30_足下から鳥が立つ(3)
「……あの。それで、プレゼントって一体……?」
モナにとっては殆ど天啓に近いルチアの言葉を、感情のままに溢れ出す歓喜と同じ分だけ込み上げてくる理性に基づく罪悪感とで打ち消した後。モナは牧場内を見回してみるものの、それらしいプレゼントがないことに気がつくと心底申し訳なさそうに声を上げた。
何しろそれもそのはずで、牧場内はおおむねモナの記憶の通りだったのだ。無論、多少の差異――例えば畑はルチアを中心にその時に手の空いている人で管理してくれていたお陰か、最初に彼女から贈られた種はすっかり実をつけていたし、イサークから譲って貰った種も相応に芽吹いていた。季節が進んだせいか、川は以前よりも生き物の気配を感じるようにもなっていた。
……が、逆に言えばそれだけだったのだ。それ以外はモナの目には特段変わったところはないように見えたのだ。故にモナは恐る恐る声を上げる。それは「もし『プレゼントならそこにあるじゃない』と言われたらどうしよう」という気持ちと、「これじゃあプレゼントを強請っている乞食じゃないか」という気持ちがせめぎ合っているがためだった。
「――モナ。」
「え?……ぁ、はい!」
「苦情はウチのボンクラ弟子に頼むぜ?」
「は、はあ……?」
困惑の色を浮かべるモナに、コンスタンティーノは大きく口を開けると豪快に笑いながらニコラスの背中をバシバシと叩く。初夏を感じる爽やかな夏の空の下に、到底微かに湿った季節とは思えない乾いた打撃音が響き渡った。
穏やかな風に乗ってどこまでも飛んで行きそうな気のするその音だったが、意外や意外。コンスタンティーノ曰くボンクラ弟子の「痛ってぇー!?」という存外に大声に掻き消されるとシャボン玉のようにパッと弾けて消えてしまったものだから、モナは常に気怠そうに喋るニコラスの口からこんなにも大きな声が出てきたという事実に目を丸くした。それからどうしようもなく愉快な気持ちになると、思わず腹を抱えて笑ってしまった。
「……おい。笑うなよ。」
「いや、でも、だって……。」
モナは流石にコンスタンティーノのように、歯が見えるほどに口を開けて笑いはしない。ルチアのように目に涙を浮かべるほども笑いはしないし、イサークのように逆にやれやれと言いたげな大人な笑みを浮かべはしない。ただただ、モナにしては珍しく左腕で腹を抱える。反対の右手で、口元を覆う。そうやって忍び笑いと豪快な笑いの中間の、育ちの良さを感じる笑みをその唇から零すのだ。
そこには幾ら友人とはいえ他人のことをそうゲラゲラと笑うものではないというシャーリー家の教育と、モナなりの信仰心とプライド――下品に笑ってはルチアという神様に幻滅されたくないという感情とが、複雑に入り交じった上で幾重にも折り重なっていた。
「…………やっぱり、あんたなんて友達でもなんでもない。」
そんな折、笑いの中心となっていたニコラスは徐にモナをじろりと睨みつけると、間髪入れずになんとも冷たい言葉を口にした。
――一瞬、和やかな談笑が凍り付りついた。
「…………おい、ニコラス。」
「――いえ。いいんですよ、コンスタンティーノさん。」
なんとも居心地の悪い沈黙が訪れてから1コンマ零秒後、モナは昔ながらの職人気質らしく即座に低い声と鋭い瞳で彼のことを睨み付けては厳しい言葉を浴びせようとするコンスタンティーノをやんわりと止めると、首を横に振った。
それからこちらに背を向け、下宿先兼店舗であるアルテフィーチェに向けて歩き出そうとするニコラスの手首を咄嗟に捕まえる。それから殆ど脊髄反射で謝罪の言葉を口にした。
――モナは実のところ、ニコラスのことをあまり知らない。ただルチアや町の人たちの断片的な言葉から数年前にまだ言葉を話し始めたばかりのレックスを連れ、コンスタンティーノを頼ってイルクオーレにやって来たということは断片的に知っていた。それから強いて言うならば怠け者で、無気力で、釣りが好きなくせにその実釣れたところなど見たことないことも知っているが……今言いたいのはそういうことではなく。とどのつまり、モナはニコラスは自分と同じく、何か事情のある人間ということを感じ取っていた。要するに似た者同士と分類される属性であることを、それとなく嗅ぎ取っていたのだ。
