Ep.93「不治の病」
一尺八寸兄弟と話している間も雨汰乃さんは、目覚めなかった。
経過が悪いのだろうか、それとも――
「……単なる……、寝不足やなァ……」
「ぅわ!?」
部屋を出た直後のこと。
顔の真横に知らないひとの顔があって、さすがのボクも飛びのいた。
考え込んでいたせいもあるかもしれないけれど、さすがに近距離すぎる。
そのひとは頭からすっぽり布を被っていて、ところどころ包帯を巻いていた。服も服というより布切れだった。布の合間から墨汁のような真っ黒の髪の毛が見える。ボクを見据える目は、灰色をしていた。
「えっ、あの……寝不足……?」
「そらァ……あんなのォ、……ふたりィ、そろっ、て……相手にしよるん、ならァ……疲れる、わ、なァ……?」
独特な間のある口調だった。
さっきまで飛び出しそうになっていた心臓が、もう落ち着きを取り戻しているくらいだ。
そっか、やっぱり。雨汰乃さんもずっと無理していたんだな……。
「あんたァ……遊兎都クン、……やん、な?」
「え? あ、はい……。そうです、けど……」
そのひとは、にこぉっと口元をゆっくりと笑みに変えた。
ちょっと怖い。
「傍らにいた……ぼーや。……今ァ、タンポポンとこォ、……おるん、よ。ついてき……」
「え、あ……凛彗さんのこと、ですか……? というより、たんぽぽ……?」
たぶん、ひとの名前なのだと思うけれど。
『絡新婦の血族』のひと、だろうな。
「そ。……た、ん、ぽ、ぽ。……蒲公英。……わかる?」
「蒲公英、って……。あの、花のですか?」
「そ。……うちはァ、……餓蝋錆……サビってあれね、詫び寂びじゃのうてェ……鉄の錆、ね」
「……は、はあ……」
薔薇さんが言っていた〝人体を腐らせる〟『糸』を持った一族のひと。
錆さんと名乗ったそのひとは「こっちィ……」と歩き出した。我が道を行く、というかひとの話をあまり聞かない、というか。
いやいや、ここは我が道を行くってことでいいのか。
なんて百面相していたのだろう。錆さんは「……ろろろ」と笑った。
「……ほんにィ……わかりやすうて……い、い、ね?」
「はっ」
頬を押さえたが後の祭り。ネウがフードの中で溜息をついていた。
◇
案内された部屋で凛彗さんが全裸にされて、布団に寝かされていた。
――え? は? 全裸? だれ? は? 凛兄ちゃん?
「凛兄ちゃん!?」
「……落ち着いてユウ君。……何も、されていないから……」
「え? でもだってっ、全裸だよ!? ボクだけが触っていいはずの体なのに!? えっ、いや、その凛兄ちゃんの体は凛兄ちゃんのものだけど、えっと!」
「一旦落ち着け、遊兎都」
フードの中からネウが顔を出して、肉球でふかふかした前脚で頬を殴ってきた。
気持ちいいなあ、――って違う!
「……えっと、なに!? これなんですかっ!?」
「……ろろろろ」
特徴的な笑い声が、興奮したボクの頭を少しだけ冷やした。
未だ肩で息をするボクに対し、錆さんが後ろを振り返って「……蒲公英ォ、……説明せぇ……」と言った。
後ろは壁だけど一体誰に話し――
「あわわわ、すみませえええん!」
壁ではなかった。
人間だったし、女性だった。
眼鏡をしていて、濃いピンクの髪の毛をお団子に頭に左右でまとめ、そこから無数の三つ編みが垂れ下がっている特徴的な髪型だ。井出達はいたってシンプルで、フリルのドレスエプロンに黒のワンピース。人の良さそうな見目をしているけれど、驚いたのはその大きさだった。
一尺八寸兄弟が知り合いの中で一等大きいと思っていたが、それ以上である。筋肉の山、こと志暈さんよりも、だ。
端的に言って巨大だった。
このひとが、蒲公英さん。見て驚くと薔薇さんが言っていた締師走一族の方だろう。
「ごめんなさああい! 手荒な真似とか手洗いとかするつもりなくってえ! この方まだ治療中でえ! 追加で止血剤を!」
「え? 治療中……?」
よく見れば凛兄ちゃんのおなかには包帯が巻かれていて、うっすら血も滲んでいる。
しかも乾いていない。
「……えっ!? 凛兄ちゃん!?」
脳味噌が目の前の現実の処理をしきれなかった。
まさか、怪我をしたままボクの傍に……?
