Ep.97「正夢」
部屋に戻ると、いたのは凛兄ちゃんとネウだけだった。
凛兄ちゃんはボクに背を向ける形で横になっていて、ネウはボクが寝る布団の上で丸まっていた。
戻ってきたのに気付くと、黒い塊から猫の形に戻ってボクの足元にやってきた。
しゃがんで頭を撫でていると、「……話せたのか」と訊ねてきた。頷くと、「そうか」とだけ言ってボクの手の甲をやわく叩いてきた。抱き上げろ、のおねだりである。
仰せの通りに抱き上げて、布団の上に胡坐をかく。
凛兄ちゃんは、微動だにしない。
「凛兄ちゃんは?」
「……寝ている。お前が戻るまで起きているって言っていたんだが……」
「今日は皇彌さんとタイマン張っていたからね。疲れているんだよ。――蜜波知さんは?」
「家族と過ごす、とのことだ。――しかし、疲労という概念があったとは驚きだな。毎日お前のことを気絶させるまで抱いているっていうのに……」
「うーん、戦う体力とする体力って……、違うんだと思うよ」
「……そうなのか……?」
「たぶん……?」
よくわからないけれど。
ボクはネウを腕に抱いたまま、天井を見上げた。
「……ねえ、ネウ」
「なんだ」
「……『慈母』って、どんなひとなの」
「……文字の通りだ。慈悲深いお方だよ」
「慈悲深いひとが造ったのに、……紫乃盾はどうして、あんな風になってしまっただろうね……」
八目さんは慈悲深いからこそ『自我』を持たせた、と話していた。
単なる装置としてではなく、ひととして彼らを生かすために。
「……遊兎都」
「……なあに」
「わかっているとは思うが……、救おうなんて。考えるなよ」
「……え?」
思わず腕の中のネウを見る。まんまるの、満月色をした目がじっとボクを見ていた。
眼下にいるはずなのに、空から見下ろされる感じだった。
「あいつがああなったのは、あいつの選択だ。だからお前には関係ねえ」
「……うん」
「お前、蜘蛛頭八目に釘刺されたんじゃねえのか」
「えっ」
――慎重に。万全を期して。後悔がないように。救いの手を差し伸べろ
どうして、あの場にいなかったネウが八目さんに言われたことを知っているのだろう。
ボクの顔を見て「なんとなくわかる」と彼は言った。
「お前はやさしすぎるんだよ。『墜落の異能』に堕ちかけていたときはひやっとしたんだぜ」
「……あ」
兎戯君に唆されていたボクを助けてくれたのは、ネウだ。
あの時、彼の声がなければきっと危うかっただろう。紫乃盾にその身を捧げていたかもしれない。
「……そういえばお礼を言い忘れていたね、ネウ。……ありがとう、助かったよ」
「……ふん。……心を尽くすものとしては、当然だ」
ネウはそう言って、薄暗い闇の中で形を変えた。ぐぐ、と背が伸びて抱き上げていたはずなのに、いつの間にか抱き締められていた。
落ち着く、涼やかな香りがする。
「……『番』、か」
「……なんだよ」
「ううん。……なんか、夫婦みたいだなあって」
「ふ……!!」
突然引き剥がされて、顔を真っ赤にさせた祢憂がいた。
蜜波知さんを散々からかっていたくせに、彼のほうがずっと初心である。
「……め、滅多なこと言うんじゃねえ……」
「なんで? ああ、でも……うーん、まあ、一妻多夫っていう慣習もあるらしいし」
「……お前な……」
呆れたように半眼になる祢憂を、ボクは笑った。
欲しいものは、手に入れる。
大切なひとには、ずっと傍にいてもらう。
だって、
「ボクは女王様なんだよ、祢憂。傲慢でワガママで、自分勝手なんだ」
そう。
ボクは女王様だ。アリスを裁判にかけて、決めつけと自己中心的な判決で、イカれた世界から追いやった張本人。
