28_足下から鳥が立つ(1)
その日、モナはいつにも増して特別早く床を出た。それは随分と日の出が早くなったからではない。かといって、朝から初夏の訪れを感じる、随分と気持ちの良い天気だったからでもない。そうかといってイルクオーレにひと足早くやってきた夏が、彼女の心を鷲掴んで離さなかったわけでもない。モナが町の誰よりも早く起き出した理由は、今日が彼女の退院日ということに他ならなかった。
故にモナは起床するなり勢いよくカーテンを開けると、次いでそのまま窓も開けた。すると間髪入れずに窓から吹き込んでくる気持ちの良い朝の風は、なんだか自身の退院とようやく仕事に復帰出来ることを全身全霊で祝ってくれているようで、モナは柄にもなく頬が緩むのを感じた。誰の目もなければ、思わず窓から飛び出しては海に向かって駆け出していたのでは、と考えてしまうくらいの爽快感だった。
「――おはようございます、モナさん。早いですね。」
「お、おはようございます。…………お恥ずかしい……。」
「いえいえ。朝から元気なのは良いことですよ。医者としては太鼓判を押して、かつ胸を張って退院と言えるものです。」
「あ、あはは……。」
そうやって開け放った窓からようやく再開するこの町での生活に思いを馳せていれば、モナは不意にバルナバから声を掛けられたものだから、些か驚いてしまった。それもそのはずで、モナはこの約1ヶ月に渡る入院生活の中でバルナバの超人的とも言える生活――朝は日の出よりも早く起きて診察の準備をし、昼は誰よりも働き、夜は論文に目を通してから月が真上に昇る頃にようやっと眠る――の、常人ならば真っ先に身体を壊すか精神を壊すかの2択にしかならないそれが崩れるパターンを、ついぞ1度も見ることなく退院することになったからだった。
故にモナは庭で洗濯物を干しつつ朝のストレッチに励むバルナバを見下ろしながら、この人は一体いつ休んでいるのだろう……と困惑しつつ、なんとかいつも通りの曖昧な笑みを貼り付ける。鏡を見ずとも引き攣った笑いであることは、モナが誰よりもいちばん良く分かっていた。
「ああ、そうだ、モナさん。朝の支度が終わってからでいいので、ルチアを起こしてやってくれませんか。」
「はい、分かりました。」
「それから、これは提案なんですが、ルチアを起こしたら2人で朝の散歩に行ってくる……というのはどうでしょう。その間に私は朝食を準備しておきますから。……ね?」
「は、はあ……。」
モナは提案と言いつつも実際は凄まじい強制力を感じるバルナバの言葉に、ああ、この人は本当にルチアの親族なのだなあと感じるとまたしても曖昧に笑った。
それもそのはずで言葉尻こそ優しく穏やかではあるものの自分を貫く姿勢だとか、はたまた他人に有無を言わさない圧倒感だとか、赤の他人が真似しようとしてもなかなか出来るものではないそれらをさも当たり前かのように、かつルチアよりも自然にやってのけるのだから、ある意味では当然だった。モナはこれは相当な手練だなあと思わず苦笑すると同時に、一瞬ルチアが歳を取って成熟したらこんな風になるのだろうかと想像してしまう。……が、恐らくはルチアの性格から察するに、何年経ってもバルナバのように知性と気品とを感じるそれではなく、どこまで行っても勢いと感情任せのパワープレイなのだろうなと何となく感じると、今度は小さく笑ってしまった。
――その時まで自分はここに居られるだろうかというある種当然の疑問は、敢えて見ない振りをした。
「――ああ、そうそう。モナさん。」
「……はい?」
時刻は午前6時前。バルナバ曰く「放っておけばいつまでも眠っている」ルチアを起こすのは、まだ早いだろうか。となると常識的な時間――6時30分か、7時ぴったりくらいが良いだろうか。どんなにゆっくり準備しても時間が足りなくなることはないなと、モナが頭の中で段取りを考えながら窓から顔を引っ込めようとした時だった。
バルナバが何か思い出したように再度モナに声を掛けてきたものだから、モナは他にも何か用事だろうかと首を傾げつつ今一度窓から顔を出すと、大人しく要件を待った。
