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25_夜海、凪、耀光(2)



 ルチアに手を引かれるがままに月明かりとガス灯とにぼんやりと照らされた道を歩くこと数分、辿り着いたのは滅多に人の来ない海岸だった。町の東に位置するそこは夏こそ相応に人で賑わうものの、それ以外の季節はあまりの閑散とした様子に閑古鳥すら鳴くことをやめてしまう程に特別寂しい場所だった。常に騒がしいイルクオーレの中でも、一際静かな場所だった。

 けれど決して町の人々に必要とされていないわけではなかったし、かく言うモナも農作業中、あるいは町をぶらりと歩いている最中に時折耳に届く、潮騒の心地良さが好きだった。知りもしない場所に想いを馳せることが出来るこの海が、密かにお気に入りだった。


「――――――。」

 

 モナは暫しの間、無言で穏やかな海を見つめる。何か言わなければとは思っていた。が、少しも言葉なんてものは出てこなかった。ルチアも同じ気持ちなのか、特別言葉を発さなかった。もしかすると、お互いに少し緊張していたのかもしれない。

 しかしながらその張り詰めた心臓を凪いでいる海が、コーヒーとミルクがカップの中でゆっくりと混ざっていくように。静かに、ゆったり、解いていく。

 

 ――ざざん、ざざん。

 押し寄せては引く波の音。静かに、それでいてゆらゆらと揺れながら優しく輝く月明かり。それは海の果てへと続く道のようだった。思わずため息が零れるほどに美しかった。余計な思考は全て、波が攫って行ってしまったのではと思えるほどだった。

 故にモナは気を抜けばありもしない道を踏み締めようと一歩、二歩。無意識に海に向かって踏み出してしまっていた。だが幸か不幸かはともかく、しっかりと繋がれていた手が入水を許さなかった。

 ルチアはついふらりと歩き出そうとするモナの手を引くと、海岸の隅にちょこんと鎮座しているベンチを指さした。腰掛けてくれる誰かを待っているベンチは、案の定というべきか。去年の夏の終わりから今日に至るまで、埃ではなく砂を被ったままだった。ただ物言わずに、自分が必要とされる季節を待っていた。


「あそこ。座ろ?」

「……はい。」

 

 ルチアはモナにそう声掛けすると、ゆっくりと繋いでいた手を離す。それから常人ならば一瞬腰掛けるのを躊躇ってしまうほどに汚れているベンチを少しも気にしないどころか、大胆にもそのまま腰を下ろすと隣を軽く叩いてモナを誘った。

 一方自他共に認める常人であり、かつ几帳面で真面目な性格のモナは流石に風呂上がりということもあり、ルチアの行動を丸ごと真似るのは無理だった。

 だがルチアの誘いを断るなどという前提や仮定は、彼女の中には存在しない。故に互いの価値観のちょうど真ん中、及第点にあたる行為――軽くベンチに付着した砂を手で払った後、常に持ち歩いているハンカチを敷いてからそこに隣に腰掛けた。

 次いでモナはもう遅いとは思うものの、今からでもどうかと予備のハンカチを取り出すと、ルチアの眼前にそうっと差し出した。


「ん、ありがと。」

「いえ……。」


 しかしながら、生まれも育ちも全く異なる2人の間における無言のコミュニケーションは少々難しかった。モナにとっては今からでもベンチに敷くよう勧めるつもりで差し出したハンカチは、ルチアにとっては急激な温度変化によって生じた鼻水を拭うためのツールでしかなかった。

 そのためモナは想定外の使い方をするルチアに思わず目を丸くしてしまったものの、すぐさまこちらを見つめたまま首を傾げるその様子に彼女の性質を思い出すと、決して悪気あっての行動ではないとを再認識する。とはいえ流石に一瞬言葉を無くしてはしまったことは失礼だったなと、自身の行動を恥じると曖昧な言葉を返した。

 が、そんな短絡的かつ反射的な行動で羞恥心が消えることもなければ、薄れることもなく。モナはどうしようもない気まずさにどんどん苛まれていくと、自身を落ち着かせようとブーツの先で砂浜に意味のない図形を描き連ねた。ルチアはモナのともすれば挙動不審にも見える行動を、視界の端で捉えつつ、ああ、本当に面白い子だなと目を細める。声もなく、小さく笑う。

 それから先程モナが見上げていた月に視線を向けると、漣の合間を縫って唇を開いた。


「……モナが住んでる牧場って、実はあたしのものなんだ。正確にはあたしと叔父さんの、だけどね。」

「……ルチアさんと、バルナバさんの……?」

「そ。」


 漣と漣の間をすり抜けて放たれた言葉に、モナは思わず視線を足元からルチアに向けるとまじまじとその横顔を見遣った。見つめながら、その言葉の意味を考えた。その間も月と星の光に照らさせれているその横顔は、相変わらず綺麗だった。モナの視線を奪い、思考を乱し続けた。

 だがモナは決してルチアの美しさに思考を放棄したりはしない。ただただ、どうにかその言葉の意味と真意を導き出そうと必死に藻掻く。ねっとりとした泥の中、あるいは光さえも届かない深海のような暗く、果ての見えない思考の中をがむしゃらに泳ぐ。


(……もしかしてルチアさん、苦しい……?)

