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第一部 1章 ホメロス 1-『イリアス』──怒りが世界を動かす物語

第一部 ホメロスとヘシオドス──ギリシア神話の“語り手”を見分ける


第1章 ホメロス──英雄たちの息づかいを描いた詩人


・ホメロスという存在


ギリシアの古典に触れるとき、最初に出会う名前がホメロスでしょう。

しかし、彼がどんな人物だったのかは、実はほとんどわかっていません。紀元前8世紀ごろに活動したとされますが、ホメロスの名が文献に現れるのは、作品成立から100〜200年後の時代で、その頃にはすでに、

• 盲目の吟遊詩人だった

• イオニア地方の出身だった

• 7つの都市が生誕地を主張した

など、複数の伝説が並立していて、複数の詩人のイメージや作品を統合した象徴的存在だった、とも言われています。


ホメロスが生きたとされる時代は、文字文化が衰退し、歴史の記録がほとんど残らなかった、ギリシア暗黒時代の終わりにあたる時期でした。

そのため、彼の姿は歴史の闇の向こうにかすんでしまっています。


しかし、だからこそ重要なのが、口承詩人アオイドスの文化です。

ホメロスは、文字ではなく声によって物語を伝える詩人たちの伝統の中にいました。彼らは竪琴を奏でながら、英雄たちの物語を即興的に語り継ぎ、その語りの中で、古い時代の記憶──暗黒時代の戦士社会の価値観や生活──が保存されていきました。


ホメロスの叙事詩は、まさにその口承文化の結晶です。

『イリアス』と『オデュッセイア』には、ポリス(都市国家)が成立する以前の

世界が描かれています。

そこでは、まだ国家という枠組みは弱く、

名誉・勇気・客人のもてなし(クセニア)・家族の絆といった、

小さな共同体の価値が世界を支えていました。


確かなのは、彼の名のもとに伝わる二つの叙事詩──

『イリアス』と『オデュッセイア』──が、古代ギリシア人の世界観を形づくったということです。


暗黒時代の記憶を抱えた戦士社会の価値観と、

口承詩人の語りの技法が重なり合い、

そこにホメロスという象徴的な存在が立ち上がりました。

彼の叙事詩は、単なる英雄譚ではなく、

古代ギリシア人が「世界をどう見ていたか」を伝える最初の窓なのです。



・トロイア戦争


『イリアス』と『オデュッセイア』はいずれも「トロイア戦争」を背景にしています。トロイア戦争とは、ギリシア神話の中でも最も有名な戦争で、ギリシア諸都市の連合軍が、小アジア西岸にあったトロイアという都市を十年にわたって包囲したとされる出来事です。


発端は、トロイアの王子パリスがスパルタ王妃ヘレネを連れ去ったこと。

ギリシア側はヘレネ奪還を名目に遠征軍を組織し、海を越えてトロイアを攻めました。戦争は十年にも及び、数々の英雄が戦場に立ち、神々がその行方に干渉したと語られています。



『イリアス』──怒りが世界を動かす物語


・英雄が戦場に立つまでの道のり


トロイア戦争と聞くと、有名な「木馬の策略」などを思い浮かべるかもしれません。けれど『イリアス』が描くのは、そうした場面ではありません。十年に及ぶ戦争の、ほんの最後の数週間──そのごく短い時間だけを切り取った物語です。


物語の中心にいるのが、若い英雄アキレウスです。彼は海の女神テティスの子で、戦えば名誉を得るが若くして死ぬ、戦わなければ長く生きる──そんな運命を予言されていました。母は息子を守ろうとしますが、アキレウス自身は「英雄として生きる道」を選びます。


ここでいう“英雄”とは、争いを好む者という意味ではありません。古代における英雄とは、自分に与えられた力と運命をどう受け止めるかを問われる存在でした。アキレウスは、戦いの才能を持つ者として生まれた以上、その力を隠して長く生きるよりも、短くても輝く生を選ぶことに価値を見いだしました。だからこそ、仲間たちとともにギリシア軍に加わったのです。


