Ep.89「隠し事」
翠君は静かな部屋でひとり眠っていた。凛彗さんは気を利かせてくれて「僕は外にいるよ」と言って入室しなかった。
眠る彼の傍らには皇彌さんが座っている。いつもと変わらない格好だったが、コートは脱いでいた。襟元に控えめな柄の入ったワイシャツに、深緑のネクタイ、細かな刺繍の施された黒いベストに、折り目正しいスラックス。――本当にいつ何時も彼は一分の緩みも、隙のない。そういう印象を受ける。
彼の武器を貯蔵する大きな黒いコートは、折りたたまれた布団の上に乗っかっていた。
皇彌さんはつきっきりで看病に当たっているという。翡翠さんが部屋に入る前にこっそりと教えてくれた。
彼はボクの顔を見ると「翠玉がお騒がせを」と頭を下げた。驚いて「そんなことないですよ」と割と大きな声を出してしまったが、翠君は起きなかった。
「鎮静剤を打っておりますので、ご安心ください」
「鎮静剤……?」
「戦った後は自分の状態も理解できないほど興奮状態になるんです。本当は見舞われる立場だったんですよ、翠玉は」
「そ……そうだったんですか……」
「『糸』と血の消費がひどかったものですから」
「……」
翠君は眠っている。
手足に隙間なく巻かれている真新しい包帯は、興奮状態の彼が『糸』を乱発しないようにする処置らしい。
それほどまでに、彼は消耗していた。なのに、ボクの身を慮ってくれた。
翠君……。
「遊兎都君」
「! は、はい」
「翡翠さんから、翠玉のことをお聞きになったのでしょう」
「……はい」
皇彌さんはボクが聞こうとしていることを、もうわかっているような口ぶりだった。
でも、彼はそれ以上続きを言わなかった。翠君が言うべきだと彼も思っているのかもしれない。
「……翠玉は己の運命を知っています」
落とすように、皇彌さんが言った。
「自分が長く生きられないことを、誰よりもわかっている……」
「……皇彌さん……」
「だからこの子が望むことはすべて叶えてあげたいと思う反面、どうにかしてその運命に抗えないか考えています」
「……」
「翠玉は、……なにもしていないんですよ」
その声は理不尽に怒る色を帯びていた。
生まれただけで死ぬ運命があるのは誰しも同じだけれど。
その長さすら決まっているだなんて。
皇彌さんの手が眠る翠君の頬に触れた。
その黒い革手袋に覆われた手が、やさしく彼を慈しんだ。
「この子はただ、強すぎただけだ。なのに、運命はこの子を殺そうとしている」
「……」
「兄弟の暴力に晒されている理不尽には耐えられたのに、この子が……殺されんとしている理不尽には耐えられなかった。……世界を憎いと思ったのはそれが最初で最後です」
怒りに、悲しみが滲む。
彼の独白にはいつも翠君がいる。
彼の横にはいつだって翠君が寄り添っている。
――翠君は皇彌さんの世界そのものなのだ、と感じた。
凛彗さんがボクをすべてに考えているように、皇彌さんもまた同じで。
そして、それはきっと翠君も。
世界はどうして、こんなにも理不尽なのだろう。
こんなにも残酷で、無慈悲で、冷たいのだろう。
どうして誰も救われないの。
雅知佳さんもきっとそんな風に思って、変えようとした。
強引だと言われても、誰に賛成されなくても、反逆の意志を示されても、たったひとりで。
皇彌さんは自分のなかに芽吹いた怒りを払拭するように、首を左右に振った。
「……でも、憎んだところで無駄な足掻きです。足掻くよりも私はこの子の傍にいることを考えた。この子が傷つかないように、戦わないで済むように」
「あ」
――皇彌さんの仕事って大抵朝早くて
「……だから、朝早く?」
皇彌さんは頷いた。
翠君が朝に弱いのを知って、皇彌さんは敢えて早くに出ているのだ。
