Ep.95「予言」
もうあたりが暗くなっていた。けれど、ふたりの戦いは終わらない。
一度距離を取ると、お互いの顔を見てふう、と息を吐きだした。
「……タフだね、皇彌君」
「あなたこそ。最初の勢いから全く衰える様子がないようで」
「ああ……。これは、君のおかげだよ。……あの鍛練で、加減を覚えたからね……」
「それはどうも。身についているようでしたら、教えた甲斐があるというものです」
軽口を交わせるくらいの余裕がまだあるとは。恐ろしい。
再び構える。そして再び拳がぶつかろうとした瞬間――
「あれぇ~?」
のんびりとした声が割って入ってきた。ふたりの動きが止まった。
声のした方を見ると、声と同じくらいゆったりとした歩調で誰かが歩いてくるのが見えた。
鴇色の長く艶やかな髪をうなじあたりでまとめていて、その虹色の目にはモノクルがかかっていた。大きな柄の入った着流しを纏った男性である。年上であることは確実だけれど、おじさんと呼ぶべきか、お兄さんと呼ぶべきか――年齢不詳の風貌だった。
「おやおや、こんなところにいたのかぁ。こんばんは、お夕飯の時間だよぉ~」
ひらひらと手を振りながら入ってくる男性に対し、翠君が「あ、ナナオさん」と言う。呼ばれた彼はこちらを向いて、「あ、ひーちゃんとこのぉ」と笑みを浮かべた。効果音をつけるとしたら、〝へにゃり〟といった感じの、緩い笑顔だ。
「ということは……あぁ、君が、あれかぁ。遊兎都君?」
背が高いが、筋肉はそこまでなさそうな体格だった。いうなればひょろっとしている。その体をぐい、と折りたたんで、男性――ナナオさんというらしい――がボクに近づいた。
「あっ、はい! 梵遊兎都です、お世話になってますっ!」
やさしい見た目をしているが、油断ならないと本能が察した。そのせいで自己紹介がやけに大きな声になってしまった。ナナオさんは「あはは、そんなにキンチョーしなくてもいいよぉ」と破顔する。
「ごめんねぇ。よく言われるんだよねぇ、俺ってそんなに怖いかなぁ」
「怒ったら一番怖いのなーさんとむっさんだよ」
「そぉ? 滅多に怒らないんだけどなぁ」
翠君の正直な物言いを、ナナオさんは朗らかにかわす。彼の視線が戦っていたふたりに向けられた。
皇彌さんが少しばかり緊張の面持ちになり、凛彗さんもまた何かを察して口を真一文字に結んでいる。
「ずいぶん、派手にやったねぇ。一応ここ、乙綺津の私有地なんだけどなぁ……」
ナナオさんの目がすっと細められた。視線の先には損傷した竹がある。
竹の価値はわからないけれど、ひとの庭でどんぱちをやって生えている植物を傷つけられたら、心証が悪いだろう。だから一緒に怒られる覚悟で黙って見ていたが、ナナオさんは「ま、いっかぁ」と気に留めなかった。
「あぁ、そうだ。自己紹介していなかったねぇ、ごめんねぇ。俺は、乙綺津ナナオ……七つの鷗って書いて七鷗って読むんだよぉ」
「あ、はい……」
七鷗さんは再び、印象に残る緩い笑顔をした。
印象は大変和やかで、縁側でお茶でも啜っていそうだけれど、その合間合間に刃の切っ先みたいな油断ならない雰囲気が垣間見える。そりゃあ『絡新婦の血族』に連なる方だし、強いのだろうけれど、それを抜きにしても――このひとは切れ者だ。
でなければ、凛彗さんがあんなに強張った表情にはならない。
「――というわけで、みんなぁ、お夕飯の時間だよぉ。腹が減っては戦はできぬってねぇ」
にこにこ笑ったまま、ひらひらと手を振って、七鷗さんは去って行った。彼の背中が見えなくなった刹那、全員の――翠君を除いて――肩から力が抜ける気配がした。
「……た、タダモンじゃねえな……」と全員が抱いていたであろう感想を、慈玖君が先んじて口にした。対し翠君が「そりゃそうだよ」とやや挑発めいた口調で返す。
「あ?」と青筋を立てた慈玖君を見て一発触発かと焦ったが、翠君はいつもの淡々とした調子で「錦さんの伴侶だもん」と続けた。
「錦さんの……」
「彼は『絡新婦の血族』の『使用人』及び『男衆』を束ねる『七本槍』のひとりです」
皇彌さんが更に七鷗さんについて付け加えた。聞いたことのない単語だった。
「『使用人』と『男衆』……?」
「『絡新婦の血族』に産まれた男たちはまず『使用人』という立場になります。この時点で名前はありません、皆さん番号で呼ばれます。『使用人』ですので、屋敷であらゆる雑務は彼らの仕事です。朝四時に起きて朝餉の準備、それから洗濯、大浴場の清掃など。大部屋で雑魚寝、個室はありません」
「随分過酷なんですね……」
ボクの感想に皇彌さんが薄く笑った。浅い感想だと嘲笑ったわけではない、それは「全くそうである」という同意と同情が見て取れた。
