42話 龍仙谷(りゅうせんこく)
寝台列車はゆっくりと景色を楽しむように進んでいたが、ついに駅に到着した。ウィルはベッドからゆっくりと起き上がり、無言でホームの景色を見つめた。
異世界に来てからというもの、戦いや仕事に追われ、寝るという行為を忘れていた彼にとって、疲れて寝るという体験は意図しなければできないことであり、久しぶりのことで頭がうまく働いていなかった。
昨日の感情の爆発。それにより、言葉にして吐露することで少しは心が落ち着いたが、まだ完全に元気を取り戻したわけではない。空元気だと自覚し、ウィルは鏡に映る涙に濡れた顔を見て、一度お風呂に入って身支度を整えた。
支度を終えたウィルは、執事に「もう少しここにいてもいいですか?」と尋ねた。執事は微笑んで「もちろんです、どうぞ」と答えたので、ウィルはラウンジで軽く朝食を取ることにした。
美味しい食事は彼の心を少しだけ軽くした。
朝食を終えたウィルが出口にいる係員に挨拶すると、係員は「いってらっしゃい」と気分良く見送ってくれた。ウィルは少し恥ずかしそうに「行ってきます」と答え、列車を降りた。
駅のホームを歩きながら、ウィルは切符を駅員に渡し、そのままホームを後にする。ホームを抜けた瞬間、彼の目の前には広がる壮大な景色が現れた。
龍仙谷の街並みは、古代と現代が調和した美しさを誇っており、石畳が幾何学的に広がり、整然とした伝統的な建物が光を受けて輝いている。ウィルはその場で立ち止まり、圧倒されるように目の前の光景を見つめた。左右には青い瓦屋根が続き、その中央には堂々としたドーム型の建物が立ち並んでいる。木や漆で彩られたその姿は、まるで芸術作品のように美しかった。
風が優しく吹き抜け、ウィルにこの場所の歴史と伝統を感じさせる。遠くには、龍仙谷の象徴である高い塔がそびえ、その背後には連なる山々が荘厳な景色を形作っている。
「美しい景色だ……」
ウィルは感嘆を漏らし、深く息を吸い込んで、新しい世界への一歩を踏み出す決意を固めた。
足取りも軽やかに、ウィルは街を散策し始める。長い間抱えていた不安や迷いが消え、穏やかな気持ちでこの美しい街を受け入れることができるようになっていた。屋台が立ち並ぶ通りでは、焼き物の香ばしい香りや甘いお菓子の匂いが漂い、彼の五感を刺激する。
ウィルは屋台で串焼きを買い、食べ歩き楽しむ。ふと、子供たちが楽しそうに追いかけっこをしている光景が目に入り、思わず微笑む。
仕事の疲れも忘れ、彼はこの新しい都市の風景と空気を心から楽しんでいた。そんな時、串を片手に歩いていたウィルは、慌てて走る少女と不意にぶつかってしまう。
「おっとっと!」
ウィルは咄嗟に体勢を整え、倒れそうな少女を支えた。
「大丈夫かい?」と声をかけるが、少女は無言のまま目をそらす。
そして、落とした串を拾うと、すぐに逃げ出してしまった。ウィルは呆然と立ち尽くし、すると後ろから店主が駆け寄ってきた。
「またやられた!くそっ!おい、お前、なんであいつを逃がしたんだ!」
「え、あの少女、何かしたのか?」
「万引きだよ!あの子、いつもこうして盗んでは逃げるんだ!」
「そうだったのか……気づかなくてごめん」
店主は肩をすくめ、ため息をついた。
「次見かけたら、今度こそ捕まえてくれよ」
「わかったよ、次は逃がさない」
ウィルは申し訳なさそうに返答し、店主は諦めた様子で去っていった。
その場に残されたウィルはふとポケットに手を入れた。その瞬間、決済カードがないことに気づき、思わず表情が硬くなった。
「やばい、やばい、やばい!」
決済カードには700億コルという大金が入っている。観光気分で気を抜いていたせいで、さっきの少女に盗まれたのだ。
「これはまずい……」
ウィルは焦りながら、すぐにサポートをONにしてアイを呼び出した。
アイは腕を組み、不満そうにウィルを見つめた。
「ウィ~ル、何か言い訳があるなら、聞いてあげるけど?」
