六話 改心
扉を開けると、先に来ていた岡野さんの後姿が目に入った。ゆるやかにカールしている髪は、日の光を浴びて金髪のようにも見える。
屋上のフェンス越しに景色を見ていたらしい彼女は、音で私が来たことに気付いたようだ。こちらを振り返って私の姿を確認してから、スタスタとこちらへ歩いて来た。
と、ここで可笑しな点に気付く。これはどこの世界でも同じ事だが、大抵誰かを痛めつける時は集団でのいじめの筈だ。
それなのに、屋上に居るのは岡野さんのみ。他の人達は一体どうしたのだろうか。
岡野さんは私の前で立ち止まった。何をする気だろう。まさか、また突き飛ばすのでしょうか?
しかし、そんな予想は見事なまでに裏切られた。
「昨日は、咲原様に大変無礼な態度を取るばかりか、階段から突き飛ばしてしまい……本当に申し訳ありませんでしたっ!!」
「………………は……?」
いや、予想が裏切られるどころか、経験とか大切な何かを裏切られた。それと同時に、今朝も何故か私に対して彼女が敬語だったと今更ながら気付く。普段の彼女は、もっと高圧的なはずだ。
ジークさんに告白された時の衝撃に負けず劣らずのショックを受けて、私は立ち尽くした。
いや、ジークさんの時以上の衝撃かもしれない。
彼は漫画喫茶で会っていただけとはいえ、私に好意的だった。よく考えれば言葉を交わすことの多い男性なんて私には彼しか居ないので、思い返せば恋愛対象になり得るのは彼位だ……とはいえ告白されるとは夢にも思っていなかったが。
だが彼女は、つい昨日までは階段で突き飛ばされた仲なのだ。
一体何があったのだろうか……考えを巡らせていると、ふとジークさんの言葉が蘇った。
"少しあいつら痛めつけるけど……"
………………ジークさん、一体貴方は彼女をどう痛めつけたんですか。
「……や、やはり……許して頂けませんわよね……」
立ち尽くす私を潤んだ瞳が見つめていることに気が付かなかった私は、声をかけられてハッとした。
「あ、いえ……びっくりしてただけで……」
「なら、私を好きなだけいたぶって下さい!」
しどろもどろになりながらも返答するが、彼女の耳には届かず遮られた。
……え、この子今なんて……?
「あ、あの。今、何て?」
先程の反省を生かして、どうにか声の音量を上げた。今度は聞こえたらしく、返答が返ってくる。
「私をいたぶって下さい、咲原様」
聞き間違いじゃないか、という微かに残された希望は、残念ながら裏切られた。彼女は、潤んだ目から一変してキラキラと効果音が付きそうな程目を輝かせている。
心なしか頬も僅かに紅潮していて、思わず一歩後ずさった。すると、岡野さんも一歩こちらへ迫ってくる。
「咲原様、罪深い私をどうかボロボロにして下さい!」
懇願するような声音で紡がれた言葉に、思わず震え上がった。
「咲原さ……」
「ごっ、ごごごめんなさい‼ ゆ、許しますから、許しますから‼」
遂に耐え切れなくなった私は、踵を返して走り出そうと思い切り一歩踏み出した。その瞬間、後ろが階段であることに気付く。
「へっ……」
状況が違うけど色々デジャヴだなぁ、なんて思う暇もなく下へ転がり落ちて行く……
……ことが無かったのもデジャヴであった。
「大丈夫ですか? 咲原様」
私の腕を掴んで即座に引き上げた彼女に、複雑な思いで私は頷いた。改心したことは確かなようだが、これで良かったのやら……。
顔が引き攣ってしまったのは、この際仕方のないことだろう。
昼休みが終わった時の安心感と言ったら無い。昼食を食べ損ねてしまったが、そうなることはわかっていたので覚悟はできていた。放課後までの辛抱だと授業を受けて、ついにやってきた放課後。
私は、再び屋上に訪れていた。
以外な事に誰も居ないその場所は、昼間食べ損ねた弁当を食すには持って来いの場所だ。因みに教室には未だ残っている生徒が居るので、あそこは遠慮させて貰った。
部活動をする生徒達の声は、まるで別世界の事のように遠い。
フェンスに凭れて座り、いつもなら始業のチャイムに急かされている弁当をのんびりと味わった。
まあ、本来なら昼休みに食べる筈だった物ですから、味わってもそこまで美味しいわけじゃありません。何だかご飯が硬いです。
そう言えば、本当に岡野さんは何をされたんだろう。昼休みに尋ねたら、「……いくら咲原様でも、お答えできませんわ」と、遠い目をしながらの返答が返ってきた。問い詰めれば聞き出せたかもしれないが、恐怖が勝ったので、「そ、そう、ですか……」とだけ返した。
ドM発言を披露した彼女すらああ言わせる程とは……ジークさん、ほんと何やったの。そして何を目覚めさせたの。
疑問、疑念、困惑……他にも正体不明の様々な感情を込めて深い溜息を吐くと、弁当の蓋を閉めた。
さて、漫画喫茶に行きますか。