19_再会
「――――――――。」
朧気な意識の中、まず最初に知覚したのはよく見知った真白の天井だった。清潔感のある白で統一されたそれを、モナは声も上げずに暫しぼんやりと見つめる。見つめながらも幼い頃に高熱を出して夢と現実の境をふわふわと漂った時のような、あのなんとも表現し難い浮遊感の中に意識を預ける。
そうやって夢心地に浸りながら頭の隅ではまだ眠っていたいような、はたまたもう起きた方が良いような――夜更かしして迎えた休日の午後のような倦怠感と怠惰に任せて時折瞼を閉じては、すやすやと穏やかな寝息を立てる。かと思えば、また思い出したように意識を浮上させてはゆっくりと目を開け、ぼうっとした表情で天井を見つめる。
そうして夢と現の境を彷徨い、一体どれくらいの時間が経っただろうか。心地よい休日の惰眠にもいつか終わりが来るように、モナの意識は少しずつ休息から活動へと切り替わっていく。だんだんと眠りに落ちるまでの時間が長くなり、やっと微睡んだかと思えばすぐに目が覚めてしまうようになる。
モナはどれだけ眠ろうともどうにもこびり付いて取れない疲労感に、何度もまだ起きたくないと願う。けれどそう願ったところで瞼を閉じても一向に訪れない眠気に白旗を上げると、仕方なしに目を開ける。そして先程までよりかはしっかりとした頭で見慣れた天井を知覚すると次いで眼球をぐるりと上下左右に満遍なく動かし、今自分がどこにいるのかを確かめる。
「…………………………。」
明るいのに決して目が眩むほど眩しくはない白と、薄手のレースカーテン。数cm開いた窓の隙間から流れ込んでくる、仄かに夏を感じる穏やかな風。
――なんとも既視感のあるこの状況にモナは自分がいよいよ死んでしまったのか、だとすればここは天国なのか地獄なのか、それともまだその前段階にあたる所謂危篤状態というやつなのかと判断がつかずに困惑した。
故にふぅ、と。モナは困惑に任せて、ため息をひとつ吐いた。これが夢幻ならば、自分の脳みそというものは相当にいい趣味、もとい都合の良い構造をしているなと半ば呆れたがために吐き出した吐息だった。
「……い、ッ――!!」
その瞬間、ほんの少し腹の辺りに力を入れただけだというのに身体中を走った鋭痛に、モナは声にならない声を上げると独り静かに悶えた。加えてズキリと痛んだ腹のあたりを抑えようと、殆ど脊髄反射で腕を動かしてのがいけなかった。軽く身動いだだけだというのに実際に動かした腕のみならず、身体中という身体中がまるで左右から力いっぱいに引っ張られているようだった。実際のところは分からないものの、モナは咄嗟に表皮と真皮を剥いだ上で筋肉をズタズタに裂かれるような痛みだと感じた。それくらいに、その痛みは小石に躓いて転んで出血しただとか、紙で指を切ってしまっただとか、そういった日常の中に潜んでいるちょっとした痛みの比ではなかった。
けれど思わず目尻に涙が浮かぶほどの激痛とは反対にモナは感覚という感覚全てを支配しきっている痛覚に、ようやく自身が間違いなく生きていることを悟ると涙目のままでふっと笑った。
「…………あの世って、案外庶民的なんだなぁ…。」
「悪かったわね、庶民的で。」
モナはずうっと昔に吐いたような、その割にはつい昨日にでも口にしたような言葉を嘲笑と共に吐く。それは「また死に損なってしまった」という自嘲であり、同時に「生きていて良かった」という心弛びでもあった。相反するふたつの感情が混じり合った、自分自身がっかりしているのか喜んでいるのかも分からない感情だった。
けれどモナは相変わらず何も分からない状況の中でも、たったひとつ確かなこと――あの時と同じように自分を見つめている美しい碧眼にまた救われたことを理解すると、くすりと笑った。それは先程までの冷笑とは違う、心からの素直な笑みだった。
「残念だったわね、ここがあの世じゃなくって。」
「ええ、本当に。」
ルチアは両手いっぱいに抱えていた替えのシーツを手近な椅子にどさりと置く。それから嫌味と皮肉とをたっぷりと詰め込んだ言葉を、ニコニコと満面の笑みを浮かべながら肯定するモナに深いふかいため息を吐いた。
「――――死にたかったの?」