ウィルはアイの姿に一瞬ひるんだが、すぐに状況を説明した。
「ごめん。でも、緊急事態なんだ。さっきぶつかった少女に決済カードを盗まれたんだ」
アイは呆れたようにため息をつきながら、「ほんとにもう、ウィルったら……しょうがないわね」と言い、プンプンと怒りながらウィルと視線を合わせようとしない。
「全面的に僕が悪いです。許してください。本当にごめんなさい!」ウィルは素直に謝罪した。
アイは少し考えた後、拗ねた表情をしながらも、「しょうがないわね、助けてあげる」と言って彼を許した。
その後、アイはウィルに少女の逃げたルートを提案した。
「まずは、この道を辿って探してみましょう。早くしないと、あの少女がどこに行ったか分からなくなるわよ」
ウィルはアイに提案されたルートに従い、スライムワイヤーを使って高い建物伝いに移動し、逃げた少女の行方を追いかけ始めた。広い視野で街並みを見渡しながら、次々に状況を整理し、思考を巡らせる。そして、ついに少女が大通りから裏手の木陰へ駆け込む姿を発見した。
「アイ、あれだ!」ウィルは少女を指差し、アイに報告した。
『いくわよ』アイの声に従い、ウィルはスライムワイヤーを使って素早く移動し、少女の逃げ道を遮断する。
少女は驚いた表情を一瞬見せたが、すぐにそれを隠し、無言でウィルを睨みつけた。彼女は両手を肘で抱えるように前かがみになり、守るようにしていた。
明らかに「返さない」という意思が見える。
「アイ、どこにカードが隠されているか調べてくれ」
『任せて』アイはすぐに近距離無線通信を使って、少女が持っている決済カードの位置を補足した。
「その右ポケットにカードがあるだろ?」
ウィルは冷静に言いながら少女に歩み寄った。
「今なら許してあげる。だから返してくれ」
しかし、少女は頑なに黙ったままだ。
「謝れば、今持っているものはそのままあげるよ。でも、謝らなければ店主のところに連れて行くしかない」
それでも少女は反応しなかった。ウィルは溜め息をつき、決意を固めた。
「仕方ない、店主のところに連れて行くよ」
ウィルはスライムワイヤーを使って少女を縛り上げ、抱きかかえるようにして歩き出した。少女は抵抗しようとするが、縛られた状態では身動きが取れない。
ウィルは内心で、(関わりたくないけど、このまま放置することはできない……)と自分に言い聞かせた。
もし今動かなければ、彼女は同じことを繰り返すだろう――そんな親心が彼を動かしていた。店主のもとに到着すると、ウィルは少女を引き渡し、事情を説明した。
店主はすぐに怒鳴り声を上げ、少女を厳しく叱り始めた。
「おい、お前!盗みをするなんて何度言ったらわかるんだ!」
しかし、少女は何も言わず、ただ肩を震わせながら食べ物を守り続けていた。その様子を見て、ウィルは胸の痛みを感じた。
(店主に怒られるという行為は……彼女にとって耐えることなんだ……)
ウィルは現代の倫理観とは異なる世界の現実を思い知った。この少女が適切に学び、心を育む環境があったなら、悪いことをしたと感じ、反省することもできただろう。しかし、今の彼女はその状況をただ耐えるべきものとしか理解していない。
(彼女がこんなふうにならなければならなかった理由があるんだろうか……)
ウィルはそう思い、胸の痛みが一層強くなった。
「もういい……」ウィルは店主に向かって言った。
「彼女の分は、俺が支払います。多めに払いますから、これで勘弁してください」
ウィルはかなりの金額を店主に渡し、さらに耳打ちして頼んだ。
「この子には適切な学びの場所を与えたいんです。もし、また何かあったら、このお金で許してください」
店主はため息をつき、「あんた、他人に優しすぎる。いつか痛い目に遭うぞ」と警告した。
「わかってますよ」ウィルは苦笑しながら返答し、少女を連れて店を後にした。
ウィルは少女の手を握りながら、彼女を児童養護施設か何かしらの保護施設まで連れて行こうと考えていた。少女は無言だったが、しっかりとウィルの手を握り返し、彼の歩みに合わせてゆっくりと歩いていた。