 

 そうしてモナがルチアの感情に気が付いた、もとい辿り着いた理由は単純かつ明快だった。名探偵がその相棒に「初歩的なことだ」と、たっぷりの皮肉を込めて言うようなものだった。寧ろもっと簡単で単純で明快だった。とはいえ、それを敢えて難しく説明することは容易だ。最もらしい言葉を並べ立て、消耗品にしてしまうのはさらに簡単だろう。けれどそんな無粋なことはモナにもルチアにも、そして他の誰にも出来なかった。

 故にたったひとことで表すとするならば、神に誓ってモナの頭や勘が冴えていたわけでない。単に鈍いモナがルチアの心中を察することが出来た理由は、ただのひとつ。

 『ルチアのことが好き』『だから、常日頃からよく観察していた』『故に、些細な変化に気が付けた』――たったそれだけの、人によっては笑ってしまうような原理だったのだ。単純明快にして動物の本能に基づく、極めて原始的なそれだった。理知的かつ理性的なモナらしからぬ、推理もクソもない理由だったのだ。


「…………昔はさ、家族みんなで住んでたんだ。」


 ルチアは月を見上げたまま、静かに続ける。モナはその横顔を見つめたまま、その唇が紡ぐ過去を静かに待った。急かしたくはなかった。ルチアのペースで、ルチアの話をして欲しかった。

 それは決してバルナバにそう言われからではない。モナはただルチアに命を救われた者として、そしてルチアの友達として。加えて厚かましい自覚はあるものの、その友情の奥に隠している信仰心を持つ者として、彼女の尊い言葉の一言一句も逃したくがないと思っているが故だった。


「父さんと母さん、それから兄さんとあたしの4人で、あの土地に住んで。牧場を手分けして世話して。

 ――そりゃあ大変だったよ。何しろあの牧場、モナならよく分かると思うけどさ、めちゃくちゃ広いんだもん!みんなで手分けしたって、なかなか終わらなくてさ。……子供の頃は、なんで牧場の家の子なんかに生まれたんだろうって、よく父さんと母さんを恨んでた。」


 ルチアはそう言いながら昔を懐かしむように目を細める。語り口こそ自身に向けたものだが、その口調はどちからといえば過去のルチア自身に向けているような気がすると、ふとモナはそんな思った。それくらいにルチアの表情は優しくて柔らかくて、宛ら時間を超えて今の彼女が小さい頃の彼女を窘めているようだった。モナは今自身が住んでいる牧場で家族と共に過ごした時間がルチアにとって本当に大切な過去だったことを悟ると、自分と同じだと思った。

 ――こうして振り返ってみると、家族だからこそ衝突することも決して少なくなかったなとモナは思う。意見の口違いから始まる下らない喧嘩も真剣な討論も、はたまた楽しい思い出も。結局は今となっては全てが良い思い出で、もう眩しくて戻らない瞬間で、戻れない過去なのだ。それは例え生まれや育ちが違っても、互いにとって共通の事象なんだなと思えるとモナは少し嬉しくなった。嬉しくなったからこそ、モナはルチアから視線を外すと彼女と同じ感情――郷愁に浸るべく空を見上げると同じ月を見つめた。


「でも少しずつ物心つくにつれて、町のみんなに『トレヴァーさんのところの野菜は美味しいね!』って褒められたり、イサークのおじさんとおばさんに『ルチアちゃんのところの農作物は街でも評判なんだよ!』って言って貰えるのが、なんだか誇らしくなってきてさ。――そうしたらなんか、気が付いたら牧場の仕事が好きになってたんだ。」


 イルクオーレの海もルチアの話に耳を傾けているのか、漣ひとつ起こさないまま沈黙を保つ。凪いでいる海は恐ろしいくらいに静かで、そのくせルチアの軽快な口調と明るい声が心地よくて、モナはずっとこのままでもいいかもしれないな、なんてことを思った。それくらいに穏やかな夜だった。美しい月だった。


「その頃からかな。夜、寝る前に兄さんと将来牧場をどうするか語り合うようになったのは。

  ……まあ、まだどっちが継ぐとか継がないとか、そういう話すらなかったんだかどね。でも何故か、2人ともお互いに継ぐ気マンマンでさ。

 兄さんは『もっと珍しい野菜を育てたい!』って言ってたし、あたしは畑よりも動物の方に力を入れたかった。特にヒツジ!なんなら今だって思ってるよ。『毛糸の聖地・イルクオーレ』……な〜んて、どうかな?」