「『男衆』に上がると名づけをされます。加えて個室がもらえ、雑務の一切がなくなる代わりに『七本槍』の直属になりますので、有事の際はいの一番に駆り出されます」
「……
「でもまあ……『使用人』に比べてかなり優遇されるといえるでしょう」
おそらく、それは破格の待遇。たとえ、死ぬ覚悟をしなくちゃいけないのだとしても。
とすると、皇彌さんは……。
ボクの視線に気づいたのか、彼は「私は『男衆』には属しておりません」と言った。
「……薔薇さんから伺いました、かなり特殊な立場だって」
「……そうですね。『試験』を受けた結果から、このような立ち位置におります」
「『試験』、ですか」
「……」
皇彌さんは眼鏡の位置を直す。これ以上は話さない、いや、話せないという意味の沈黙だ。
ボクは「わかりました」と答え、話を終わりにした。
ひとまず、夕飯だ。
◇
夕飯は、エデンで泊まった屋敷のそれくらい豪華だった。ついでに夕飯を食べる部屋も。
ボクと凛彗さん、蜜波知さんの順で横並びに座る。対面に翠君と皇彌さん。広すぎるから寂しくもあったけれど、雨汰乃さんはまだ眠っているようだし、峰理さんも忙しいというから仕方がないのだろう。
慈玖君も峰理さんを手伝うと行ってしまった。事前に人数を把握していたのか、長机の上の豪華な料理の数は五人分で用意されていた。
思わず翠君を見遣ると、彼は「おーさすがー」と感動しながら、早速食べにかかっていた。
魚に衣をまとわせて揚げたものに、黒酢のあんがかかっている。甘味がありながらも、ほどよいしょっぱさがあって、美味しい。
黙々と食していると、不意に襖が開いた。そこにいたのはお盆に湯飲みと急須を載せた七鷗さんだった。
「ごはんおいしい~?」
口調はのんびりしているが、動きがテキパキしている。皇彌さんが腰を浮かせたが、七鷗さんが手で静かに制した。
「お客さんだから、いいよぉ」
「いえ、しかし……」
「いいから、いいからぁ。座っててぇ」
にこにこ笑いながら、有無も言わさぬ物言いだった。皇彌さんもすっと身を引く。
七鷗さんがお茶を置きに来たので、合わせてお礼を言う。彼はあのへにゃり、とした緩い笑顔をして「お口にあったようでよかったよぉ」と嬉しそうだった。
「翠君のところでもごはんを頂いたんですが、美味しくて。『絡新婦の血族』の方は料理がお上手なんですね」
「まぁねぇ。炊事洗濯は大体『男衆』の役目だから。昔は不味いものを作ろうものなら即刻首が飛んでいたよぉ」
「えっと、それって……。文字通り、ですか?」
「文字通りぃ」
にこにこと笑いながら話してくれる内容じゃなかったが、ボクは曖昧に微笑み返した。凛彗さんのところにお茶を置く際、「足りるぅ?」とさり気なく七鷗さんが訊ねていた。彼は無言のまま、首肯する。もうほとんど平らげていた。
「そう? 足りなければ言ってねぇ、追加するからさぁ」
どっこいせ、と七鷗さんが立ち上がる。そのまま部屋を出て行くのかと思いきや、彼はボクらを見渡して「あと三日だからねぇ」と言った。
――なにが?
「明日、明後日、明々後日ぇ……三日後。みんなはあの塔に登るんだよぉ」
「え」
どうして、そんな予言じみたことを。
ボクの顔を見て、「わかりやすいねぇ、君」と七鷗さんが笑った。
「<人類統率機構>『紫乃盾』の築いた塔には、外から勝手には入れないんだよぉ。向こうが呼んでくれないと、近寄ることすらできないんだぁ。で、それが三日後に決まった」
「い、いつ……?」
緊張で舌の回らないボクのたどたどしい問いかけに、七鷗さんはすっと目を細めて、
「ついさっき。八目様が『糸』で手繰った結果」
と、よく通る声で答えた。
塔に登る。
それは、紫乃盾との最終決戦を意味する。
八目さんは言った――もう、戻ることはできないのだと。
世界はどこまでも残酷に続くのだと。
三日後、ボクらはあいつと対峙し、世界の運命を決さなければならない。
沈黙した一同に、再び七鷗さんは朗らかな笑みを浮かべた。
「――己の成すべきを成せば、大丈夫さ」
それだけ言い残し、七鷗さんは今度こそ部屋を辞した。
静かになった部屋。誰もが彼の言葉を受け止めているさなか――
ずずっ
お茶を啜る音がした。見れば、翠君だった。
「? うん? どうしたの、みんな。変な顔してる」
きょろきょろと周囲を見回す翠君に、皇彌さんが額に手を当てて溜息をついた。
「……お前は本当に緊張感というものがないな」
翠君は〝緊張感〟という言葉を初めて聞くがごとく、首を傾げた。
相変わらずだ、相変わらずだけれど。
彼のそういう振る舞いに、ボクは随分助けられている。
ボクは目の合った翠君に笑いかけて、食事を再開した。
おいしかった。