Ep.96「流れ星に祈る」
空気が澄んでいるせいか、星が良く見える。
お風呂で火照った体を冷やすのに、ボクは縁側に腰かけていた。凛兄ちゃんが一緒に入ると言ったので、隣には彼もいる。ネウは、「オレは部屋にいる」と言って出て行ってしまった。予感を察知したのだろう。
お風呂場で抱き締められたけれど、逆上せてはいけないからね、と凛兄ちゃんのほうが自制してくれて助かった。
彼は着付けを知っていたようで、ボクの浴衣も丁寧に着せてくれた。
美しい星空は、いつかの船の上でのことを思い出させた。
――君の言葉が届くようにね
薔薇さんは、維央さんからの伝言が本物だということを八目さんが雅知佳さんに伝えた、と言っていた。
信じてもらえるのだろうか。けれど、八目さんは同性であるし、見た目にタダモノではないことはわかる。豪快で気取らないタチだった。
だからボクも比較的に気楽にして、話を聞けた。語り口も軽快だったし、時折間に挟まれる扇子の音が、適宜緊張させてくれるおかげもあった。
でも、それ以上に。
――彼女の言葉に嘘はないと確信できる〝なにか〟があるのは確かだ。
ぼんやり眺めていると、誰かの気配を感じる。ボクより先に〝誰か〟を理解した凛兄ちゃんが、素早くボクを腕の中に隠した。
胸板から視線を逸らし、首を捻ってボクもそのひとを確認する。
――そこにいたのは、目の周りを赤く腫らした雅知佳さんだった。
凛兄ちゃんは警戒していて、雅知佳さんは疲弊していた。察するに泣き疲れた、って感じだ。ボクは凛兄ちゃんを仰ぐ。
「凛兄ちゃん」
「……ユウ君」
紫苑色は心配そうだった。だから「平気だよ、平気だから」と言い募った。
凛兄ちゃんは渋々といった風に、ボクを降ろした。
雅知佳さんは何も言わない。ボクらの仲睦まじい様子を、苛立たしげに見るようでもなく、ただすべてに疲れたように――そこに佇んでいた。
「……雅知佳さん」
呼びかけると、彼女の橙色の目が少しだけ動いた。凛兄ちゃんを見ている。
「……凛彗。……少し席を。……外してくれるかね」
声はかすれていた。数秒、間があって。
衣擦れの音――凛兄ちゃんが立ち上がるのがわかった。ボクらにあてがわれた部屋は、雅知佳さんの後ろにある角を曲がった先だ。だから自室に戻ろうとすると、雅知佳さんとすれ違う形になるのだけれど――すれ違う刹那、凛兄ちゃんは彼女に何か耳打ちをした――と思う。
凛兄ちゃんの背中を見送って暫く。
雅知佳さんはボクに近づいて、「彼は全くぶれないね」と言った。そして、充分な距離を置いて座った。彼女の目は満天の星空に向けられていた。
夜風が音もなく、通り過ぎていく。
ぐっと息を呑んでから、恐る恐る雅知佳さんに「……何か、言われましたか」と訊ねた。
ボクの心臓の音が聞こえるのではないか、と思うくらいの沈黙があって、「君に何かしたらただじゃおかない……と」と彼女は答えた。
――凛兄ちゃんは雅知佳さんが嫌いなのだ。
ボクを利用しようとした、彼女のことを。
申し訳ない気持ちになって俯く。再び、静寂があたりを包んだ。
「……あれは……番犬か。……何かかね」
それを破ったのは、少しだけ嘲りを孕んだ雅知佳さんの声だった。ボクは「……そうかもしれません」と応じた。
時折大型犬みたいな印象を受けることがある。かわいいという意味もあるし、恐ろしいという意味もある。そう思うと、犬というより獣かもしれない。
「……蜘蛛頭八目から……、聞いたよ。……維央のこと」
「……」
「なぜ……」
「……」
「……なぜ、ほくろのことを……。言わなかった」
責めるような口調だった。