『イリアス』の語り手は、特定の人物の視点に固定されていません。戦場全体を見渡すように、アキレウスの心、ヘクトルの決意、神々の会議、兵士たちの恐れを自由に行き来します。人間の世界と神々の世界を同時に見渡す“高い場所”から語られる物語だと言えるでしょう。



・名誉を傷つけられた青年の決断


物語の冒頭で、アキレウスの名誉が踏みにじられる出来事が起こります。ギリシア軍の総大将アガメムノンが、アキレウスの戦利品として得た女性を横取りし、彼を侮辱したのです。アキレウスは深く傷つき、激しい怒りに包まれます。そして、仲間たちの前でこう言い放ちます。

「もう戦わない。ギリシア軍がどうなろうと、私には関わりがない。」


この一言が、戦争全体の流れを変えてしまいます。アキレウスはギリシア軍で最も強い戦士でした。彼が抜けるだけで軍勢の士気は目に見えて落ち、戦場ではトロイア軍が勢いを増し、ギリシア軍は押し込まれていきます。


ここで、ホメロスの世界の特徴がはっきりと姿を現します。戦争の行方を決めるのは、神々の思惑ではなく、人間の感情なのだということです。



・空の上から見守る者たち


とはいえ、神々が姿を消したわけではありません。戦場の上空では、アテナやアポロン、ヘラやゼウスといった神々が動き回り、それぞれが好む側に肩入れしようとします。まるで観客席から試合を見守るように、時に声をかけ、時に手を貸し、時に妨害するのです。


ただし、彼らが戦争を“決めてしまう”ことはありません。風向きを変えたり、戦士の背中を押したりと、物語を彩る存在ではあっても、最終的にどう動くかは、いつも人間自身の判断に委ねられています。



・友の死が呼び戻すもの


アキレウスが戦場を離れたことで、ギリシア軍はますます苦境に立たされます。

その様子を見かねた親友パトロクロスは、アキレウスの鎧を借りて戦場に向かいます。彼は勇敢に戦いますが、トロイアの英雄ヘクトルに討たれてしまいます。


この知らせは、アキレウスの心を大きく揺さぶります。自分が戦場を離れたことがパトロクロスの死につながった──その思いが、彼の胸の奥で再び激しい炎となって燃え上がります。そして、もはや自分が死ぬ運命にあることを理解しながらも、ヘクトルを討つために戦場へ戻る決意を固めます。


アキレウスが戦場に戻ると、戦況は一気に変わります。ギリシア軍は勢いを取り

戻し、トロイア軍は押され始めます。やがてアキレウスはヘクトルを討ち、物語は大きな転換点を迎えます。



・人間の心が物語を動かす


アキレウスの物語を追っていくと、『イリアス』が描こうとした世界がゆっくりと姿を現します。戦場の上空では神々が動き回り、時に声をかけ、時に手を貸しながら、物語に色を添えています。しかし、戦争の行方を決めているのは彼らではありません。決定的な瞬間に戦場を揺らすのは、人間の心です。アキレウスが怒りに沈黙し、悲しみに立ち上がる──そのたびに戦場の空気は大きく揺れ、軍勢の動きは一変します。戦争の姿そのものが、彼の心の揺れに呼応して変わっていくのです。


ホメロスが描いたのは、英雄たちの武勇を讃えるだけの物語ではありません。神々が見守る壮大な舞台の上で、一人の感情が世界の均衡を揺るがしてしまうという、人間の物語です。アキレウスの怒りと悲しみは、戦争の流れを左右する中心にあり、その揺れが物語全体を押し出していきます。


『イリアス』は、戦争を描きながら、実は人間の心の重さを描いた叙事詩です。

ここで示された視点──世界を動かすのは神々ではなく、人間の内側にあるものだ──は、ホメロスのもう一つの叙事詩にも受け継がれていきます。


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