故にモナは彼に対して勝手な親近感も、抱いている。だからこそ自分が同じ状況下に置かれたらどう思うか、想像が足りなかったことを咄嗟に恥じると頭を下げた。きっと恥ずかしかったろう、嫌な気持ちになったろう、と眉を下げた。きっと自分ならば穴があったら入りたいと思うくらいには羞恥に駆られたはずだと、心の底から深く反省する。それからルチアを気にするくらいに他人のことも気にするべきだったと自身の至らぬ点を振り返ると、取り消せない過去の代わりに、今、精一杯の謝罪を込める。
「………………うっざ。」
彼を引き留めようと必死に服の裾を掴んだのが効いたのだろうか。それとも心底申し訳なさそうな表情が良かったのだろうか。兎にも角にも、結果としてニコラスはかなり面倒くさそうにため息を吐きながらもかろうじて足を止めてくれた。吐息混じりに発せられた言葉は相変わらず可愛げの欠けらも無い無愛想かつ勘違いされそうな毒混じりのものだったが、それが最早ただの見せかけであることをモナはもう知っていた。
何よりも口ではああだこうだと言いながらも少しも手を振り払おうとしないところだとか、幾ら彼にサボり癖があるとはいえ確実に腕力で勝てるだけの性差や体格差があるというのに、それを少しも実行に移そうとしないところだとか――。
そういった言動の端々にモナはニコラスという青年がこれまで歩んできた人生の片鱗を見た気がすると、なんだがますます他人には思えなくなって、くすくすと笑ったのだった。
「…………先に言っておくけど、施設に不備があってもそれはオレのせいじゃねーから。親方はああは言ったけど、苦情や修理はオレを無理やり働かせた親方と、親方と共謀したそこのバカ共に言えよな。特に親方を唆した、小バエ並にうるせー奴らによ。」
「だぁれがバカですって〜?!あたしはねぇ、ちっとも仕事をしない上にいつまで経っても町に馴染もうとしないアンタを気遣って声を掛けてやったんでしょーが!!」
ニコラスはいまにも崩れそうな大型動物用の畜舎の陰を見遣りながらやれやれと肩を竦めると、ルチアとイサークとを睨みつけた。その瞳は羊の瞳孔のように鋭く、それでいて狼のように威圧的だった。
けれども対して親しくないルチアとイサークの幼なじみコンビには睨みを効かせる一方で、親方であるコンスタンティーノのことは逆らえないと思っているのか、はたまたあまり大仰な態度を取っては後が大変だということを知っているのか。一見して目に映るもの全てに噛み付く肉食獣の振りをしながら、その実噛み付く相手を慎重に見極めている様子にモナは器用だなあと苦笑する。
そしてその傍ら、モナはニコラスのルチアを煽る上手さ――言うなれば感情の赴くままに生きている、単細胞かつ短気で活気のある相手を見極めて言葉巧みに誘導し、結果場を盛り上げては漂っていた不穏な空気だとか、はたまた居心地の悪さだとかを誤魔化す術の上手さに舌を巻いてしまった。
と同時にああ、きっとこの人は自分と同じく都会出身の人間なんだなと直感で感じ取ると、モナは妙な親近感を覚えた。それはモナとてニコラスほどではないものの、こうして自分の不機嫌や不安といった所謂マイナスな感情を誤魔化した経験が多々あるが故だった。そしてその術は良くも悪くも関係性が希薄な広大なコミュニティーだからこそ身についた術であると共に、時にどうしようもなく孤独に苛まれるものだった。
例えるならば空はいつも灰色で、吹き付ける風は生ぬるかった。鼻腔を擽るのは蒸気と排気の煙の匂いで、薄汚れた道を歩くせいで靴はいつも泥まみれだった。その泥を常に誰かに擦り付けることで精一杯な、そんな日々だった。
「まあまあ、落ち着けってルチア。あいつ、口ではああ言ってるけど、結局やることやってくれたんだからさ。――モナのために。」
