけではない。王族という立場上、いくら小国であれど多かれ少なかれこういった事態に直面することもあるだろうと思っていた。思ってはいたが――いざそうなると、ただただ恐怖するだけだった。
情けない、情けない、情けない……。
「おーじ……?」
突然のことに、子供たちも目を丸くしていた。それが恐れるべき出来事であることもわからず首を傾げ、しかし不安そうな表情を浮かべていた。
「……ごめんね、大丈夫だよ」
虚勢。だが、それで十分だった。威厳はないかもしれない。まだまだ幼く、王という器に足る人間ではないかもしれない。でも、それでも、守ると決めた。父や母がそうしてきたように、あの背中に追い付けるように。国民を――大好きで大切な物を守ると、決めたのだ。
震える膝に手を着き、踏ん張り、立ち上がる。
「誰かこの子たちを頼みます!」
騒めく民衆に声を張り、告げる。ハッとした面持ちで誰ともなく駆け寄り子供たちを抱え、そうしてロウの手を引こうとする。
「僕は大丈夫です。その子たちを連れて、どうか安全なところへ」
「し、しかし王子……」
「あはは、だから、僕は一応国王なんですけどね」
情けない姿を晒してしまった。不安にさせてしまった。国王たる者、毅然としていなければいけないのに。
「あんたもさっさと逃げなさいっ」
自分を庇うように立つ少女が声を荒げる。見れば、いつかの異国の少女。手には小振りなナイフを携え、必死の形相で黒衣の襲撃者を牽制していた。
「もちろん逃げますよ、だけど……!」
民衆が子供たちを連れて下がったのを確認し、ロウは少女の手を握る。呆気に取られた風の少女を尻目に、ロウは全力で襲撃者に背を向け駆け出した。
「な、何を……!?」
「貴女も一緒に逃げるんですよ!」
手を引かれ、転がるように走り出し、イリスは困惑していた。
何故、この青年は自分の手を取ったのだろう。逃げれば良かったのだ。襲撃者にも、自分にも背を向けて。そうしてもらいたかった。衝動的に飛び出しはしたが、きっとそれが自分の望みだったのだから。
贖罪、というのでもないだろう。ただただ衝動的に体が動き、喉を震わせ、この幼い王を――彼を取り囲む微睡みにも似た穏やかな光景を助けたい。心の奥底の何かがそう叫んだのだ。
だからきっと、イリスの行動は利己的で、自己の欲求を満たすためだけのもので――見返りも、感謝も、何も欲しくはなかった。守れたと安堵したかっただけなのだ。
それなのに。
「何を、考えているのっ」
狭い路地裏。埃に塗れ、人影もない、寂しく暗い通路を駆け抜けながら疑問を呈す。
彼が手を離す様子はない。むしろ懸命に、手放すまいとしている風にさえ感じられた。手汗が滲み、不要なまでに力を込め、見るからに怯えているくせに。
ひとしきり駆けた後、追跡者の影が見えなくなったのを確認して物陰に体を潜ませる。少年はむせ込みながらも息を整え、言葉を返した。
「何を、と言われるほど考えてませんよ……だけど、貴女は命の恩人だ。それも殆ど見ず知らずの他国の人だ。そんな人に助けられて、何もかも放り投げて自分だけ逃げるなんて、出来るはずがないじゃないですか」
それに、と苦笑を浮かべて冗談交じりに続ける。
「どうせあの襲撃者の狙いは僕でしょう? だったら逃げても追ってくる。貴女が食い止めてくれるなら確かにそれは最良かもしれませんが――掻い潜られては僕に成す術はありませんからね。だったら一緒に逃げてもらって、直接身を守ってもらった方が建設的です」
「……可愛い顔して意外と打算的ね」
「一応これでも一国の主ですから」
あはは、とわざとらしい声。
少年の真意がどうであれ、確かにその考えは現実的で、やはり建設的だった。伊達で国王の座に就いているわけではないらしい。あの状況で、きちんと頭を働かせている。年相応に見えて、その度量は確かなものだった。
「その割にはずいぶんと怯えているようだけれど」
「まあ、それは否定出来ませんね……見ての通り平和ボケした国です。こんな経験、初めてなもので」
物陰から顔を覗かせながら、少年は答える。
「でも、想定していなかったわけではない。護身術もそれなりに習いましたし、体力にだってそこそこ自信があるんですよ」
結構な距離を走り、もう息が整っている。その言葉に偽りはないのだろう。足りないのは、実際の経験。命を狙われる恐怖、相対するための心持ち、そういったものが彼にはまるでない。
「それに貴女……ええっと、お名前をお聞きしても?」
「……イリスよ。ロウ・アペレース・エレイネ陛下」
「ロウで結構です、イリスさん。国王という肩書は所詮肩書でしかない」
「だったら私もイリスで良いわ」
「ではイリス。貴女こそ、傷を負ってまで僕を庇ってくれた」
少年は顔をこちらに向け、柔らかく微笑む。綺麗な青色の瞳が瞼の奥で陰り、イリスの脇腹へ視線を向けていた。
「僕にはそちらの方が不思議です。殆ど見ず知らずの……数日前に一度会っただけの僕を、そこまでして助けてくれた理由とは何ですか?」
「それは――」
言葉に詰まる。どう答えて良いものかわからない。何せ自分自身、衝動のままに駆け出していたのだから。己にさえ理解し得ないものを他者に説明することなど出来るべくもない。
一つだけ確かなのは、守りたいと思ったから。彼だけでなく、その周りも。雰囲気とでもいうのだろうか。ロウという少年が纏うそれらを踏みにじられたくなかった。
「別に、気が向いただけよ」
中々どうして、しかし口には出したくなかった。どこか気恥ずかしい。そして後ろめたい。もはやその気も失せたとはいえ、元はといえば彼を殺すためにこの国へやってきたのだ。耳障りが良いだけの文句をどうして口に出せようか。