維央さんが教えてくれた、星の形をしたうなじのほくろ。
言えばきっと信じる、と彼女は笑っていた。
でも、ボクは言わなかった。それは、信じてもらうよりもずっと――
「……伝えたかったんです」
あのひとの言葉を。
陽だまりの光を。
取り戻してほしくて、話さなかった。
ふ、と雅知佳さんが笑う気がした。嘲笑うようなそれだった。
「……私が信じる確証がないのに、か?」
「そうですね」
「……愚かだな、まったく理解できない」
「その時のボクは、必死だったので」
「……必死、必死か。……私を……、救うのに?」
「違います。――伝えるのに」
「……」
救いたい、なんて傲慢だ。
自分を救う権利があるのは、自分だけ。
あなたの痛みを知るひとだけ。
そう簡単に誰かを助けることは、できない。
――ひとを救うのって大層なことなんですよ
蒲公英さんの言葉が呼び起こされる。
そう、誰かを救うのって大層なことなのだ。
安直に言っていい言葉じゃない。
「私は……、ザイカで、出会った君に……勝手な親近感を覚えていた」
振り絞るような、かすれた声。
雅知佳さんは、誰にも見せたことのない〝弱さ〟をボクの眼前に差し出そうとしている。
男であるボクに。
無意識のうちに、奥歯を噛み締めていた。
この覚悟の前に、どんな言葉も意味を持たない。
ボクの吐く言葉のすべてが、悪辣な戯言にしかならないだろう。
「……だが、違った」
「……」
「……再会した君は、凛彗と通じ合って……、幸せそうで……」
「……」
「……妬ましく、思った……」
「……」
「……けれど」
「……」
「妬ましいと……思う、……自分が」
「……」
「……なによりも、おぞましく、……嫌い、だった……」
――苛々するよ
『神霧教』本部で出会った際に言われた言葉の真意。
唾棄すべき存在である男に対し、憧れを抱く矛盾。
筆舌に尽くし違い感情。
差し出された〝弱さ〟にボクは触れられなかった。本来、ボクなんかが触れていい場所ではないから。雅知佳さんのやわらかい部分だったから。
畏れ多くて、見つめるのが精いっぱいだった。
「……君は」
雅知佳さんが、ボクを見る気配がした。視線をゆっくり、そちらに向けると橙色の光が頼りなく輝いていた。
「……なぜ、……私を、恨まない……」
か細く弱々しい声だった。
その言葉に、――雅知佳さんとしては不本意であろうけれど――蜜波知さんとの出来事が蘇る。
責めてくれ、と頼んだ彼も同じ色の目をしていた。
己の胸中を吐露するひとたちはみな、その目に迷子の光を宿す。
その道に進んでいいのか、悪いのか。道の先を知るのが怖い、でも知らないと先に進めない。
導になるかはわからないけれど、ボクは答えた。
「……雅知佳さんはボクの恩人だからです」
アナタの改革で、ボクは救われた。
アナタの計画で、ボクは大切なひとと再会できた。
アナタの思惑で、ボクは最後に父から言葉をもらえた。
たとえ、ボクを利用しようとした結果だったとしても、それでも。
救われた事実は、覆らない。
久遠寺雅知佳が梵遊兎都の恩人であることは、変わらないのである。
「……っは、……ははは……なるほど……」
雅知佳さんは呼吸を整えるみたいに浅く笑って、それから立ち上がった。ボクもならって立ち上がる。お互いに向かい合った。
橙色の瞳には、先ほどとは違う。――その奥に強い意志が、小さな炎が、揺れていた。
「……蜘蛛頭八目が言っていた」
――小僧に憎んでほしいなら、簡単さ
――白樺凛彗、遠瀧蜜波知、嵐神尾祢憂、翠玉の坊主なんかを惨たらしく殺してやればいい
――小僧の眼前で、笑いながらひどく、これ以上ないほど侮辱しながらな?
