Ep.90「Angel&Devil」
翠君との話を終え廊下に出る。凛彗さんがいなくてボクは周囲を見渡した。
その折、それが目に入った。
「……!」
眼前に広がる芸術作品の一部分を切り取ったかのように整備された庭よりも、強烈な存在感を放っていた。
天高く聳える塔。一見大樹のようにも見えるそれの頂点は、厚い雲に覆われていた。
非現実的な物体。非日常的な建造物。そして、感じる視線。
遠く離れているというのに、あの男がこちらを見ているような嫌な感覚だった。
ボクは思わず目を背ける。
「――あれが<紫乃盾>の築いた塔さ」
錦さんだった。
反対側の角から音もなく現れた彼女は、塔を眺めながら言う。
「<バベルの塔>というのがあってね。いやはや、神話なんだが……はじめの世界は皆言葉が通じていたらしい。だがしかし天高く、まさに神の身元へ向かおうとした愚かさを、当の神が怒り、バベルの塔を崩し、ついでに言葉をバラバラにしたそうだ」
「……言葉をバラバラに……」
「しかし、この大陸では言葉の通じない相手、というのはなかなかもっていないねえ。いやはやいいことだが、語学という教材がなくなってしまうのはどうにも寂しいものだ。知らぬ文化、知らぬ文明、知らぬ言葉……知らないことを知ることで人間とは成長する生き物だというのにねえ」
「そうですね……?」
「本当にひとつの大きな街のようだ……いや、<国>と言って差し支えない、か。<国>、<国>なあ……いやはや、恐ろしいことだよ、まさに神の怒りでこの<国>は分裂してしまったようなものだから。同じ思想で固まればそりゃあ安心かもしれないがね」
「え?」
煙に巻いているというより、わざと意図が伝わらないよう言葉を選んでいるような物言いだった。
ボクが〝わからない〟と顔に出して錦さんを見つめたが、彼女は微笑むばかりで何か言うつもりはないようだった。
「ところで、君」
「はい」
「雨汰乃殿のところへ行ってやってくれないかね」
「え?」
「雨汰乃殿を心配しているふたりがね、ちょっと尋常じゃない様子なんだよ。だからマァ、君に様子見をしてほしいんだ」
「……っわかりました、すぐ行きます」
「この廊下を真っ直ぐ行って、渡り廊下を通り、右の壁に手をずっとつけて進めば、たどり着く。済まないが案内はできん、小生の手も埋まっていてね」
「いえ大丈夫です、ありがとうございます」
「どうしいたしまして」
錦さんにお礼を言い、ボクは言われた通りに進んだ。
……というか、凛兄ちゃんはどこ行ったんだろう……。
◇
「遊兎都、まさかとは思うがお前」
「言っておくけど、方向音痴じゃないよ。ボクは地図があれば迷うことはない。だから空間把握能力はあるのさ、郵便配達員の時だって一度だって道を間違えたことはないし。仕事ならね、覚えなくっちゃいけないから道順とか。それに、いろいろ標識とかあるでしょ、街だとそういう目印っていうのが――」
「まだ何も言ってねえぞオレは」
錦さん並みに話してしまった。これを言い訳という。
要するに、迷子になったわけだ。
言われた通りに進んだつもりだったのに――ここは、どこだろう。
しんと静まり返っていて、人の気配が全くしない。雨汰乃さんは怪我をしているわけだし、安静にしているとはいえ全く人の出入りがないってことはないだろう。
だからおそらくここは目的の場所ではない。
「……ひとまず、戻ろう」
ボクは独り言ちて、踵を返した。返してぶつかった。
「わ!」
「おっと」
後ろにひっくり返る心配はなかった。力強く引き上げられる。
見れば、ものすごく美形のお方がいた。
髪の毛は銀色で短く切り揃えられている。紺碧の海をそのまま宿したような瞳は凛々しい。上着は途中から素材が透けるものに切り替わっていて、金魚の尾ひれのように背中側に広がっていた。コルセットのようなインナーをあわせ、すらっとした長い脚は裾の広いスラックスに包まれていた。
褐色肌ということも相まって、男装の麗人って雰囲気の、情緒のある美貌だった。
