二章(1)
イリスがこの国に足を踏み入れて、数日が経った。何事もなく、何もする気にもなれず、惰性のままに――ただただ時間だけを浪費した。
宿の簡素な一室。そこに設えられた寝台に横たわり、ぼんやり天井を眺める。虚ろな目は移ろい、おもむろに瞼を閉じ、また開く。その繰り返し。
毒気を抜かれた、とでもいうのだろうか。初日にこの国の王と出会い、話し、そうして何もかもやる気を削がれてしまった。腕の問題ではない。そうであればどれほど良かったことか。根本的に、不可能なのだ。誰かの幸せを踏みにじることなんて出来ない。
確かにこれまで殺してきた者の中にだって、家族がいて、友人がいて、悲しむ者が居たのだろう。それでも熟してこれたのは、それに見合うだけの報酬と、侮蔑を抱くに値する人物ばかりだったからである。
それがどうだろう。あの王は。ロウ・アペレース・エレイネという少年は。
優しそうだった。温かそうだった。幸せそうで――周りにいる子供たちも、やっぱりそうで。
あの光景を、壊せというのか。それは人の所業ではない。悪魔か鬼か。そういった類の、人外の所業。まどろむほどに柔らかな彼らの生活を、どうして血塗れたものに塗り替えられよう。
「今回は降りようかな……」
誰に言うでもなく、少女は呟く。不思議と声は震え、そしてどこか安堵の色を滲ませていた。
後、己をあざ笑うように声を漏らす。
「今さら怖気づくなんて、都合の良い話ね……」
どんな人間であれ、殺してきた。喉を掻っ捌き、心臓を抉り、必要とあらば拷問にもかけた。夥しい血で穢れたこの身のどこに、人のそれが残っていようものか。生きるためと嘯き、楽な道に逃げ、目を背け続けた代償だ。
生きる気力を失った――というのではないけれど。
生きる気概は失せてしまった。
今回は、等と口にしたが、きっと次はないだろう。失敗は許されない。それは信用に関わる。一度失敗すれば使い捨て。余計な情報を持っている分、間違いなく口封じのための刺客が送り込まれることだろう。成功したって安心できない家業なのだ、失敗したら結果は見えている。
けれど、それもまた良いのかもしれない。
これといって生きる目的があるわけでもない。死にたくない。ただそれだけのために今日まで生き延びてきたに過ぎないのだ。生きなければいけない人の代わりになれるのなら、最期の罪滅ぼしくらいにはなるだろうか。
欝々と、そんなことを考える。ここ数日、考え続けてきた。考えて考えて、何も出来なかった。
結論もない自問自答。何も成すことの出来ない自分に嫌気が差す。
「……この声……」
そうしていると、窓の外から覚えのある声が耳に入って来た。幼い子供特有の甲高く甘い声と、まだまだあどけなさを残しつつも男性のそれへと移り変わろうとしている、少年の声。
今日もまた、あの平和ボケした国王様は子供たちを連れてどこかへ出掛けているのだろうか。それも良い。そんな幸せを、きっと自分も望んでいた。
ふと浮かぶ疑問。
――そういえばあの子供たちは、彼の何なのだろう。弟、という風でもなく、貴族諸侯の嫡子という風でもなく。どちらかといえばみすぼらしいと言える格好をしていた。
気になり、閉じていたカーテンを開けて通りに目をやる。
子供たちに両手を引かれ、転がりそうになりながら行く少年の姿。周囲の人々も見慣れているのだろう、朗らかに笑みを浮かべてその様子を眺めていた。イリスもまた自然と頬を緩め、目を細め――そうして見付けた。見付けてしまった。
路地に身を潜め、頭から足先までをすっぽりと外套に包んだ影を。その手に煌めく鈍色の輝きを。
駆け出した。着の身着のまま、愛用のナイフを収めたベルトを乱暴に掴み、裸足のままに駆け出した。
激しく脈が鼓動する。胸が締め付けられるように痛み、暑くもないのに汗が吹き出し、どうしてか涙が零れそうになる。
「いや、いや、いやッ……!」
あの温かな光景が壊れるのなんて、絶対に見たくないっ……!