「……ごめん。……かすっただけ、なんだよ……」
凛兄ちゃんはそう言うけれど、全然かすっただけのようには――
「かすってませえん!」
ほぼ悲鳴のような声が、ボクの考えを肯定した。
ボクも凛兄ちゃんも驚いてそちらを向く。蒲公英さんが泣く寸前の顔をしていた。
「かするっていうかぶち破っているというか貫通ていうか! もう血がだばだばなのにすぐ止めてくれって言うからあ! 錦さんに言われてあたしがなんとか緊急止血剤を作ったんですよう!」
身振り手振りを交えつつ、それなりの声量で蒲公英さんが訴える。
でも、耳に痛い、とかうるさいとか、全く思わなかった。声質がやわらかいからだろうか。
――いや、そんなことより。
「血がだばだば、って……。凛兄ちゃん、そんなに危険な状態だったの……?」
思わず、睨むような視線を寄越し方になってしまった。
凛兄ちゃんはものすごくバツが悪そうに、目を逸らした。露骨な逸らし方だった。
「……」
「……ろろろ。……ま、ふつうはァ……重傷ォ、やったけど、ねェ……。筋肉の、密集度……高う、て。……よかった、ねェ……」
「……凛兄ちゃん、このひとたちの言っていることは本当なの?」
「……ごめん」
「本当なの?」
「……ごめん、……なさい」
繰り返される謝罪はつまり、事実ということ。
ボクのことを心配して、ひどい怪我を黙ってずっと付き添ってくれていたのだ。
「……まァ、そンだけ……大事、いう、こと。……やねェ」
錆さんが口を挟んだ。蒲公英さんも困った顔をしている。
人前で喧嘩をするのはよくない。ボクは居住まいを正した。
「すみません、治療中に早とちりで邪魔してしまって……。あ、ボクは梵遊兎都です」
「あたしも説明遅れちゃってごめんなさい。あたしは締師走蒲公英といいます、遊兎都君のことは錦さんから聞いてます」
互いに謝罪と自己紹介を済ませた。
正座した蒲公英さんの、人懐っこい光を宿した瞳がボクを見る。
彼女の目は左右で色が違っていて、薄荷色と空色をしていた。すごくきれいな目だ。
「大切なひとに失礼なことしちゃってごめんなさい。本当はまだ錦さんのところで治療しなくっちゃいけなかったんです、でも君の様子が心配で寝ていられないっていうから、錦さんがあたしに止血剤作れって」
「……そうだったんですね、ありがとうございました」
「いえ、あたしの役目ですから。でも……」
蒲公英さんが胸の前で祈るように両手を組んだ。
「緊急で作ったものだったので……。臓器や筋肉に副作用が出ていないか心配で。なので、確認していたんです。あと稀に……、その、……陰部の異常もあったりするので、全部脱いでもらっちゃいました。お薬って……、もっと時間かけて作るものなんですよ。……毒になっちゃうことだって、あるから」
「……」
ボクの顔色を見て、彼女はすぐさま笑顔になった。
「あっあっ、でもでも! 大丈夫みたいです! だから、心配しないでね!」
「ね!」と念押しのようにボクに言ってくれる蒲公英さん。
あ、また顔に出ていたんだ、なんだか申し訳ない。
「マァ……、キミだからァ……、大丈夫、だったん、やろなァ……」
錆さんがちょっと怖いことを言うと、蒲公英さんが「錆さあん!」と泣きそうな声を上げた。錆さんは「ろろろ……」と笑う。いいコンビだなあ、なんてほのぼのしつつ、ボクはそっと凛兄ちゃんに視線を遣った。長身で存在感のある彼が、なんとなく小さく見えた。
あれ、いつの間に着替えているな。いやいやそれよりも。
それよりも、だ!