彼が自分の仕事を手伝えないように。手伝うのを諦めるように。
――翠君が、無茶をしないように。
ボクは戦いのさなか、彼が見せた悔しげな表情を思い出した。
大技を出したことを皇彌さんは憂いていたわけじゃない。彼は〝翠君が戦った〟という事実そのものを後悔していたのだ。
船で翠君を連れて行ったのも、隣で無茶を諫めるためだろう。
行動すべてが、翠君への愛情ゆえなのである。
「……だから、久遠寺雅知佳の気持ちが全く分からないわけではないんですよ」と自嘲するように皇彌さんは言い、頬を撫でていた手を引いた。それから、その手を翠君の手に重ねる。
彼はまだ目覚めない。まるで、死んだように眠っている。
「彼を失ったら私もきっと……正気ではいられない。世界を壊そうと、思うでしょう」
「……」
「……」
皇彌さんが翠君の手を握り締めた。
生きているのだと確かめるように見えたのは、きっとボクの思い違いだろう。
◇
「――君といるとつい、自分のことをいろいろと話してしまいますね」と皇彌さんは少しだけ笑って、部屋を出て行った。もう少ししたら鎮静剤の効果が切れて、翠君が起きるという。
翠君の寝顔をじっと見る。
「……『絡新婦の血族』、か」
「――『祖』、とこいつが言っていただろう」
ネウがフードから顔を出し、ボクの肩に前脚を乗せた。
「ん? なに?」
「『祖』、だ。要はこいつらに『糸』を操る肉体を与えた張本人――『絡新婦』のことだよ」
「……いるの?」
「いる」
「どこに?」
「『管理局』」
「は? 『管理局』……?」
「空の上の、お前たちがあの世だとか天国だとか呼んでいる場所」
「……あるんだ」
「ある。……『祖』である『絡新婦』が、この見た目で不遇に遭っていたこいつらの初代族長に血を与えた。血を与えられた次代族長から『糸』の出る娘が現れた。以降、当主になる資格である蜘蛛の痣が浮かび上がるのは決まって女だった。男で族長になった代はない」
「そう……なんだ。どうしてなんだろ」
「――不遇に遭うのがいつだって女だったからだ」
ボクの素朴な疑問を、断ち切るような物言いでネウが答えた。
「……それは」
「ただふつうに生きたかっただけの彼女たちは〝女に生まれた〟というその一点だけで価値をつけられ、損なわれた。だから『絡新婦』は気まぐれに力を与えた。運命に抗う、絶対的で特別な力を」
「……」
「だが。その結果、『絡新婦の血族』は強烈な女尊男卑の一族になった」
「……」
よかったのか、悪かったのか。
そんな簡単な二択で決められる事象ではない。
「――雅知佳さんの理想の完成形みたいなところなんだよ、ここは」
「! 翠君」
「……ゆと君にこんな格好見せたくなかったのに」
翠君は言いながら上体を起こす。手を貸そうとしたボクに「だいじょうぶだよ」と答えた翠君の声は、全然大丈夫ではなさそうだった。
「……お見舞い来てくれてありがと。皇彌さんは?」
「……出て行ったよ」
「ふうん? そうなんだ、包帯でも貰いに行ったのかな」
「……ねえ、翠君」
「うん、なあに?」
「翠君が短命なのって、どうしてなの?」
「え」
「教えてほしい」
「……えぇーと……」
翠君は視線を彷徨わせる。どう誤魔化そうか考えているみたいだったけれど、ボクは知っている。
彼は隠し事も嘘をつくのも下手だ。
「翠君」
駄目押しのように名を呼ぶと、翠君はバツが悪そうな顔をして「……誰から聞いたの」と訊ねてきた。「翡翠さんから」と答えると、彼は「姉さんか……」とどこか諦めたみたいに呟いた。
「あと、『生業』の話も知っているよ。これは皇彌さんから聞いたけど」
「!?」
翠君が飛び上がらんばかりに驚いた。顔が真っ赤になって真っ青になってそれから冷や汗を大量に垂らしている。
え、そんなに?