ルチアは頭を掻きながらベッドサイドの丸椅子に腰掛けると、同じくベッドサイドのテーブルに山ほど積まれたモナへのお見舞いの品――町中の人間がことあるごとに持ち込んできたやれ果物だの花だの本だのぬいぐるみだの――を尻目に、怒気を含んだ声で問い掛ける。その顔と来たら目は釣り上がり瞳は三角、頭には角が生えて見えるような気がするし、おまけに組まれた腕とモナを見下ろす瞳の冷たさが、如何にルチアが彼女のことを心配し、また、自分のせいだと責め立てたことかを如実に語っていた。
「いえ。……でも、これで良かったんだと思います。」
正直に告白してしまえば、未だ彼女の中に生きていることに対する罪悪感というものは存在していた。何しろ生を自覚した瞬間に込み上げてきた、名前の付けようがない感情がそれを物語っていた。故に死にたかったのかと聞かれれば、答えはYESでありNOでもあった。しかしながらモナは敢えてそれを誤魔化すことなく否定も肯定もすると、今感じている気持ちをそのまま包み隠すことなく吐露した。
『これで良かった』――そう言って今度自分を誤魔化してきただろうかと、モナは目を細める。両親を見捨てた瞬間は、ただ生きるために自身に言い聞かせた。この町で暮らすことが決まってからも、これは仕方がないことなのだと自分で自分を慰めてきた。
けれど今この瞬間だけは、自分の感情を嘘と諦めで塗り固めるためではなく。ただただ、生きていて欲しかった人が生きていてくれたこと。その上でルチアに「自分のせいでモナという人間がこの世界から消えた」という事実を背負わせないで済んだこと。加えてどうにか五体満足で、彼女の無事を目にすることが出来たこと。何層にも重ねられたパイ生地の如く積み重なった幸運と奇跡、その全てに対して満足した上で口にした『これで良かった』だったのだ。
にもかかわらず、モナはそれを具体的な言葉では語らない。代わりにただ穏やかで嫋やかな笑みを浮かべては、満ち足りた様子で顔を真っ赤にして怒っているルチアを見つめるだけだった。勿論身体が痛すぎて動かせないというのもあったが、ルチアにならごく短いそれだけの言葉で伝わると信じていたのだ。100の言い訳よりも、1000の後付けよりも、たったひとつの心からの言葉があれば、きっと今の自分の気持ちを理解して貰える――モナは理屈でもなく理論でもなく、感覚でそう導き出したのだ。
「…………もう二度と、ベッドになんて運んでやらないから。」
「はい、分かりました。」
沸騰したマグマのように真っ赤だった顔が、普段通りの色を取り戻す。
「それから、無茶もさせない。」
「それは……ちょっと厳しいかもしれません。」
ブルーベリーと同じ色をした、まん丸な瞳が歪む。
「なら、あたしも無茶する。もうひとりにはしない。」
「……あんなに腰抜かしてたのに、ですか?」
――日に焼けて剥けた皮の残る唇が、震える。
「…………うるさい……。」
「はい、すみません。」
そうやって、とうとう泣き出してしまったルチアにモナは悪びれる様子もなく答える。それからゆっくりと腕を上げると、子供のように自身に縋りついては瞳からボロボロと涙を零しつつひたすらに泣きじゃくるルチアの頭を優しく撫でてやった。
モナは少しでも身体を動かす度に感じる激痛に眉を顰めながらも、ルチアを慰める手は決して止めなかった。それはベッドのシーツをきつく握り締める手のひらと、自分のために流れる涙と、細かく震えては止まらない肩とがどうしようもなく嬉しいからだった。モナは何度も何度も偶然生き残ってしまった自分のために心を痛めては涙を流してくれるルチアに、どこか許されたような――はたまたこの町そのものに、やっと自分の存在を認めて貰えたような気がしたのだった。自分もこの町の住人なのだと、ようやく堂々と胸を張って主張出来るような気がして止まないのだ。
きっと他人は、それを謝った罪滅ぼしだというのだろう。けれどモナはそれで構わないと思うのだ。何度捨てようとしても捨てきれない生命は、今度こそ自分の大切な誰かを守るために使えという神のご意志だとさえ思うのだ。
モナは宗教など少しも信仰してはいない。けれど今ばかりはそう思わなければ、ルチアが自分に向けてくれる感情や涙に歓喜してしまう最低な自分に対しての説明がつかないのだ。