――無理だろう? だから、そういうことだ
――あいつの懐の深さを、お前は甘く見ているぜ
雅知佳さんは決して、そんなことしない。
誰かを笑いながら貶めて惨たらしく殺す、なんてことをきっとしない。
だって、彼女はその残酷さを、悲惨さを、非道さを、空虚さを、身に染みてわかっているだろうから。
雅知佳さんが深呼吸する。それから、「……私は、……男に対し、未だ強いトラウマがある」と言った。
「……同じ空間に男がいると思うのも、……堪えるものがある」
「……」
「……正直、こう対面しているのもなかなか厳しいものでね。……こんなことを言うのも難なんだが……、君が少年のような見目であるから、なんとかなっている。……私は凛彗や遠瀧蜜波知……皇彌などと対面して会話することはできない」
雅知佳さんはそこで、一度呼吸を整えた。息を吐きだすのと同時に話し出す。
「仕事の時は、割り切れるんだ。……だが。……日に何度も、というのはね」
『神霧教』本部でのこと。
凛兄ちゃんを説得するのに、彼女が利用したのは禮世さんの幻影だった。さして疑問に思わなかったけれど、そういうことだったのか。
でも、彼女は。
久遠寺雅知佳はボクらと対面して、話した。
大勢の男性を前に、彼女はエデンの長として凛として佇んでいた。心の底にひどく重いものを抱えてもなお、彼女は女帝として立ち続けていたのである。
その意志の強さは頑固なんて、言葉で片付けていいものじゃない。
彼女は、強いひとだ。とても強くてやさしくて、揺るがないひと。
イカれた世界でも、はっきりと自分の意見を言える――数少ない勇気あるひとりだ。
「……はっきり言う。――和解は、できない」
まだ冷たい夜の風が、頬を撫ぜた。
ボクと彼女を隔てる溝。永遠に埋まることのないその場所にあるのは、闇ではなく川である。
透明な水の挟んだ対岸に、ボクらはいる。
その川は越えられない。ボクが足を踏み入れることは許されない。一歩でも踏み込めば川の水はあっという間に汚れるだろう。そんなことはできない。
「……雨汰乃とも、峰理とも、ね。……私はもう……、君の敵にはならない。……だが、味方にもなれない」
言い終えてすぐ、雅知佳さんは視線を逸らした。
雅知佳さんはやさしいひとだ、それこそ維央さんと同じくらいに。
愚かなほど、やさしい。このひとは自分の傷を見せてもなお、ボクという個人を慮っている。
深呼吸する。間違えてはいけない局面だった。
言葉は刃であり、棘だ。傷つけて、傷を作って、その内側に残り、時折ひどく痛むモノ。
だから、慎重に。差し伸べる手がなくとも、差し出す傷がなくとも。
受け渡す言葉は、充分に選ぶ。
「……覚えておいてほしいことがあります」
「……なんだ」
「ボクはアナタの女性性を貶すことは決して、しません。仮に凛兄ちゃんや蜜波知さんがそんな物言いをしたら怒って殴ります」
「……」
「でも、ボクはアナタという個人――久遠寺雅知佳という人物に対して意見を言うことは、あります。そして、アナタが困っているのならボクはアナタを助けたいと思う」
「……」
雅知佳さんは何も言わなかった。無言のまま、ボクの横を通り過ぎた。
――覚えておいてほしいとは言ったけれど、正直覚えていなくたっていい。
理解されるのも二の次だった。
たとえ、彼女の心にかけらほども残らなくても。
今だけの、儚い泡のひとつでも。
「――遊兎都君」
名を呼ばれて振り返る。雅知佳さんは前を向いたままだ。
墨色の髪に、月明かりが淡く反射している。薄墨を刷いたような艶やかな髪が微かに動いた。
「……維央のこと。……疑って、……すまなかったね」
それだけ言って、雅知佳さんは去って行った。
静寂。彼女の姿が完全にいなくなってから、ボクはふうと息を吐いた。
空を見る。ちりばめられた銀色のひとつが、藍色の上を滑った。
ボクは目を閉じる。
――せめて、祈って、忘れないようにするの
――みんな思い出にして、幸せであるようにって
――もうこれ以上、悲しいことが起こらないようにって
あの美しく、強く、気高いあのひとが。
――どうか、幸せでありますように、と。
イカれた世界の外へ飛び出した彼女が、何もない日常に戻れるように、と。
その世界の自分勝手な女王は、祈った。