「……凛兄ちゃん」
「……悪かった、と思っているよ……」
「……」
「でも、居ても立っても居られなかったんだ……。君が死んだら、……どうしよう、って……」
凛兄ちゃんは項垂れていた。まるで怒られた大型犬みたいだ。
かわい――じゃなくて。
「……凛兄ちゃん」と呼ぶと彼は「……ごめんね……」と答える。
かなり反省しているようだった。前に強く言ったからかな。
「ううん、いいよ。もう怒ってないから」
「……本当?」
紫苑色の目は不安でいっぱいだった。だから手を握った。
あたたかい手。生きている手。
ボクを守ってくれて、抱き締めてくれる、やさしい手だ。
「でも、無理はしないでほしい。……ボクだって凛兄ちゃんが死んだら、いやだから」
「……うん」
――不安になる気持ちはわかる。
ボクを庇ってくれた凛兄ちゃんから応答がなくて、ぞっとしたから。
大切なひとが死ぬというのは、この世の終わりみたいな気分になる。でも、終わらない。
人一人死んだ程度で、世界はなんともない顔で日常を紡ぐのだ。それが空しくて、哀しくて、どうしようもないくらい痛くて。
「……人ォ、言うん、は。……二度、死ぬん、や」
錆さんだった。
彼女は虚空を眺めていた。
「二度……?」
「……そ。……一度は、肉体の、死。……二度は、忘却の、死。……忘れ、られたらァ、……その人はァ……この世界に、いンよぉ、なる……」
「……」
「でも……思い出ェ、てのは……鎖、やね。……足枷になってェ、……その場からァ、……自分をォ、……動かさへんよォ、なる……」
「……」
「大事ィ……、なんは。……どこでェ、どォやって……向き合ってェ、腹ァ……括るか、かなァ……。うちらも……戦って、いるうちィ……死ぬかもォ、……わからん、から」
〝死んだ人は思い出の中でしか生きられない〟
――もう思い出にしていい
維央さんの言葉が、蘇った。
もう会えなくなったひとをしまう箱、それが思い出。
時々蓋を開けて、いたことを確かめて。
その輪郭をなぞって、生きていた証を実感するモノ。
「錆さん、は……餓蝋一族は自分の『糸』で腐るかもしれない、ってお聞きしました」
錆さんが、ボクを見た。そして、にんまりと半月型に口元を歪めた。
彼女の唇の色は薄く、ひび割れている。笑うとひび割れが余計にひどくなった。
ボクはそれを見て無意識のうちに、自分の傷跡をなぞっていた。
失礼だと思ったけれど、錆さんは何も言わなかった。言及せずに、ボクの問いに答えてくれた。
「せ、や、ね。……使いすぎィ、は……死んでェ、しまう。……でもォ、自分の身ィ……守るんに、手ェ加減、してまうとォ……死んでェ、しまう。……死に、近いところォ……おるから。……割り切らん、と。……ずる、ずる。……ずる、ずる。……足枷ェ、なって。……動けん、よォ……なるん、や。……だから、……残酷に、ナ。……死んでェ、もうた……こと、は。……それでェ、……お、し、ま、い……ナ」
錆さんは「ろろろ……」と笑った。
箱にしまえない思い出は鎖になり、足枷になる。
雅知佳さんは、維央さんを救えなかったあの日から動けない。
けれど、終わってしまったことは、終わってしまったことなのだ。
何をどうしたって、戻ってこない。
背負って背負って、背負い続けても――死んだ事実を覆すことはできない。
錆さんの言葉が、心の底に冷たく積もった。
「――雅知佳さん、八目さまのところにいるんです」
蒲公英さんがボクの心を見透かしたように――顔に出ていたのかもしれないけれど――、言った。
「……」
「八目さまはわかっています、雅知佳さんの身に何が起こったのか。……誰かを救うって大層なことなんですよ。あたしたちは薬を作ることで、誰かを助けられるけれど……、でも、救えないときもあります」
「……蒲公英さん……」
