43話 籠守りの家(かごもりのいえ)
翌朝、ウィルは背中に熱を感じ、上半身をゆっくりと起こした。隣を見やると、彼のベッドに小さな少女が眠っていた。
少女の身体は泥まみれで、その汚れがシーツにまで広がっている。
ウィルは盛大にため息をつき、ためらいながら少女の肩を揺すった。
「おい、起きろ」
少女は「むぅ~」と不機嫌そうな声を漏らしながら、なかなか起きようとしない。
ウィルは仕方なく、もう少し強めに少女の肩をさすった。
すると、重いまぶたを半分開け、目をこすりながらようやく目を覚ました。
「なぁに?」と、眠そうな顔で少女がウィルに問いかけた。
「おはよう」とウィルが挨拶すると、少女も「あさ…おはよう」と返した。
その後、彼女はここがどこかという顔をしながら周囲を見渡し、次の瞬間、ウィルの隣で寝ていたことを思い出して、顔が真っ赤になった。
そして、彼女は怒りの視線をウィルに向ける。
「待て、無実だ!」ウィルは両手を上げて降参のポーズをとったが、少女には全く通じなかった。
彼女はそのまま小さな拳でウィルの胸をドカドカと叩き始め、必死の抵抗を見せた。
ウィルは仕方なくベッドを降り、少し距離を置いてから改めて少女を見つめた。
「お前、名前はわかるか?」と彼は尋ねた。
少女は少し考えた後、静かに「リューカ」と答えた。
「そうか、リューカ。俺はウィルだ。施設に行くまでの間、一緒にいてやる。まずは風呂に入って汚れを落とせ。さすがにそのままじゃ汚いぞ」
リューカは自分の体を見下ろし、ようやくその泥だらけの状態に気づいて小さく頷いた。
スイートルームには個室の露天風呂が用意されており、リューカはそこへ向う。
ウィルはホテルの朝食を頼みつつ、自分の休暇はどこにいってしまったのだろうかとソファーに座り込みしょんぼりする。
アイが少し呆れたように返す。
「まだ幼いのに1人でお風呂入らせて大丈夫なの?」
「さすがに風呂ぐらいわかるだろ」と答えたものの、心配は拭えず、ウィルは扉をノックした。
「リューカ、ちゃんと風呂に入れてるか?」
すると中から「わかんない……」という声が返ってきた。
ウィルはまたも盛大にため息をつき、「絶対に攻撃してくんなよ」と事前に念を押してから、風呂場の扉を開けた。
そこには、湯気の中、裸のまま景色をぼんやりと眺めているリューカの姿があった。泥で覆われた髪と体は元の色がわからないほど汚れていたが、その中にどこかあどけなさを漂わせていた。
ウィルは何も感じることなく、ただ「仕事」として教えることに集中した。
「リューカ」と呼ぶと、彼女は振り返り、冷たい目でウィルを睨んだ。
しかしウィルはそれを無視して、シャワーの使い方を教え始めた。
「まず、これがシャワーだ。これはレバーを操作するタイプだな。赤いシールが貼ってあるところを引くとお湯が出る。青いシールの方を引けば水が出る。やってみろ」
リューカは実際にレバーを引いてみた。
ウィルはしっかりと彼女が体で覚えるよう、実践させてから次の説明に移った。
「この4つの容器、これがシャンプー、リンス、ボディーソープ、洗顔だ。それぞれ髪を洗う、髪を滑らかにする、体を洗う、顔を洗うものだ。洗い方はわかるか?」
リューカは首を横に振った。ウィルは苦笑しながら「仕方ないな、1回だけしか教えないぞ」と言って、彼女にやり方を教えることにした。
「まずはシャワーヘッドを持って、温かいお湯で体を流せ。赤い方のレバーを引けるか?」
「赤い方……」
リューカは呟きながら慎重にレバーを操作し、温水を体にかけ始めた。
彼女の体にこびりついていた泥がゆっくりと流れ落ちるのを見て、ウィルも手伝いながら泥を落とす。
次にウィルはシャンプーを手に取り、リューカに髪の洗い方を教えることにした。
彼女を鏡の前に座らせ、ウィルは丁寧に彼女の髪を洗い始めた。
「強すぎず、弱すぎず、こうやってゴシゴシするんだ」と、彼は優しく手本を見せた。
リューカはじっと鏡越しにウィルの動きを見つめていた。
やがて、泥が完全に洗い流されると、リューカの髪は鮮やかな赤色を取り戻し、湯気の中で微かに虹色に輝いているように見えた。長く流れるその髪は、まるで絹のようにしなやかで美しかった。ウィルはその変化に少し驚きながらも、次の指示を出した。
「次はリンスだ。髪を保護するものだから、しっかりやっておけ」
リンスも終え、ボディーソープで体を洗うように指示した。
「前は自分で洗えるな」
リューカは黙って頷き、自分の体をゴシゴシと洗い始めた。
「洗顔も同様にやってみて」
リューカは洗うのが楽しいのかウィルの言葉は眼中にないようだ。
