プロローグ『海の向こうより来た男、船酔いを添えて』
世界の中心に位置するとされる超大陸『ユグドラシア』。大陸中心にそびえる天を衝く巨樹『世界樹【ユグドラシル】』より名付けられたとする勇壮な名を持つその地には、大小数えて100近い数の国家が存在する。
その中の一つ『大海国家【イルマーレ】』領内の港に、今ひとりの青年が颯爽と降り立った。
「うぇええええ、吐きそう……」
朝の海風になびく艶のある黒髪に、190㎝近い長身と大樹が如き雄偉な立ち姿、深い思慮を秘めた黒い瞳に彫りの深い精悍な顔立ち。思わず見る側も姿勢を正すような威風に溢れた外見とは裏腹に、その口から紡がれるのは体調不良の訴えである。
「はっはっはっ、全然そうは見えねぇけどな!」
船を降りた船員が豪快な笑い声をあげる通り、青年の立ち姿はとても体調不良とは思えないほど堂々としたものだ。しかし彼は困ったような笑みで肩をすくめた。
「昔からポーカーフェイスやら優雅な立ち振る舞いやらは嫌というほど教え込まれましたから……」
「なんだ、兄ちゃんいいとこの坊ちゃんってやつか!!」
「そんな大層なものでもありませんよ」
柔和な笑顔で答えつつ、青年は背後に広がる広大な海を振り返る。
「人生で初めて船というものに乗りましたが、まさか自分がこんなに船酔いしやすいとは思いませんでしたよ」
「いや、そういうことなら今回の船旅だけで判断するのは早いかもなぁ」
「というと?」
「今回の船旅は普段とは比べ物にならないぐらい過酷だったからな。なにも毎回あんな嵐に巻き込まれて化け物に襲われてるわけじゃないさ。俺も今の仕事に就いてもうかなり長いが、今回みたいなのは数年に一回あるかないかだ」
「それでも数年に一回はあるんですね……」
「はっはっは!! まあ海にも魔物は多いからな。こればっかりは仕方ないさ!」
――魔物。その厳密な分類は定まっていないが、魔力を体内に宿した人型以外の生物と思えば大体は合っていると言っていいだろう。
その種族は千差万別、生息地域も陸海空すべてにわたり、海をテリトリーとする魔物は船乗りにとって必然的に身近な存在だ。
種族によって人に与える危害の有無や規模もまったく異なってくるが、基本的には敵対的な種族が多く、その攻撃は人命に直結することが非常に多い。故に小型船であろうとも外海に出る際は対魔物用の武装を搭載するのが普通であり、ほかにも魔物に襲われないようにする様々な工夫が為されている。
それでもやはり、絶対に襲われないなんて保証はどこにもない。そして今回、青年が遭遇したのはその中でも特級の事態だった。数日間にわたって不可解な嵐に悩まされた後に現れたのは、最強クラスの魔物として世界に名だたる龍属の一角『海洋龍種』。種の中では最下位に属する木っ端ではあったものの、それでも龍は龍、先の不可解な嵐もその権能の一端であり、その力は常人とは桁が違う。あわや全員海の藻屑かという状況で、青年が腰に帯びた和刀――ユグドラシア大陸近くの島国でのみ製造される武器で、その見た目の美しさと鋭い切れ味から国外でも高い人気を誇る――によって龍を一刀両断して見せたのだった。
「いやー、それにしても船酔いしながらあれだけの攻撃ができるんだからすごいもんだ! まあ俺は兄ちゃんの動きが早すぎて何をしたか全然分からなかったんだが!!」
「ありがとうございます。これには少しばかり自信があるんですよ」
そう言ってコツンと刀の柄を叩く青年の笑みに、船員もまた豪快な笑みを返した。
「自信があるってぇのは良いことだ。今回は兄ちゃんのおかげで助かったよ!! 俺はそろそろ仕事に戻るが、兄ちゃんの今後の旅がいいものになることを祈ってるぜ!!」
「えぇ、船員さんもお体には気を付けて」
「ありがとよ!! それじゃあな!」
「はい、ありがとうございました」
後ろ手に手を振りつつ大股で去ってゆく船員を見送って、青年はゆっくりと一歩を踏み出すのだった。
「――とりあえず、ゆっくり歩いて吐き気が収まるのを待とう……」
目下最大の敵は吐き気のようである。