「うん? おやおや、君は……噂の梵遊兎都の坊やかい?」
「えっ」
「ふふふ……噂の通り、のようだ。〝顔に出やすい〟のだね、君は」
ボクは頬を押さえる。また、どうしてボクの名前を知っているのだろうという疑念が全部出ていたらしい。
そのひとは微笑んだまま、優雅にお辞儀をした。
なんだろう、周囲に花が咲いているような……。
「ご機嫌麗しゅう。私は巌に流れる師の寺に咲く薔薇と書いて……巌流師寺薔薇だよ」
「は、はあ……」
雄々しさもありながらも、上品さを兼ね備えた、良く通るいい声で薔薇さんは言った。
ああ、いい声……と呆けていると薔薇さんがずいっと前のめりになってボクを見た。
「ところで君、なぜここに? ここは私と伴侶の私的空間だが」
「えっ!」
そんな場所に踏み込んでいたのか。
慌てて「すみません、あの、ちょっと迷ってしまいまして……!」と言い訳をする。事実ではあるのだけれど、言い方が完全に誤魔化すみたいになってしまったと内省した。
しかし薔薇さんは特に気を害する様子もなく、「そうか」と納得してくれた。
顔に出ていたのかもしれない。
「どこへ行きたかったんだい? 良ければ案内しよう」
「あっ、……えっと、雨汰乃さん……のところに」
「雨汰乃の坊や? ああ、錦君のところで治療を受けていた子か」
「錦さんが?」
「うん? そうだよ、あの子は『治癒師』……彼女の扱う『糸』は体組織に非常に近いものだからね。やわらかく、しなやかなんだ」
「……そう、なんですか」
「おや、一族ごとに『糸』の種類が違うのを知らないのか?」
「……え」
ボクの顔を見て薔薇さんが楽しげに微笑んだ。
おそらく、顔に出ていたのだろう。これはボクの特技にしていいかもしれない。
『誘拐・監禁』改め『顔に出やすい』。
――どっちにしても、ロクでもないな。
◇
「九一族は体表の熱を瞬時に奪う、即ち凍らせる。『糸』そのものはやわらかく、密着性が高い。皮膚にぴったりと張りついて取れないし、熱を奪う速度も尋常ではないから補足されたらあっという間に氷像にされるね。彼女たちの『生業』は『納涼師』だ」
「『納涼師』? って何をするんですか?」
「涼しくする」
「……涼しくする……」
「そう、夏の暑さは彼女たちなしでは過ごせない」
「……なるほど……」
薔薇さんはボクと並んで歩きながら、『絡新婦の血族』の『糸』について説明してくれた。
機密案件じゃないのか、と心配したけれど「知ったところで『糸』は見えないから」と薔薇さんはあっけらかんと言った。確かにそれはそうだ。
知れども見えない『糸』に対し対処する術はないだろう。少なくともボクにはない。
「乙綺津一族の『糸』は先ほど言った通り――体組織にごく近く、やわらかく、そしてとても繊細だ。『糸』そのものに自然治癒力を高める働きがあるので、だから、彼女の『生業』は『治癒師』なんだ。あと、衝撃を吸収するのに非常に優れているから防御としても最適だね。受け止めるのではなく、受け流すから」
「あ、じゃあ雨汰乃さんの治療をしたのって」
「錦君さ。彼女の縫合手術は万に一つも失敗はない。ただあまり表立ってやらないね」
「そうなんですか?」
「彼女は口数が多いから」
「……ああ……」
どうやらボクは渡り廊下を間違えたようだった。
ふたつあるうち、手前のほうを通ったのだが、正解はそのもうひとつ角を越えた奥の渡り廊下。どちらもそっくりの形状をしているので、間違えるのも仕方がない、と先ほど薔薇さんは笑った。
「纐纈一族の『糸』は硬質で、伸縮性はない。テグス糸を想像してもらうとわかりやすいかもしれないね。束になると死ぬほど痛いよ。冗談ではなくてね。彼女らの『糸』で物は切れないが、物を壊すことはできる。だから拷問に向いているのさ。切ってしまったら人間はくっつかないからね」
「はあ」
「だから君、翡翠君を怒らせるんじゃあないよ」
「え?」