「ルチアがどうしても起きない場合は事の真偽は兎も角、今朝はフレンチトーストだと言えば飛び起きてきますから。是非ご参考までに。」
「…………あの。その言い方だと、嘘でもいいってことになるような……?」
「ははは。何、嘘も方便、ということですよ。」
「…………あ、あはは……。」
モナはそう言ってにこやかに笑うバルナバに、ルチアよりも1枚どころか2枚も3枚も強気な上に上手な大人のずる賢さを見たような気がすると、乾いた笑いを零しながら窓を閉めた。
身支度といっても特別身嗜みや美容に興味があるわけではないモナは、せいぜい15分もあれば朝の支度を終えてしまう。となると、当然ルチアを起こす時間までたっぷり余裕があるわけで。モナは時間を持て余した結果、軽くではあるものの散々お世話になった病室の掃除をすることに決めた。
モナはルチアやニコラスなら間違いなく二度寝するんだろうなあと思いながらも、どうにもそうやって怠惰なのは性に合わないというか。正確に表現するならば、何かしていないと色々と余計なことを考えてしまう性格なんだよなあと苦笑しながら、モナは改めて窓を開けると部屋の空気を入れ替えながらベッドのシーツを剥がす。続けて枕カバーにクッションカバー等々、外した布製品は全部纏めてラタンで編まれた洗濯カゴの中へ入れた。
モナはそうやってベッドを何も身に纏っていない、裸の状態にしてから今度はベッドサイドへと手を伸ばすと、そこに飾っていた町の皆が持ってきてくれた見舞いの品――特にぬいぐるみや本と言った、腐りようがないものひとつひとつを手に取る。そしてこんなにも親切にして貰えたことの有り難さを噛み締めながら、善意ごときちんと牧場に持って帰ろうと丁寧に自身の荷物の中に仕舞った。それから長らく色々なものが飾られていたベッドサイドのテーブルの埃を綺麗にしようと、壁に掛けてあったモップを手にした時だった。
「――――もっ、モナ?!まだ居る!??」
「……あ。おはよう、ルチア。凄いね、自分で起きれたんだ?」
ドタバタ。何だか最初にここで目を覚ました時に聞いたような、なんとも騒々しい音と共に扉が開かれたものだから、モナは一瞬ぴくりと肩を跳ねさせた。けれどこんなにも騒々しい音を出せるのはこの家においてただの1人しか居ないと、少しだけ跳ねたまま落ち着かない心臓を深呼吸で落ち着かせる。それから想定していた起床時間よりもずっと早く、おまけに自分で起きてこれたルチアに朝の挨拶と、彼女を褒め称える言葉を贈った。
一体どういう寝方をすれば四方八方に髪の毛が跳ねるだけでなく、前髪が街の不良も顔負けのオールバックになるのかは、もうこの際疑問には思わないことにした。とどのつまり、郷に入っては郷に従え、朱に交われば赤くなる、所の法に矢は立たぬ……。
全てはそういうことなのだと、モナは1人頷いた。
「まあね?最終奥義として、高〜いお駄賃払ってイサークのところのグリフィンにモーニングコール頼んだし、当然っちゃ当然よ。……じゃなくて!!」
ルチアはモナに褒められるとぐちゃぐちゃの頭と寝巻きのまま、エッヘンと胸を張った。そしてモナが起こすまでもなく、自主的に起きることの出来た秘密――イサーク青年の雑貨屋で時折店番を任されているほどに優秀かつ人間くさい、彼のペットのヨウムに頼み込んだことを明かした。
モナはなるほど、イサークに負けず劣らず商魂逞しいグリフィンならばそういうサービスをやっていてもおかしくはないなと納得すると共に、やはり何度見ても聞いても人間の言葉を理解するだけでなく、自分のものとして自由自在に操る鳥というのは、なんとも不思議な生き物だなあと感心してしまう。恐らくは鳥類の高い知能がそれを可能にしているのだろうが、では、人間と鳥類との決定的な違いは身体の構造以外に何かあるのだろうか……とついつい癖で考え込んでしまいそうになるが、それはルチアが徐に上張りげた大声により強制的にシャットアウトされた。
「何?……もう居ない方が良かった?」