「……助けるのと救うのって違うの。似ているんですけど、全然違う。死から助けられても、心は救えないってこと、あるんですよ。自分の境遇がつらくて、生きていても仕方がないって自分で死んじゃう、ひと。……あたし、たくさん見てきました。錦さんも、きっとあたしの倍以上見ている……」
蒲公英さんは自分の胸の前でぎゅっと拳を握った。
その思い出に、耐えるように。
「……肉体の死も……治せない。……でも、それ以上に治せないのは、心の死なの。……心が、……死んでしまったら。薬をいくら使って体を元気にしても、だめなの。……救えないんです……」
蒲公英さんは、泣いていた。
ぎょっとしたが、錆さんが手で制した。いつものこと、と言われているような気がした。
「だから、せめて……。せめて、祈って、忘れないようにするの……。あたしたちは、みんな思い出にして、幸せであるようにって、もうこれ以上、悲しいことが起こらないようにって祈るの。……だって、そうしないと前に進めないから……託してもらった思いを次につなげなくちゃいけないから……止まっているんじゃ、だめだから……」
ごめんなさい、と蒲公英さんは自分の涙を拭った。
託してもらった思いを、次に。
残された物語を書き続けるために。
その余白を、埋めるために。
「ろろろ……」錆さんが小さく笑っていた。
「……ひとりぃ、で。……王様気取るンはァ……もう……。お、し、ま、い……や、ねェ……」
誰のことを言っているのか、聞かなくてもわかった。
あのひとは、ひとりになろうしたけれど。結局どうしたって、ひとりになんかなれない。
維央さんが繋いだモノが、まだそこにあるから。
◇
ふたりにもう一度、手厚くお礼を言って、ボクらは部屋を出た。
出た瞬間、凛兄ちゃんがボクを力いっぱい抱き締めた。
「? な、なに、凛兄ちゃん。どうしたの?」
「……うれしかった」
「うれしかった……?」
「ユウ君が僕のもの、って言ってくれたから……」
「……は」
――え? でもだってっ、全裸だよ!? ボクだけが触っていいはずの体なのに!? えっ、いや、その凛兄ちゃんの体は凛兄ちゃんのものだけど、えっと!
そういえば、そんなことを、言った。
思い出して恥ずかしくなり、ボクは「……わすれて……」とお願いする。「……え、どうして……?」と聞いてもらえなかった。
「ユウ君に所有されるのは本望だよ……。僕の体は君だけのものだから、本来は触らせたくないのだけれど……それじゃあ治療ができないからね……」
「……いえ、その……えーと……凛彗さんの体は凛彗さんのものなので、どうぞお好きに……」
「? どうして、……呼び方を変えたの? 凛兄ちゃん、って呼んで? ユウ君」
「……」
恥ずかしいんだってば。でも凛彗さんは「ほら、……ユウ君」と耳元で熱っぽく囁いてくる。体中が変な感じになるから、やめてほしい。身を捻って声から逃れようとしていると、「……わ」と小さく驚く声が聞こえた。
翠君だった。全身包帯だらけの翠君が、立っていた。
「あれっ、……翠君!? 歩いて平気なの?」
翠君に駆け寄ると、彼はこくんと頷いた。
凛兄ちゃんの腕を逃れる際、半眼に睨まれたような気がするけれど無視。
「うん。錦さんにいいって言われた。……それよりも、ゆと君。皇彌さん、知らない? 全然帰ってこないんだけど……」
「皇彌さん……?」
部屋を出て行くとき、時にどこへ行くかは言ってなかったので、ボクも彼の行先は知らない。
それを伝えると翠君は「まさか皇彌さんが迷うわけないしなあ……」と首を傾げる。「皇彌君なら」と凛彗さんが口を開いた。
「彼なら、慈玖君に連れて行かれるのを見たけれど……」
「えっ!?」
「……え」
皇彌さんと慈玖君。
確かほぼ初対面のはず。もしや、翠君の言動諸々を……?
ボクの嫌な予感が当たらないよう祈りながら、ふたりがいなくなったという場所へ向かった。