「う、うそ……え? え? ゆ、ゆと君知っているの……? あ、あのことを……?」
「うん、聞いたよ。『不義の追及』が纐纈一族の『生業』らしいね、だから拷問が得意なんでしょ?」
「あ、あわわわわわ……」
汗を大量にかきながら、今度は身震いを始める翠君。
尋常じゃない反応だ。ボクは慌てて「全然気にしてないよ、翠君のことは今でも大好きだからね!」と矢継ぎ早に言う。するとぴたり、と身震いが止んだ。
「……ほんと?」
翠君は迷子の子どもみたいな顔をしていた。
「うん! 翠君のことを見る目は変わらないよ。翠君はずっとボクの一番の友だち!」
「……」
「だから」
ボクは翠君の手を握った。
あたたかい。生きている。
翠君は、ちゃんとここにいる。
「……ゆと君」
「――教えてほしいんだ。翠君のこと」
翠君は迷っているようだった。
きれいな緑色の目が右往左往している。
「翠君」
ぎゅう、と少しだけ強めに手に力を籠める。
翠君は視線を落とし、それから意を決したようにボクを見つめた。
光が当たって輝く瞳は、いつ見ても思う。
宝石みたいだ、って。
「――『修羅』って、……言うんだって」
翠君は泣きそうなのを無理矢理笑って、そう言った。
「『修羅』……?」
「そう。普通『糸』って体質で出せる量が決まっているんだけど、僕はそうじゃないんだ。『糸』を切らすことなく無限に出せる……でもその分、命を削る。普通のひとはね、死ぬってわかると制限をかけて『糸』を出さないようにするんだ……僕はそれができない」
「……だから、短命……」
「そう。戦闘にはすごく向いている体なんだよ! ……戦うと興奮状態で痛みだって忘れてしまうしね」
「……それって、……もし、致命傷を受けても?」
「わからず、そのまま死んじゃうかもね」
疲れたように翠君が笑った。
――なんで。
なんで、なんだろう。
「……ゆと君?」
得も言われぬ思いが、ぽとりと現実に落ちていった。
梵遊兎都という男はどうにも『泣き虫』らしい。
ひとつ落ちれば、堰を切ったように涙があふれた。
ぼたぼた、と畳にボクの涙の痕跡が重なる。
「えっ、あ、えぇ!? ゆと君!? わ、わわわっ、ごめんっ! ご、ごめんね、隠しててっ、そんな、ごめんっ、あ、これ、これ使って! きれいなやつだからっ!」
翠君が見たこともないほど、狼狽えている。
申し訳ないと思ったけれど、一度こうなるとなかなか自分の意志じゃ止められない。
ボクは強引に洟を啜り上げ、まだ止まり切らない涙を乱暴に腕で拭った。
「ううん……っ! いや……ッ、ごめん。違うんだ、大丈夫。……なんでなんだろうって思ったら……涙が出てきちゃって……。うん、大丈夫! ごめんね」
ボクは翠君から渡された手ぬぐいで目元を押さえ、深呼吸を何回か繰り返した。
気持ちが落ち着いたので、口を開く。
「皇彌さんがさ、言っていたんだ。翠君は何もしていないのに、運命がキミを殺そうとしているって」
「……」
「これは……言葉にしていたわけじゃ、ないのだけれど。――強いだけで、長く生きられないのは理不尽だって言っているみたいに聞こえたよ」
少しだけ静かになった。
それから翠君が「……本当は知っているん、だよね」と口にする。
「へ?」
「皇彌さんがさ、僕のためを思って早起きして仕事しているってこと」
「……」
「皇彌さんは僕に生きてほしい。だから戦わせたくない。僕は皇彌さんに生きててほしい、だから守りたい、戦いたい。……はあ、どうしようもないね」
翠君は肩をすくめた。
お互いがお互いを想うがゆえに、ままならない。
ボクが歯痒い気持ちになっても仕方がないけれど。
「あのね、ゆと君」
「うん」
「僕は別に死のうとなんて、思っていないよ」
「……うん」
「でも僕にとって死はとても近い場所にいる。だから、この次の瞬間でも死んでもいいように、言いたいことも全部言うし、やりたいことも全部やろうと思っているんだ」
「翠君……」
「死にたくないってわがままを言うより、一緒にいたいってわがままを言っておいたほうがいいかなって」
翠君は冗談みたいに笑った。
だから翠君は隠さない。好きも嫌いも腹立たしいも全部、口に出す。
後悔しないように。
言い残すことがないように。
「……そうだね」
――生きている者は、生まれ落ちた瞬間に死に向かって歩いているらしい。
ボクが書き連ねる物語には必ず終わりがある。
死んだ後のことは全部わからない。書き換えられない。もうその物語を記す役目を終えてしまうから。
――だから、今。
生きているうちに、残して、繋いで。
紡いでいかなくちゃいけない。
言葉や想いを。
――幸せだった
あのひとの想いを結局ボクは彼女に伝えられなかった。
書き記す者のいなくなった物語。
書き残した思いが余白を埋める物語。
どうすれば、彼女に読んでもらえるのだろう。
「……ゆと君?」
「……翠君」
「うん」
「翠君、ボクは。キミが大切だよ」
「僕もだよ。ゆと君のこと、すごく大事」
「だから」
「うん」
「……長生き、してね」
どうしようもない運命だとわかっている。
でもボクには戦わないで、も傷つかないで、も言えなかった。
だからせめて、祈った。
彼がこの先ずっと皇彌さんと一緒にいられますようにと。
翠君はちょっと驚いたようだったけれど、すぐ微笑んで、「そうだね」と言った。




