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どうしても忘れられない人がいる。
雨の日。
傘を片手に歩く俺は、いつもの癖で俯いたまま横断歩道を渡ろうとした。イヤホンから流れる音楽の音量はやや大きめで、視界には地面しか映っていなかった。
もしあの時。
あのまま渡っていたら。
「おにーさん」
そんな呼び声と共に俺の腕を掴んでくれた彼がいなければ。
《あの信号を渡れば》
突然のことに驚いた俺の耳からイヤホンが外れ、成人男性にしてはやや高めの声が鼓膜をくすぐった。
「赤だよ」
人の良さそうな笑みで信号を指差す彼。
見れば真っ赤なランプに人の絵が照らしだされている。そして、目の前を白い乗用車が勢いよく通りすぎた。
状況を把握した途端、身体中の強張った筋肉が解れ、俺は小さく息を吐いた。
「・・ありがとうございます」
上手く動かせない表情筋を精一杯柔らかくして礼を言う。そのぎこちない言葉に小さく手を振り『気にしないで』と照れ臭そうにはにかんで、彼は立ち去った。
半月後。
その日も、雨が降った。
通行人の邪魔になる道の真ん中で、俺は身動きが取れずにいた。
青に変わった信号が再び点滅し始め、ライトの動きと連動する鳩の鳴き声が人々を急かす。
もう一度赤になれば。
『おにーさん』
雨音に混じる彼の声が木霊した。