22_某日、病室、訪ね人(3)
あくる日。モナは一晩にして町中を駆け巡った自身の退院の噂に、改めて娯楽に飢えている田舎の本気を見たような気がして思わず震えてしまった。それもそのはず、開院時間になるや否や間髪入れずに病室を訪れては口々に「良かったな!」だの「若いっていいわねえ……」だの、好き勝手なことを告げては快方祝いだと言って到底1人では食べ切れないほどの食事やフルーツを置いていくイルクオーレの人々は、都会のどうにも希薄な人間関係に慣れ切っているモナにとっては軽く恐怖だった。
何しろモナとしては自分なりにイルクオーレという場所に馴染みつつあるという自負があったのだ。それだけに入院中ならまだしも、退院すると決まってからも何かにつけてお節介を焼いてくる町の人々に、モナは久方ぶりのカルチャーショックを受けた。それから一時は恐怖というベールで覆い尽くされてしまったものの、根底にある本当の気持ち――他者への有り難さや単なる思い込みではなく、町の誰もにとっても自分はもう立派なイルクオーレの町の一員なんだなと気付かされると、モナは目を細めて笑った。
――ほんの少し気恥ずかしそうな、けれど幸福に満ち溢れた年相応の表情だった。
「モナちゃん、たいいんってほんとうなの?!」
「もう一日中おれたちと遊べないって嘘だよな!?」
……とはいえ、モナが退院することを快く思わないものも、少数だが存在した。それは格好の遊び相手が仕事に復帰してしまうことを知ったニーナとレックスだった。2人はいつも通り10時過ぎ――ではなく、普段よりも約30分ほど早く病室に飛び込んでくるや否や、噂の真偽を確かめようとモナに詰め寄った。
「退院は本当だよ。来週の話だけどね。あと、退院してかもちゃんと遊んであげるから安心して?」
「でもでも、今みたいに一日中はむりなんだろ?」
「それは……まあ、そうだね。牧場の仕事があるし……。でも隙を見て、また3人で遊べるようにわたしも努力するから――。」
「そんなのいやなのー!!」
ニーナとレックスにとって非常に言いにくいことを言っている自覚のあるモナは、せめてもの気遣いから退院後も今ほどは不可能ではあるものの遊び相手になってやることを告げた。
しかしながらそれはなんの意味も持たなかったどころか、却って逆効果だった。何しろモナの言葉を遮って、ニーナが嫌だ嫌だと大声を上げながら駄々を捏ね始めたのだ。
「大丈夫だよ、ニーナ。これからも遊ぼう?」
「やだあ〜!ニーナ、モナちゃんとずっと遊びたい〜!!ちょっとだけになるなんてイヤー!!」
「お仕事があんまりなかった日はたくさん遊んであげるから。ね?」
「やだ!!いつになるかもわからないやくそくなんてシンヨウできないもん!!やだやだやだー!!ずっとにゅういんしててよぉ〜〜!!!」
モナはいつものようにニーナを窘める。何も永遠に遊べなくなるわけじゃない、入院前のようにちょっとした隙間時間や仕事の少ない日に遊んでいた頃に戻るだけなのだから、と必死に慰める。けれどモナが幾ら言葉を掛けようとも落ち着くどころか、ニーナはヒートアップしていく。徐々にワガママを脱し、半ば癇癪も混じってくる。
それでも心根が優しいというか、あまり波風を立てたくない性格というか、モナは明らかに過ぎた主張をするニーナを叱れない。この子はただレックスとも母親ともまた違う、同性の遊び相手を独占したいだけなのだとつい無意識に庇ってしまう。確かに現在進行形で困り果ててこそいるものの、子供がこうして好きに自分を表現出来るのは大切なことじゃないか、尊いことじゃないかと、無理やり自分の考えをねじ曲げようとしてしまう。そんな時だった。
「ニーナ!……ダメだろ、あんまりモナのこと困らせたら。…………嫌われるぞ。」
