四話
ああしまった。
居間を出るタイミングを逃してしまった。
さすがにこのまま親父を残して去るのは忍びない。
本当なら今頃、風呂から上がっていて、飯とツマミをビールで流し込み、
映画鑑賞でもはじめる予定だったのに。
そうだよビールだよ!いつもの発泡酒じゃない。仕事を辞めた自分へのお祝いなんだ!
親父だって本来なら、こんなに惨めな気分じゃなく、
酒でも飲んで大笑いしたかったに違いない。
そう思って、僕はビールの缶を開ける。
プシュッという音に親父が振り返った。
「父さんもビール飲む?」
これでも二十歳になった僕だ。もう酒飲んで殴られることもないだろう。
「…もらおうか」
受けとった親父は、姉が居なくなり幾分気が緩んだのだろう。
「乾杯でもするか?」なんて冗談染みたことを言う。
「この空気じゃ献杯のほうがお似合いだなあ」
「よくそんな言葉知ってるな。確かに葬式みたいな気分だよ」
「うん、俺が言うのもなんだけどさ。…なんで仕事辞めちゃったんだよ?」
しばらく親父は缶に目を落とし、そして、ぽつりぽつりと語り出す。
「なんだろうね。俺は結局のところ、本当に働くのが嫌いなんだ。
働きだしたばかりはさ、これが社会か。この世界で俺はやっていくんだ。
一人前になってやるって、そう意気込んでいたよ。
それは本当だ。
そんな希望は半月もたたず崩れ落ちたがね。
あの頃はまだ会社もプラスチックなんて作ってなくて、とにかく色んな物を売っていた。
思い出しただけでげんなりするよ。
朝から晩まで、客にも上司にも叱られ、馬鹿にされ、なんで俺はこんなに要領が悪いんだと悔しくて仕方がなかった。
夜になると明日が憎くて、朝になると会社が怖くて、
それはまだ自分が仕事に慣れてないからだ。
だから成長しなくちゃいけないと、自分に言いきかせてさ。
だから必死になった。わからない事は勉強したり、叱られるのを覚悟で上司に質問した。
馬鹿だよなあ。そうやって仕事に慣れたって、ちっとも変わりゃあしなかったよ。
朝は憎いし仕事は怖い。辞めるまで相変わらずさ。
なんとか、なんとか二年働いて、でも限界だ辞めようと決心したよ。
新卒の後輩にみっちり仕事たたきこんで、俺が抜けても大丈夫な状態にして、
誰にも文句言われずに辞めてやると画作してな。
なんてことはない。
ソイツは三ヶ月で辞めちまったよ。
ああ先を越された。しまったやられた。厳しすぎたのがいけなかったか?
だから翌年の新人には優しくしたんだ。そしたら半年で辞めたよ。
また先を越されたのさ。
上は年齢で抜けていくし、下は辞めるばかりで中々育たない。
気付けば、おいそれと辞めることもできない立場に自分は立ってしまっていた。
結局のところ、お前みたいに嫌になったらすぐに辞めちまうのが利口なのさ。
立つ鳥跡を濁さずとか言ってるうち、羽根が錆び付いて飛べなくなっちまう」
「僕だって簡単な気持ちで辞める訳じゃあないよ。
そりゃあ父さんほどじゃないにせよ、ちゃんと葛藤しているんだ。
そんな風に言われるのは、いささか心外だよ」
「それはすまない。そうだよな。
愚痴をこぼせば、ついつい自分以外をぞんざいにしてしまっていけない。
お前だって今はちゃんと仕事しているんだ。
俺みたいな落伍者が、偉そうに言える言葉なんかありゃあしないよ実際」
「うーんと、その事なんだけどさ。
実は僕も仕事、辞めたんだ」
「はっ?」
親父は目をギョッとさせて僕を見た。
今日はよく表情が変わる人だ。
なんだか可笑しくて、いかんいかん。笑ってしまいそうになる。
「しかも、今日辞めた。く、くく…お揃いだね」
「お、お前なあ!?いや、ほんと…ふ、ふふ、この親にしてこの子ありだな全く!」
「あははははは!!」
「笑ってんじゃねぇよ馬鹿息子め!!」
そう言う親父も顔がにやけてしまっている。
もう笑うしかない。
途中から親父まで我慢しきれず笑いだした。
なんだか、こんなに笑ったのは久しぶりだった。
「もうこりゃあ、葬式って雰囲気でもなくなっちまったな」
「二人して仕事辞めたのに爆笑って、僕らなんて頭が目出度いんだろうね。
そうだ、目出度いついでに乾杯でもしようじゃないか!」
「全く、仕方のない奴だよお前も俺も。いいさ乗ってやる。乾杯!」
「乾杯!」
口を付けたビールは、すっかりぬるくなっていて、
それはまるで、現実を直視できない僕らの不安を見透かすように不味かった。