怒った姿を見たことはないけれど――と言わずともわかってくれたらしい。薔薇さんは深く頷きつつ、「あの子を怒らせると怖いぞ、本当に怖い」と力強く言った。だから少々緊張しながら、「き、肝に銘じておきます……」と答えた。
二度も言うということは、相当怖いのだろうなこれは。
忙しなく使用人たちが歩き回っている。使用人たちは圧倒的に男性が多かった。
薔薇さんはそんな彼らに、時折足を止めながらひとりひとりに挨拶していた。挨拶、というより「可愛いね」とか「きれいだね」とか「ささくれているよ、保湿なさい」とか「乾燥しているね、軟膏を塗りなさい」とか。話しかけられた使用人たちはぽっと頬を赤らめて「ありがとうございます」と言って去って行く。
傍目から見ていると口説いているみたいだった。
「一族は世界が滅茶苦茶になっているのをなんとか瀬戸際で食い止めているところだから、屋敷は大わらわさ。まあ、だとしても族長たちが取り乱しては混乱を助長する。なので、一旦は落ち着いているように見せているがね」
そう言って、薔薇さんは「さて、纐纈まで話したんだったか」と話を続けた。
「まだ会っていないかな? ガロウ一族とシメシワス一族」
「初めて聞く名前です」
「そうか、それは仕方がない。字はね」
餓蝋一族。締師走一族。
薔薇さんは上等そうな絹の手巾に、血文字で記した。
突然自分の指先を切りつけたのでボクはびっくりして声を出すのも忘れていた。
「こう書くんだ」
「……は、はあ……」
「ああ、済まない。私の悪い癖なんだ、伴侶にもよく怒られる」
薔薇さんは血文字を記した手巾で指先を拭い、それをポケットにしまった。
いいのか、そのままで。
「自傷癖があるわけじゃないよ、痛みに強いだけだ。――それで、餓蝋一族の『糸』は物を腐らせる」
薔薇さんはなんともない風に話を続行した。
「腐らせる……?」
ボクもなんともない風を装って、返した。
「より正確に言うと『糸』に分解酵素が含まれているんだよ。有機物無機物問わず作用する。ただあまり長時間使用していると使用者自身も腐らせてしまうから、注意が必要だね。乱用は厳禁だ」
「……それって、『糸臓』を、ってことですか?」
ボクが聞くと薔薇さんはぱちん、と指を鳴らした。ついでにウインクもしてくれた。
正解という意味らしい。他のひとがすれば芝居がかった大仰な仕草に思うだろうけれど、このひとがするとごく自然に感じてしまう。
「締師走一族の『糸』は餓蝋と似ているね、効能がひとつに絞られないという点では大きく違うが」
「効能?」
「締師走の『糸』は薬効を含む。効能については体内で調合するから都度変わる。毒薬にもなるし良薬にもなるし媚薬にも自白剤にもなる。歩く薬屋だ」
「それは、すごいですね……」
「体を開かないとわからないが、なんでも『糸臓』に繋がる『糸出管』が私たちよりも多いそうだ」
「し、ししゅつかん……」
舌を噛みそうな名称だ。
「肌のきめにある『出糸突起』に流すための管さ。血管みたいなものだね。この管にもともと含まれる分泌液やら酵素やらの配合で『糸』に個性が現れている……締師走一族はこれが特に多いんだね。だから体も大きいんだ、会ったら驚くんじゃないかな」
「……へえ……本当に不思議な体ですね」
とりとめもない感想を口にしたつもりだった。
薔薇さんが少しだけ眉尻を下げて、「別にいいんだよ。私たちが同じ人間と思えない、と言ってくれても」と言うものだから、面食らってしまった。
「え」
「化け物、と言われればその通りさ。こんな体をしていて至極真っ当な人間です、なんて。主張するつもりはない」
「そ、そんな……! 確かに不思議だなあと思いますけれど、化け物なんて……!」
これまでも、これからもそんな風に思うことはない。
不思議だし、謎めいている、とは感じるけれど化け物なんて。
慌てて否定すると誤魔化しているみたいに思われるかと、ボクは口を噤んだ。
数秒の沈黙があって、薔薇さんが「君は聞いた通りに慈悲深いね」と言った。