モナから噂の真偽を伝えられて以降、それまで沈黙を守っていたレックスが不意に口を開いた。そしてなんとも驚いたことにニーナと一緒になって嫌だと駄々を捏ねるのではなく、寧ろ彼女を咎め始めたものだからモナは思わず目を丸く見開いた。と同時に、驚きのあまり言葉を失った。
何しろモナは最終的にはレックスもニーナと一緒になって、嫌だ嫌だの大合唱をするものだと思っていたのだ。ニーナよりも少しばかりお兄さんとはいえ、まだまだ子供で甘えたい盛りのレックスならばそうするのだろうなとモナは無意識のうちにそう思い込んでいたのだ。ある種決めつけてすらいたのだ。故に予想だにしていなかった行動を前にした驚きはひとしおで、モナは言葉どころか声すらもこの一瞬のうちに失ってしまった。
その代わりと言うべきか、モナは時折目をぱちくりと瞬きさせながら、恐らくは必死に勇気を振り絞っている――もしくは自分の中の『子供』と戦っているであろうレックスの横顔を、静かに見守ることにした。
「やだー!モナちゃんにきらわれるのはイヤー!!」
「じゃあギャアギャアさわぐな。うるさい。」
「それもヤダァーー!!」
「……お前なあ……!」
元より年齢の割にはかなり自己を確立しているニーナに、レックスはかなり手を焼いているようだった。段々と荒くなる語尾と寄っていく眉間の皺に、モナはそろそろ自分が介入すべきだろうかと考える。何しろ今のニーナはあれも嫌これも嫌、とにかく嫌いやイヤ!……な暴れ馬なのだ。理屈の通じない相手なのだ。決してレックスのことを過小評価しているわけではないが、同年代の彼の手に余る存在であることは確かだった。流石にないとは思いたいが、ともすれば話の通じないニーナに苛ついたレックスが手を上げてしまう可能性だってあった。その証左に彼の手はきつく握り締められた後に、小さなちいさな膝小僧の横でプルプルと震えていたのだ。
だがモナの考えとは対照的に、レックスは握り締めた拳をゆっくりと解いた。そして徐に、モナに縋り付くようにピッタリとくっついて離れないニーナの肩を少々乱暴ながらも、彼なりに努めて優しく掴むとまずは自分自身を落ち着かせようとしているのか、大きなおおきな深呼吸をひとつ。次いで真剣な瞳でニーナを見つめると、声を上げた。
「おれだって、モナときがるに遊べなくなるのは悲しいけど……、でも、そうじゃないだろ!!」
存外に大きな声にニーナは言わずもがな、モナさえもピクリと肩を揺らす。けれどいちばん驚いていたのは意外なことに、レックス本人だった。
彼は自分でも想像だにしていなかったほどの大声を出してしまったことに、一瞬狼狽えた。ハッとした表情でモナとニーナとを見遣った。それから夢中だったとはいえ、不用意に紳士らしからぬ振る舞いをしてしまったことを恥じるように慌てて手を離した。だがレックスは時には大人だろうが思わず逃げ出したくなるような気まずさを前にしても、決して逃げなかった。寧ろひとつの咳払いをした後に「……ごめん」と確かな謝罪を口にしてから、改めて口を開いた。
「――あのさ。モナは友達なんだ。友達なんだから、元気になったのをよろこばなくちゃダメだろ。」
「………………。」
「たしかに今までみたいに遊べなくなるのは、おれだっていやだけどさ。でもおれは、モナがずっと入院してるほうがイヤだ。……お前は?」
「――そんなの、そんなの……、」
レックスの問い掛けにニーナは忽ちその大きな瞳に涙を溜めると、モナを見つめる。モナはレックスの勇気を尊重して、何も言わなかった。ただ静かにニーナを見つめ返しただけだった。