その小さな手の感触に、ウィルは彼女が抱える孤独や不安を少しだけ感じ取ることができた。途中で、少女がウィルの手を軽く振りながら、何かを伝えようとしていることに気づいた。
ウィルは足を止め、膝をついて彼女と目線を合わせ、優しく問いかけた。
「どうした?」
少女は依然として黙ったままだったが、その目は何かを訴えているようだった。
「ひょっとして、喋れないのか?」
ウィルは彼女が言葉を発しない理由を察し始めた。
試しに言葉をかけてみる。
「今から、僕が言う言葉を理解できたら、首を縦に振って。もし理解できなければ、横に振るんだ。わかった?」
しかし、少女は無反応だった。
ウィルは彼女が言葉を理解できないことに気づき、現代的な価値観で彼女を責めてしまったことを反省した。
「なるほど、何か事情があるんだな……」
ウィルはゴムバンド型のデバイスを少女に渡し、腕にはめさせてから、画面を共有しながら言語をインストールしてみた。
すると、少女は驚いたように目を大きく見開き、はしゃぎ回り始めた。
言葉を知らなかった彼女が、一度に言語を理解したことで、感情が高ぶってしまったのだ。
「まずい、こんなところではしゃがせてしまうなんて……」
ウィルは焦り、周囲の注目を浴びないよう急いで彼女を宿泊先へ連れて行くことにした。
ウィルは街を駆け抜けるように進んでいると、『龍神の旅館』という看板を見つけた。
重厚な造りの建物が目に入り、彼は迷わずそこを選ぶことにした。
フロントで最も高い部屋を予約しようとしたが、決済が必要なため、ウィルはふと自分の決済カードが少女に盗まれたままだということを思い出した。
「すみません、少しお待ちください」とウィルはフロントに声をかけた後、背後にいる少女に視線を向けた。
少女は依然、黙ってウィルを睨んでいたが、彼女の右ポケットに手を伸ばし、決済カードをまさぐる。
「ごめんね、これだけは返してもらうよ」
ウィルは冷静に言いながら、少女の右ポケットを探り、カードを取り出した。
少女はムッとした表情でウィルを睨みつけたが、彼は気にせずカードを回収し、すぐにフロントで支払いを済ませた。
部屋に案内されたウィルと少女は、豪華なスイートルームに入ると、ひとまず落ち着くことにした。
ウィルは少女にベッドに座るよう促し、冷静に今後の対策を考えた。
彼女は膨大な言語データをインストールされた直後で、その情報量に圧倒されていることがわかる。
彼女の興奮を抑え、言語を効率的に使えるように調整する必要があった。
ウィルは少女に言語の「最適化」を施すことにした。
まず、デバイスで彼女の言葉や文脈のパターンを整理し、よく使う言葉を重点的に扱えるように調整を進める。
これは、彼女の中で言語を整理し、徐々に使いやすくする作業だった。
よく使う言葉や感情に関連する言葉を頭の中で整理しておき、いつでもスムーズに使えるようにしておくことで、彼女が冷静さを取り戻せるようサポートした。
数分の作業の後、少女は次第に落ち着きを取り戻し、言葉を理解できるようになってきた。
ウィルは試しに少女に話しかけてみた。
ウィルは彼女に向かって画面を共有し、チャットで質問を投げかけた。
「言葉は理解できるかい?」
少女は首を縦に振った。
「喋れる?」と尋ねると、少女は首を横に振った。
ウィルは喉に問題があるのだと気づき、彼女の声帯を診ることにした。
「ちょっと触るよ。大丈夫?」とウィルは優しく言い、彼女の喉に手を当てた。
少女は睨みつつも、じっと耐えた。
「何か喋ってみて?」ウィルは促したが、彼女は声を出すことができなかった。
喉が震えず、音が出ない。
「アイ、この子の声帯が震えていない。原因はここだと思うんだけど、復元できる?」
『できるけど……先天的なものかもしれないし復元して治るかわからないわよ?』
ウィルはアイの提言で方針を変えることにした。