「私たちは基本近親で婚姻関係を結ぶことが多いんだ。体のつくりのこともあるし、血も濃いほうがいいとされているから」
「そうなんですか……」
「そう。だから翡翠君が志暈の坊やを連れて来なかったら、伴侶は一族の誰かだったかもしれない」
「一族の、誰か……」
「そうだねえ、まあ近しい誰かさ。随分昔は息子を伴侶に据えた族長もいるそうだよ」
「息子を……!?」
「とんでもない話だよ」
薔薇さんがうなじを掻いた。
「伴侶を外から選ぶようになったのは私の一族が先駆けなんだが……先々代だの、先代だののころは酷かったねえ」
しみじみと薔薇さんは呟く。
ほんのわずかに、憐憫が垣間見えた。
「最初のころは受け入れがたい子が多くてね。化け物だの人間じゃないだのいろいろ言われていた。母も随分父に責められていた……。私が生まれているから、まあ。一応、役目は果たしてくれたようだけれど……。母が父から罵倒されているのを見て、幼心に〝ああ、私は化け物なのか〟と思ったものだね」
言葉を失うボクに気づいて薔薇さんはウインクした。気にするな、という意味だろう。それから彼女は「私の伴侶は幸いにして最高にして、随分理解のあるいいひとだよ」と付け加えた。
「だが父の言い分だってわからないわけじゃあないんだよ。だっていざ結婚となって好いた相手の里に来たら、途端軟禁状態なのだから。一生ここから出られません、ここで見聞きしたことを親兄弟に決して言ってはなりません、一生涯を通して族長に尽くしてください……なんてね。ふつう、精神もおかしくなって当然だし、母を責め立てるのも理解はできる」
「……」
薔薇さんの言葉のなかに父親に対する憎しみみたいなものはなかった。代わりに哀しみだけが満ちていた。
――シジは外交を極端に制限しているので、知ろうとしなければほとんど外の情報を知ることはできません。
シジにやってきた時、皇彌さんがハニーBに対して、そんなことを言っていた。
考えてみれば、シジのひとたちが外に出ないというのなら、一緒にいるひともそれに倣ってしかるべきだろう。なら――
「皇彌さんは族長の伴侶じゃないから外に……?」
訊ねると、「彼はかなり特殊だね」と答えが返ってきた。
「伴侶であろうとかなかろうと、『絡新婦の血族』と関わった者には『絡新婦の掟』が適用される。だから本来、皇彌の坊やは外に出て仕事はできない。――だが」
「許されている……」
「ああ」
薔薇さんはどこか誇らしげに言った。
「彼が我々を吹聴しない、誠実で口の堅い人間であるという確証があるのはもちろんだがね。彼は……皇彌の坊やはひとを惹きつける強い魅力がある。君と違って、魅入られてしまうと二度と抜け出せないような、ね」
言い終えるやいなや薔薇さんがぐっと身を屈めて近づいてきたので驚いた。
陽光に晒された青い海原が眼前に広がっていた。ボクの夢ではついぞ見ることのできなかった青だ。真っ青で、圧倒される。
ボクはわからないように、ぐっと息を呑んだ。
「君を天使とするのなら、彼は悪魔だ」
「へ?」
「君がひとを導く天使なら、皇彌の坊やはひとを堕落させる悪魔だね」
「はあ……」
皇彌さんが悪魔……?
翠君をあれだけ愛しているあのひとが、ひとを堕落させる悪魔?
ボクの気持ちがまるまる顔に書いてあったのだろう薔薇さんは笑った。
「ま、ピンとこないだろうね」
薔薇さんは背筋を伸ばして正面を向いた。
ボクは少しだけもやもやした気持ちを抱えたまま、歩き出した彼女の後姿を追った。
ふと翠君の部屋で交わした皇彌さんとの会話を思い出す。
――だから、久遠寺雅知佳の気持ちが全く分からないわけではないんですよ
――彼を失ったら私もきっと……正気ではいられない。世界を壊そうと、思うでしょう
さっきは聞き流してしまったけれど。
世界を壊そうと思うほどの愛情って――。
「坊や?」
「!」
「おいで。そろそろ着くよ」
「は、はい」
呼びかけられて、ボクはそこで考えるのをやめた。
きっと、ボクがいくら考えてもわからないことだろうから。