「モナくん、モナくん。君はどーしてそんな可愛い顔で意地悪なことを言うのかね?」
そう口にすればいつになく慌てるルチアが面白かったものだから、モナは朝から鼓膜に残って仕方がない甲高い声を振り翳された仕返しにと、つい心にもない言葉を口にしては彼女を試してしまう。するとルチアは一瞬ムッとした顔をしながらも、すぐに大仰な演技がかったクサい芝居に打って出るとモナの肩を掴んでは「後生だからこの家を出ていかないでよぉ〜!」とわんわんと泣きながら(無論嘘泣きではあるが)縋りついてきた。
モナは相変わらずノリの良いというか、ノリが良すぎるがあまりに自分がどうして焦っていたのかもとっくに忘れていそうなルチアに苦笑すると、彼女の背中を軽くポンポンと叩く。それからルチアの肩に手を置き返して、真剣な顔を向けると真っ直ぐに目を逸らすことなく重い口を開いた。
「悪いけど……、もう、行かなくちゃいけないから。」
「もっ、モナぁ〜〜〜!!」
「――で、何?どうしたの?朝ごはんはまだだよ?」
「いや切り替え早っ!?もっとこう……あたしに付き合ってあげようとかないわけ?!」
「……………………。」
自分も散々ノっておいて他人のことを批評するのは少し違うなと思いながらも、モナは案の定すっかり当初の目的を忘れているルチアに冷ややかな視線とまではいかないものの明らかに呆れているというか、生ぬるい視線を向けると暫しなんとも言えない笑顔のままで彼女をじっと見つめる。すると最初の方こそやれノリが悪いだの感動的な別れの場面だったのにだの、ブツクサ言いながら不貞腐れるルチアも流石に本来の用事を思い出したようだった。
とはいえ散々小声で文句を垂れ流した後の正気は、流石のルチアも少々気まずかったようで。彼女にしては珍しくあーだのうーだの声にならない声を捻り出した後に、とうとう誤魔化す方法すら思いつかなかったのか、ルチアはガハハと雑に笑った。モナはそんなルチアに相変わらずなんだからと朝にも関わらず何度目かも分からない苦笑を零す。それから取り敢えずは用事の有無や重要性に関わらず、まずは着替えてきたらどうかと告げようとしたまさにその瞬間だった。
「……とにかく!この早起きとグリフィンの奴に払ったお駄賃を無駄にしないために!ほらほら、レッツラゴー!!」
「――る、ルチア?!ちょっと!?」
「あーあー、聞ーこーえーなーいー!!」
モナは不意に自身の背後に回り込んだかと思えばどこかを目指してグイグイと背中を押してくる彼女に、流石に酷く驚いた様子で思わず静止をかける。
が、ルチアは何を言われてもされてもどこ吹く風。それどころか、寧ろ何かを思い出しては心底楽しそうにニコニコと笑いながら自身の背中をただただ押すものだから、モナはいよいよ困り果ててしまった。但しそれは行先も分からないどこかに連行されることではなく、寝癖も直していなければ思い切り寝巻きのまま出掛けようとするルチアに、だった。
「ルチア!ちょっとストップ!ストーップ!!」
「おやおやモナくん。往生際が悪いぞ〜?いいから黙って連行されたまえ!」
「いや、それはいいんだけど……いや、良くないけど!それよりもルチア、服!あと寝癖!!それで外に出たら1週間は笑い者だよ!?!」
「……………………あ。」
病室の扉まであと2歩。階段までは7歩、1階の玄関までは34歩のところでなんとか思い留まってくれたルチアに、モナは心底心臓に悪かったと深いふかいため息を吐いた。それから先程ああは言ったものの、フレンチトースト云々の下りはきっとこうやって自分の世界に夢中にあるがあまり、少しも他人の言葉が耳に入ってこない時のルチアを正気に戻すための彼なりの経験と努力と実測値に基づく研究結果なのだなと感じると、それはそうもなるよな、と乾いた笑いを浮かべた。
それから改めてルチアと四六時中共に暮らしているバルナバに敬意を抱かずには居られなかったモナは、気が付けばつい「今日の朝ごはんはフレンチトーストらしいよ」と、心にも無い言葉を無機質に吐いていたのだった。