「いや、声帯を復元するよりも、デバイスでサポートして声を作り出す方がいいだろうな。彼女が『こういう言葉を喋りたい』と思ったら、その意識をデバイスが読み取って、声を作り出すようにしてあげよう」
ウィルは冷静に提案した。
『その案、良いかも。すぐに対応できるようにするわ』
アイは軽やかにウィルの提案に賛同し、即座にその機能を実装し始めた。
彼女の声帯から彼女の声をシミュレーションする。
もし、彼女の声帯が問題なく機能していたらどんな声が発声されるのかウィルはシミュレーションの中から限りなく近い声を探っていく。
そうして近い声だと思ったものをアイと協議した上でデバイスに組み込み、完成した。
完成したのは「ボイスリンク」というアプリケーションだった。
ウィルは彼女のデバイスで実装したアプリを起動して、少女に向かって優しく説明する。
「このアプリケーションは、君が頭の中で発したいと思う言葉を声として周りに伝えるものだよ。君の声を周りに伝えることができるんだ」
少女は不安そうにウィルを見つめていたが、彼の真剣な表情を見て、少しだけ首を縦に振った。
アプリ内の細かい設定を終えてウィルは確認作業に入る。
「さぁ、これで話せるようになったと思うけど、どうだろう?」
ウィルは期待を込めて、少女に問いかける。
少女は一瞬、驚いた表情を浮かべ、そしてウィルをじっと見つめた。
次の瞬間、突然手を振り上げ、ウィルの頬に「パシッ!」とビンタが飛んだ。
ウィルは予期せぬ痛みに驚き、言葉を失った。
そして、少女のデバイスから響いた初めての声――
「エッチ!」
彼女は涙目を浮かべ、怒りに満ちた表情でウィルに向かって叫んだ。
まるで溜め込んでいた怒りと感情を一気に解放するかのように、彼女は次々とウィルに対して憎まれ口を叩き始めた。
「バカ!!エッチ!!」
「触らないで!!」
ウィルは呆然としたまま、少女の暴言を浴び続け、頬の痛み以上に心が傷ついていくのを感じた。
親切心で彼女を助けたにもかかわらず、その善意がこうも報われないとは思ってもみなかった。
(自分が思う善行が他人の善行にはならないか……)
ウィルは心の中でそんな現実を受け入れようとしていた。
『ウィル、どうやら彼女、ちゃんと話せるようになったみたいね!私のサポート、やっぱり素晴らしかったわ!』
アイは自信満々に、まるで自分の手柄だと言わんばかりに誇らしげな声を上げた。
「そうだな……でも、これが俺の求めていた結果なのかは、正直わからないな……」
ウィルは疲れ果てた表情で、少女の発言に半ば呆れていた。
少女はデバイスを通じて、次々にウィルに対して憎まれ口を叩き続ける。
「エッチ!」「バカ!」と、感情をぶつけるように言葉を吐き出す彼女に、ウィルは徐々に心が折れかけていた。
「もう、今日は勘弁してくれ……」
ウィルは大きくため息をつき、やっとのことでベッドに横たわった。
少女がそばで何かしら文句を言っているのを聞き流しながら、ウィルの頭の中は、すでに明日のことに思いを馳せていた。
(施設に連れて行けば、彼女も落ち着くだろう。こんなのとはもうゴメンだ……)
ウィルはその決意を胸に固めた。
少女は相変わらず、ウィルに向かって憎まれ口を叩いていたが、彼はその内容にあまり気を留めることなく、疲れた身体を癒すために目を閉じた。
彼女の言葉の裏に隠れた寂しさや苦しさがあることに気づいていたが、今日はそのことを深く考える余裕はなかった。
(明日になれば、少しは状況が落ち着くだろう……)
そう思いながら、ウィルは静かに眠りに落ちていった。
そして、彼が最後に聞いた少女の言葉は、彼に対するささやかな『感謝』の気持ちだった――ぶっきらぼうな口調の中にも、ほんの少しだけ照れくさそうな優しさが混じっていた。
「……ありがとう」
それを聞いて、ウィルは微かに微笑み、ようやく1日が終わったことを感じながら、深い眠りへと誘われた。