あの男は主人公ではない。けれど、この世界にとって遺物であり、異物であることは間違いない。
なら、あの男をこの世界から追い出すのは――
「あいつを止めるのは、女王たるボクの役目だ」
世界を支配するほどの力なんて、持っていないけれど。
でも、この世界の支配者面するやつがもうひとりいては、女王としては困る。
排除しなければ、世界が歪んでしまう。だから――、ボクはあの塔に登って、紫乃盾を止めなければならない。
己の成すべきを成せ――ボクの役目に、忠実であれ。
七鷗さんは多くを語らなかったけれど、おそらくそういう意味なのだろう。
余計なことは考えるな、と。
自分なんかが、とかお荷物なんじゃ、とか。いろいろ考えるのはもうやめだ。八目さんに禁止されたし。
思考している間も、時は進んでいくから。
世界は、どこまでも残酷なのだから。
祢憂は一瞬眉間に皺を寄せた。が、ボクの目のうちに宿るものを見て、諦めたように溜息をついた。
「……オレはたぶん。……お前のことを、誤解していた」
「へ? ごかい?」
「自己評価が低い癖に、自己犠牲精神のクソほど強え、監禁好きだと思っていた」
「……最悪過ぎない?」
あんまりだ。あながち間違っちゃいないのも、なんか悔しい。
「でも、違った。一緒にいればいるほど、俺は目の当たりにしている。……お前はたぶん、強いんだろう」
「強く……はないよ。ただ己の欲望に忠実なだけさ」
「そうやって自分の弱さを受け入れているのが、強ぇってことだよ」
祢憂が頬を撫でてきた。いつか見た夢のように。
感触もあるし、あったかい。ちゃんと確かめたくて、掌に頬を擦り寄せたら彼の体がびく、と反応を示した。
「……ゆ、遊兎都……」
「うん?」
「……い、っておくが……」
「うん」
「……オレは……作法が……、わから、ない……」
「さほう? なんの?」
「……」
夜闇でもわかるくらい赤面して、祢憂は満月の目を逸らした。
祢憂が顔を赤くさせるまでに親しみのない作法。
ああ、なるほどね。
「大丈夫。――ボクが全部教えてあげるから」
「っ!」
赤い顔が、更にその色を増した。
頭から煙でも出そう。
「祢憂のサイズは、わからないけれど。たぶんボクのほうで解せば問題ないと思うよ。それでなくたって凛兄ちゃんは規格外だし、蜜波知さんもなかなか――」
「っやめろ! テメエっ、ちょっとは恥じらえ!」
「恥じらい? あ、祢憂は恥じらっていた方がいいってこと?」
「うるせえっ、そういう話じゃねえっ! なんでテメエはッ! そういう話になると途端に察しが悪くなるんだよ!」
「察しが悪い? 何の話をしているのさ、祢憂」
「あーっ、だから!」
祢憂はやけくそ気味に、ボクを抱き締めた。
「大事に……したいんだよ」
「……へ」
今度はボクの顔が赤くなる番だった。抱き締められているから、祢憂にはバレていないだろうけれど。
「……『番』になったらそういう欲求が出るのは理解している。オレたちはひとの心がわかるよう、人間の形をしているからな。……生殖行為に関しては『番』の許しが出れば、可能だ」
「……うん」
「でも、オレは。……大事にしたい」
ドッドッと心臓の音が聞こえてきた。
生きている音だ。安心する。
大事にしたい。祢憂の気持ちが伝わるみたいで、嬉しかった。
ボクは彼の広い背中に手を回した。
「……ありがとう、祢憂」
「……ああ」
あったかいなあ、眠くなってきた。
そろそろ寝ようかと声をかけようとしたところで、気づいた。
眠気に蕩けた紫苑色が、ボクを見ていることに。
「……」
「り、凛兄ちゃん?」
ボクと祢憂に関して、凛兄ちゃんは周知だから後ろめたいことなど何もないのだけれど。
じとっとした視線は、居心地が悪い。