「…………あァ?なんだてめェ……?」
「おっ、やるのか?俺は別にやってもいいぜ?」
「そうだそうだ、やってやれー!純朴な乙女をバカ扱いする、澄ましたその顔に思いっきり札束を叩き付けてやれー!!」
「俺を悪どい商人みたいな言い方するな!!」
だがやはりと言うべきか、イサークの方が何枚も上手だった。イサークはなんてことない顔をしながらサラリとニコラスの痛いところを突くと、敢えてニヤニヤと笑いながら挑発する。恐らく都会出身とはいえ、まだ青いニコラスにはない余裕だった。ルチアは背後から貶された恨みを込めて、やいのやいのと野次を飛ばす。
……が、野次にしては少々誇張しすぎたその言葉は、イサークにとっては宛ら味方に背後から刺されたようなものだった。そのためイサークは口撃の対象をニコラスからルチアへと素早く変えると、ほんのひと季節の間に見慣れてしまったなんとも息のあった幼なじみ特有のコントを演じ始める。
「だーかーらー!!札束はものの例えだっての!てか何?そんなに異常なほど反応しちゃってさあ……、もしかして本当に悪どい商売してるワケ?」
「してないからこそ許せないんだっての!!お前なあ……、世の中には許せる言葉と許せない言葉があるって知ってるか?」
「もちろん!例えばどこぞのイサークくんが、まだ小さかった頃のあたしに言い放った『お前って牛糞クサイなあ』とかね!!」
「…………お前、そんな子供の時のこと、まだ気にしてるのかよ。今からそんなに執念深くてどうするんだ?将来、目も当てられないクソババアになるぞ?」
「――――よし。ルチル、あいつの喉元に噛み付いておいで。」
ルチアはあまりにも失礼な物言いのイサークにふと長年の積もりに積もった恨みつらみが爆発しそうになると、極めて冷たい口調で彼女の足元にてちょこんと座りながらこちらを見上げているはずの愛犬に幼なじみの狩りを命じた。けれど肝心の相棒はその小さく短い脚でモナと主人と共に牧場まで駆けて来たというのに、ちっとも話が進まないことに早々に匙を投げると欠伸を漏らしながら、モナがこの町にやって来た当初にコンスタンティーノから手習い代わりに教わりながら作り上げた小さなベンチで横になっていた。それどころか腹を天に向けて、いい年齢をした若者たちの到底年相応とは思えない醜い争いをBGMにぐうぐうと惰眠を貪っていたのだった。
ルチアはそんなルチルを目にすると、返事をサボるどころかすっかり昼寝にかまけている愛犬に「薄情者……!」と恨めしい視線を向ける。それからルチルが使い物にならないのならば自分が、とベンチの背面に立てかけてあったクワを片手にイサークを牽制し始めたものだから、もう、めちゃくちゃだった。
「――――あははっ!」
しかしながらそのめちゃくちゃな光景にモナはもう一度腹を抱えると、今度は大口を開けながら思う存分笑った。何なら目に涙を浮かべつつ、腹の底から笑った。
それは人と人との繋がりが希薄な都会ならば白い目で見られつつ避けられるであろう野蛮な行為すらこの片田舎ではコミニュケーションとして成り立ってしまうことへのおかしさや、事の発端であるニコラスを置いてけぼりにどんどんと過激になっていく話だとか、美しいほど自分の付け入る隙のないイサークとルチアの会話だとか、それら全てに対して作り笑いでもなければ場を円滑に進めるための愛想笑いでもなく、ただただ面白おかしいが故に笑ってしまった。もうプレゼントがなんであろうと構わないくらいに自分を取り繕う必要性を感じないこの町そのものに、心からの笑顔と笑い声を零した。
それは今自分が上機嫌なのか不機嫌なのかすら忘れてしまうくらいに画一化された都市の中で、常に周囲の人々の無機質さに怯えながら過ごしていた日々が過去になってしまうくらいにどうしようもなく穏やかで、愉快で、美しい晴天の初夏の空と、その下で永遠に続いて欲しい今日だった。抱えていた孤独感すら忘却してしまうくらいに眩しい、鮮烈な充実感だった。