ウィルはひと仕事終えたような気分で自分の体を洗い、先に露天風呂に入った。
風呂から見える景色は美しく、ウィルはほっと一息つき、前世で聞いたアニメの曲を鼻歌混じりに歌い始めた。
しばらく楽しんでいると、リューカが露天風呂に入ってきた。
彼女はウィルをじっと見つめ、「それ、何?」と興味津々に尋ねた。
「これ?歌だよ。歌はみんなを幸せにできるコンテンツの1つだ」
「コンテンツ……」リューカは不思議そうに呟き、さらに興味を示した。
「興味あるか?」とウィルが尋ねると、リューカは素直に頷いた。
ウィルはアイに向かって「俺の記憶にあるJ-Popやアニメ、ゲームのBGMをリューカに聞かせてやれるか?」と頼んだ。
『もちろん』
アイはウィルの記憶を基にプレイリストを作成し、リューカのデバイスに送信した。
「リューカ、今送ったプレイリストを聞いてみて」とウィルは言った。
リューカがプレイリストの曲を再生すると、彼女は初めて体験する音楽に驚き、目を輝かせた。
「なにこれ……すごい!」
ウィルは微笑みながら「アイ、リューカに曲の作り方や歌い方も教えてやれ。それが彼女の新しい楽しみになるだろう」と頼んだ。
『了解』
ウィルは風呂を上がると、ホテルの係に頼んでリューカの服を用意してもらい、リューカが着替えを済ませるのを待った。それから2人で朝食を済ませ、役所へと向かった。
リューカは少し緊張している様子だったが、ウィルのそばから離れようとはせず、手をしっかりと握りしめていた。
役所に到着すると、ウィルは担当の窓口に相談を持ちかけた。
「リューカという少女を拾ったのですが、彼女の親御さんがどこにいるのか、調べていただけませんか?」
窓口の職員は少し驚いた様子を見せながらも、すぐに対応を始めた。
「少々お待ちください。確認しますね」
しばらく待っていると、職員が戻ってきた。
「申し訳ありませんが、調べた限りでは親御さんの情報は見つかりませんでした」
ウィルは肩をすくめ、「そうですか。では、リューカを預かってくれますか?」と尋ねた。
職員は申し訳なさそうに答えた。
「この役所では、児童を預かることはできません。しかし、児童保護を希望されるようでしたら、『籠守りの家』という施設がございます。そちらに連れて行っていただけますか?」
「わかりました、ありがとうございます」
ウィルはリューカの手を握り直し、役所を後にした。
ウィルとリューカは、籠守りの家へと向かった。
門をくぐると、周囲の空気が一変し、静かで厳かな雰囲気に包まれた。
建物は龍仙谷の伝統的な建築様式をベースにしており、木造の屋根が優美な曲線を描いていた。
入り口の門には、まるで生きているかのように精巧に彫られた龍が、子供たちを守るかのように翼を広げて立っている。
建物全体は巨大な籠のように包み込む設計がされており、その圧倒的な存在感にウィルも息を呑んだ。
庭に目を向けると、小川が流れ、子供たちが楽しそうに遊んでいる声が風に乗って耳に届いた。
小川の水は、山から湧き出た清らかな泉のように澄んでおり、施設全体がまるで守られた聖域のように感じられた。
ウィルはリューカを連れて建物の中に進んでいった。
廊下を歩くと、中庭があり中央には石で作られた巨大な龍の像が立っており、その背後には水が滝のように流れ落ちていた。
龍の口から流れ出す水は、周囲の自然と見事に調和し、木々の間から差し込む柔らかな光が施設全体に温かさを与えていた。
ここはただの児童保護施設ではなく、まるで子供たちを優しく守るために存在する場所のようだった。
やがて、奥から職員らしき姿が現れ、穏やかな笑顔でウィルに声をかけた。
「どうされましたか?」
ウィルは少し戸惑いながらも説明した。
「この子を預かってくれる施設だと役所から紹介されましたので、連れてきました」
ウィルはリューカの手をそっと離し、彼女に向かって「さぁ、行きなさい」と促した。
しかし、リューカは手を離すどころか、さらに強くウィルの後ろにしがみつき、離れようとしない。
ウィルは困惑しながら、彼女を見下ろし、「おいおい、どうした?子供たちがいっぱいいるだろう。私に気にせず、行っておいで」と言い聞かせた。
(お願いだから、早く行ってくれ。これ以上、面倒は見たくないんだよ……)
ウィルは心の中で叫びながら、リューカを職員の方へ促そうとするが、リューカは一向に離れようとしなかった。
ウィルが困り果てていると、職員が優しく微笑みながら、「よろしければ、中でお茶でもいかがですか?」と誘ってきた。
ウィルは仕方なく「そうですね、少しお邪魔します」と答え、リューカを伴って職員についていくことにした。