「凛兄ちゃん? あ、……おはよう?」
「……おはよぉ……」
声と表情から察するに、はっきり覚醒したわけではなさそうだ。凛兄ちゃんはのっそりと身を起こして、そのまま倒れ込むようにボクを抱擁してきた。
祢憂も巻き添えで。
「っわ」
「!?」
当然凛兄ちゃんの体重になんか勝てるはずもないので、三人そろって布団に横になる。
寝ているというのに、抱き締めている力は半端なく強い。身じろぎひとつもできなかった。
祢憂も困惑していて、そのせいか猫に戻るのを忘れているようだった。
「凛兄ちゃん……?」
「……」
聞こえるのは、すうすうという規則正しい寝息だけ。
どうやら、寝ぼけていただけみたい。
ちゃんと眠れているのならよかった。目の下のクマも、ほんの少しだけだけれど薄くなったようだし。
「……このまま、寝よっか」
「……仕方がないな」
瞼を閉じる。ものの数秒で、ボクは夢の世界に旅立った。
◇
――その日、ボクは不思議な夢を見た。
月も星もない夜空のもとを、二匹の狐が駆けていく。
黒い毛並みと金色の毛並みをした狐だ。彼らは一目散に何かを目指して走っていた。ふと、金色の狐が上を向き、一声鳴いた。
すると羽の音が大きく響き、それが地上に降りてきた。
黒い外套で身を覆った背の高い男性である。男は黒い狼を連れていた。狼の方が先に狐たちに近づいて、親しげに匂いを嗅ぎ合っていた。後ろから男がやってくる。彼の顔は、フードに隠れて見えなかった。
男はその場に膝をつくと、狐たちの頭を愛おしそうに撫でた。二匹は嬉しそうに目を細めた。
ページをめくるように、場面が切り替わる。
そこは教会だった。懺悔するように朽ちた十字架に跪く聖職者がいた。聖職者の服はびりびりに破けており、傷を負っているのは明らかだった。
背後の扉が開く。外は大嵐だった。扉の隙間からずぶ濡れの野犬が入ってくる。聖職者は驚かなかった。怯えもしなかった。彼はやってきた野犬に手を差し伸べ、触れた瞬間――薄汚れていたはずの犬は、紫色の美しい姿に変化した。犬を撫でてやる聖職者もまたどこにも傷を負っていなかったし、服は真っ白でどこにも破れも解れもない、きれいな状態に変わっていた。
教会に、暖かい日が差した。朽ちた十字架はなかった。あるのはふたりを見守る、聖母の像だけだった。
再び、場面は切り替わった。
真っ白な空間に、薔薇を抱いた誰かが立っている。その腕には黒い蛇が巻き付き、肩には大きな羽を広げる鷹か鷲のような猛禽類の鳥が留まっていた。薔薇を抱いたそのひとは、眼下にある揺り籠を愛おしそうに見つめていた。
どこからか蝶が二匹飛んできた。蝶の鱗粉が揺り籠に降りかかると、籠の中は発光し、視界が覆われる。眩しい視界のその中で、赤子の泣き声が微かにしていた。
――そして、〝ボク〟は不意に手を見た。
傷だらけの手には包帯されておらず、代わりに薔薇の蔦が巻き付いていた。棘が肌に触れていたけれど、痛みは感じなかった。それを見て、〝ボク〟は安心していた。
これで、よかった。
何も間違っていない。
――の<統治者>として――
――なんの?
思い出そうとしたところで、目が覚めた。
夢のなかと同じように手を見た。傷だらけの手のひらが、手首が、腕がそこにある。当然薔薇の蔓なんてない。
「……<統治者>」
ボクはその言葉を繰り返す。
これから――、どうなるのだろうか。
漠然とした不安に苛まれながら、ボクはもう一度目を閉じた。
もう夢は見なかった。
◇
朝。
ボクのみならず、祢憂を抱き締めていたことに気づいた凛兄ちゃんは、ちょっと機嫌が悪かった。
寝ぼけている凛兄ちゃんも可愛かったよ、と言ったら少しだけ直った。