 

 ルチアは語勢に任せてその小さな手を左右に忙しなく動かしては力説する。身振り手振りを以て、自分の考えを伝えようとする。但しそれを伝えようとしている相手が誰なのかは不明瞭なままだった。モナは少なくとも自分に対しては言っていないのだろうな、とそれとなく感じると、一抹の寂しさを抱えながらも無言で頷く。せめて自分くらいはと、どこか遠くで暮らしているであろう彼女の両親と兄に代わって肯定する。その肯定がルチアにとって意味のあるものなのかどうかは、よく分からない。

 ただモナにしては「自分がそうしたいから」という至極身勝手な理由で、静かに頷いた。何故だか、そうしなければいけないような気がした。


「――でも、結局は全部無駄だった。」


 モナは人によっては恐怖すら感じる闇も静寂も、却って心地が良いタイプの人間だった。それは帝国に居た頃からではない。何もかもを失ってイルクオーレに流れ着いて、初めて迎えた孤独な夜に自覚した趣味嗜好だった。モナはかろうじて視認出来る自分の手のひらと、世界で自分だけしか存在しないのではと疑ってしまうほどに音のない世界とが、案外好きだった。それは独りぼっちならばきっと誰にも責められないし、裁かれもしないと思っているからだった。

 けれどルチアだけは別だった。恩人であり、自分の全てであるルチアだけは、どんな神様よりも尊かった。故にモナはずうっと、ずうっとこのまま時間が止まればいいだなんて、珍しくロマンチックなことを考えてしまっていた。

 

 だがその呑気な、ある種平和ボケしている思考は突如として終わりを迎えた。不意にルチアの日に焼けて皮が剥けた唇から紡がれた言葉は、モナの思う心地よい暗闇を遥かに超える陰を含んでいたのだ。

 それはまだ人類が到達していない、光が少しも届かない深海のような暗さだった。それでいて永久凍土の下に置き去りにされたミイラのような、陰鬱とした声言葉だった。思わずあの常に明るく元気なルチアから発されたとは信じたくないほどに鋭利な感情を含んでいた。


「……あの、ルチアさん。ご両親と、お兄さんは――?」

 

 ――モナの本能が警鐘を告げる。脳が視床下部と脊髄を通じて、「それを聞くな」と命令を下す。けれどその衝動に逆らって、モナの唇はリビドーのままに禁句を口にした。

 頭では充分に理解していた。何ならこうして彼女の話を聞くより先に、ルチアがバルナバと共に医院で暮らしていると聞いた時から決して聞いてはいけない話題だということは漠然と理解していた。それを敢えて聞くのは野暮、あるいは失礼にあたると、モナは充分に理解していた。

 理解していたが、モナはそれでも今この瞬間、確かめずにはいられなかったのだ。それは一種の心酔ですらあった。ルチアという少女を神格化してしまったモナの、信者としての悲しい性だった。


「殺されたよ。帝国に。」


 モナは人によっては恐怖すら感じる闇も静寂も、却って心地が良いタイプの人間だった。それは帝国に居た頃からではない。何もかもを失ってイルクオーレに流れ着いて、初めて迎えた孤独な夜に自覚した趣味嗜好だった。モナはかろうじて視認出来る自分の手のひらと、世界で自分だけしか存在しないのではと疑ってしまうほどに音のない世界とが、案外好きだった。それは独りぼっちならばきっと誰にも責められないし、裁かれもしないと思っていたからだった。今この瞬間までは。

 ――けれど、それは全て間違いだった。自分が自分であり続ける限り、過去はどこまでも追ってくる。背負った十字架は永遠に消えることはない。例えある日世界から突然自分以外の全てが消えてしまったとしても、罪は罪のまま残存するのだ。寧ろ裁いてくれる他人が居なくなった分、いつまでもいつまでも鉛のように重苦しい気持ちを抱えたまま、固着した嘘だけが心の底にこびりついて、錆び付いて、そうして死ぬことも出来ないまま徐々に摩耗していくことを、モナはこの日初めて知ったのだった。

 

 過去は消えない。

 赦しなど存在しない。

 わたしが、何かをしたわけでない。

 ――でも、わたしは確かに、彼女の仇だ。

 

 風が吹く。凪いでいた海が荒れる。分厚い雲が、月を隠す。モナは殆ど反射的にルチアの横顔を見つめた。しかし月の明かりも星の瞬きもない今、彼女の表情は読み取れなかった。何を思っているのかも、考えているのかも、泣いているのかさえも憎んでいるのかさえも、何も分からなかった。ただただ、行き場のない不安と罪の意識とがモナを襲った。

 奥歯が震える。喉の奥からヒュウ、と空気が漏れ出す。モナはイルクオーレに来てから初めて、心底夜と闇が怖いと思った。

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