するとニーナは程なくして今度はわんわんと泣き出してしまったものだから、答えは聞くまでもなかった。敢えて尋ねるのは寧ろ野暮というものだった。モナは先程とは違う意味で縋り付いてくるニーナを優しく抱き締め返しながら、蜜柑色の髪とまあるい後頭部を撫でてやった。
「ありがとう、ニーナ。……それから、レックスも。」
「別に。――おれが、そう思ったからやっただけだから。」
モナはレックスの何とも大人びた言い草に小さく笑った。それは男子三日会わざれば刮目して見よ、という異国の諺ではないけれど、ここ最近毎日顔を合わせていた彼が知らず知らずのうちにこんなにも成長したことが心底嬉しかったからだった。何なら彼の兄よりも大人びた考えと態度に、感動すらしたからだった。
モナは思う。片親のニーナは無論のこと、ニコラスと共に大工のコンスタンティーノの世話になっているレックスとて充分に寂しいはずだ、と。それどころかニコラスとレックスの兄弟は、事情は知らないものの両親が居ないのだ。心を許した相手に対する依存度は、曲がりなりにも親の居るニーナのそれとは比にならないはずだ。
だというのにレックスはモナが困っているのを目にして、自分の感情を殺してでも助け舟を出してくれたのだ。大人だろうが、ともすれば不可能なことを、彼はたった8歳でやってのけたのだ。一体どれだけ自分を抑えたのだろう、勇気を振り絞ったのだろうと、モナはその心中を想像しては胸が痛んだ。ニーナにそうしているように、レックスのことも思い切り抱き締めて頭を撫でてやりたかった。
「そっか。……格好良かったよ、レックス。」
けれどモナは敢えてそうはしない。レックスが自らを戒めたように、自身もまた心に芽生えた彼への庇護欲を理性という鎖で縛り付ける。抱き締めることも、頭を撫でることも、それ以上のこともしない。ただただ言葉少なく彼を褒め讃えるだけに留めた。
それはニーナという同胞にしてライバルでもある相手の前で、レックスが振り絞った一欠片の勇気をやたらめったらと持ち上げたり、はたまた軽いもののように扱ったりして彼の自尊心と勇気とを傷つけたくないからだった。加えて何よりもモナ自身がつい先日なけなしの勇気を握り締めて戦った人間だからこそ、レックスのことをベタベタに甘やかしたくなかったのだ。
何もモナは勇気を出すのは特別なことではない――というスパルタ的な教育を施そうとしているわけではない。ただ自分自身勇気を振り絞った先駆者として、同じく勇気を出してくれた彼には砂糖菓子のようなベッタリとした喉に張り付く甘さよりも、もっと相応しい応酬があると自負しているだけなのだ。そしてそれが、特別でもなんでもない先の言葉なのだ。何の変哲もない、有り触れた褒め言葉なのだ。
「……だろ!!」
むやみやたらに褒め讃えるわけでもない。かと言って、赤ん坊に掛けるような甲高い声で甘やかすわけでもない。一見すれば冷たくも見えるその言葉こそが、ほんの少しだけ背伸びをしてみたかったレックスにはちょうど良かったのだ。
何しろレックスにとってモナは、仄かに恋心を抱いている相手で。そしてその相手から対等に認めて貰えたわけなのだから、レックスにとってこの世にそれ以上の褒美など存在しないのだ。それくらいレックスにとって、モナからのなんてことのない賛美は心躍る冒険や、その果てに見つける金銀財宝よりも尊いものだったのだ。
「モナさん。いらっしゃいますか?」
「…………ああ、はい――。」
そうして暫し自信満々に胸を張るレックスを、モナは静かに見つめる。慈愛に満ちた視線を向けつつ、口元は静かに弧を描く。宛ら宗教画のような美しい笑みと少しばかり伏せた視線に、レックスはまたモナに恋をする。得難いくらい綺麗な人だと、ごくりと鍔を飲む。
――そんな静寂と喧騒の隙間にある病室の扉が不意に叩かれたのは、異様に静かな正午前だった。




