Ep.9「イカれた日記」
「遊兎都君、新しいお洒落ですか?」
峰理さんがボクの首輪を見て言った。
「ええ……まあ、そんな感じです」と答えを濁す。峰理さんはそれ以上聞いてこなかった。機嫌よくボクを後ろから抱き締めている凛彗さんに察しがついたのだろう。
朝ごはんを終えた後くらいに、峰理さんが慈玖君を連れてやってきた。慈玖君は峰理さんの後ろに立っている。ぼーっとしているような、眠たそうな、どっちつかずな表情だった。
峰理さん自身は忙しいひとだから、大抵何かある場合――良い茶葉が手に入っておすそ分けとかそういう場合だ――は慈玖君が代わりにやってくる。本人が直接来るのは今回が初めてだった。
峰理さんは姿勢よくソファに座り、物珍しそうに部屋を見ている。
「本当にすごいところにお住まいですね、トウキョウでは一等地ですよここ」
「……これは全部、凛彗さんのおかげですよ。凛彗さんが不動産屋に掛け合ってくださって……」
「……ユウ君のためだから、当然だよ」
間近で頬を少しだけ赤く染めて笑う凛彗さんはかなり目に毒だった。ボクはちょっと視線を外す。
「ふふ、本当に仲がよろしいことで」
「す、すみません……」
「おや、どうして謝るのですか。仲良きことは美しきことですよ」
にこにこと笑いながら褒められてしまうと、何も言えなくなる。曖昧に笑って誤魔化しながら本題に入った。
「それで、峰理さん。ボクらにどんなご用件でしょうか」
「ああ、そうでした。失礼。――実は『便利屋ラビットホール』に依頼をしに来たのです」
「依頼、ですか」
「はい」
峰理さんは真面目な顔をして、ロングスカートのポケットから一枚の写真を取り出した。机の上に置かれたそれを見遣ると、人よさそうな垂れ目の男性が映っていた。見た目から三十代後半ぐらいだろうと思う。あんまり見た目って信用ならないけれど。
「このひとは?」
「最近私に『掃除』を依頼してくださった方なのですが……まだお支払いをいただいてなくて」
「ふむ」
「私は処理方法で請求金額が違います。化学薬品などを使用する倍はその分かかりますし、単に解体して埋めるだけならさほどかかりません。彼の場合は、解体後に溶解処分を依頼されましたので、そのように。費用はこれくらいです」
峰理さんは依頼人に渡すはずであったろう請求書を見せた。彼以外の『掃除屋』を知らないので、この金額が妥当かわからないけれど、特別法外な金額には思えなかった。
「滞ることはまれにありますので、そう急がせるのも悪いと思いまして……。『掃除』に向かった際、彼はかなり焦っていたようですから」
「焦っていた?」
「はい。〝早くしないと怒られる〟と」
「……?」
一体誰に怒られるというのだろう。
「このひとの住まいは?」
「『緑』です。教会の話は知人伝えに訊いたとおっしゃっていました」
『緑』――『平和的な区画』と呼ばれる表面上暴力を排している表側の通称。あくまで表面上だから、ボクらが立ち会ったような血なまぐさい事実が隠されていることは多々ある。反対にこの暴力が表面化しているのが『赤』――『暴力的な区画』である。いずれにせよ治安がいいわけではないけれど、『緑』の方が銃声はしないし、路地裏に身元不明の死体が転がっている確率も少ない。
ちなみにボクら『便利屋』や『掃除屋』はちょうど境目『どっちつかず』にある。平和的と言えるほど暴力がないわけではないし、暴力的と言えるほど血の匂いはしない、といった感じ。ちょうどいい場所を見つけてもらえて、凛彗さんにお熱だった不動産屋さんには感謝である。
「ええっと、その方の詳細は……」
「……すみません。依頼と言えど私どものお客様でございますので、お名前などは伏せさせてください」
「ああ、ですよね。大丈夫です、理解しています」
ボクは自分で愚かな問いをしたと内省した。
信頼、信用なくしてトウキョウで仕事は成り立たない。特に新たに設立された事業に対し、トウキョウの住人は大体懐疑的だし、ボクらが仕事できているのはほとんど情報屋のおかげである。
――だからこそ、拒絶できなかった。
ボクの沈黙を不思議に思った峰理さんが「遊兎都君?」と呼びかけた。ボクは「何でもないです」と笑って取り繕った。
「支払いがなくて、ボクらを頼るってことはつまり」
「はい。お客様の消息がつかめなくて」
「ああ……」
たまに、いる。本当にごくごくまれに。
依頼をして報酬を踏み倒してばっくれる輩が。ボクらのところにもいたけれど、情報屋と凛彗さんの連携プレーによりあっけなく捕まっていた。彼は結局、臓器をいくつか売り払った。
「わかりました。見つけてお金を支払うようお願いすればいいんですね」
「はい。私たちが調査できればいいのですが、いかんせん最近ご用命が多くって……」
「前に言っていた……抗争の?」
「ええ」
峰理さんが額を手で覆って嘆くように言った。
『赤』で組織抗争は日常茶飯事である。組織の力を誇示するため、気分が悪くなるような凄惨な現場を作るという。異常性が強ければ強いほど、忌避対象となり格が上がると信じられているらしい。
「いえ、こればっかりは仕方がないです。住所とかはこっちで調べますね、お写真だけお借りしても?」
「はい、構いませんよ」
峰理さんは笑って、慈玖君は終始無言だった。心なしか視線がボクに注がれているような気がするけれど……気のせい、かな?
◇
峰理さんから渡された写真からハニーBが住所を特定してくれた。電話口のハニーBはいつも通りの陽気な情報屋のおじさんだった。
表向き平和な『緑』の住宅地は、それなりに立派な家屋が多い。件の家も、臙脂色の屋根に白い壁、小さくもきちんと整備された庭、となかなかお洒落な趣をしていた。『掃除屋』が必要になりそうな雰囲気はどこにもない。
「へえ……素敵な家だな」
素直に思ったままを口に出す。ボクの独り言を大抵拾ってくれる凛彗さんがスルーしたので、代わりのようにネウが「そうか?」と口を出した。
「きれいな家じゃないか、白壁って維持大変だと思うし」
「……へえ、そういうのがお前の好みなのか」
「え、好み?」
「お前の理想が、こういう家なんじゃねえのか」
「いや別に……。どんな家でも大切なひとと住めば素敵に思えるものじゃない……かな?」
ネウはボクの返事に「ふうん」とだけ返してフードの中で丸くなった。
変な猫だ。しゃべる時点で既に変か。
玄関のドアノブを捻ると軽い手ごたえであっけなく開いた。鍵をかけていないらしい。不用心だなあ。ああ、でももしかしたら鍵をかける暇もないほど急いでいたのかもしれない。
〝早くしないと怒られる〟――まるで『不思議の国のアリス』に出てくる白兎みたいだ。だとしたら首を刎ねるのはボクの役目ということか?
……御免こうむりたい。せめて、支払いを済ませてからにしてほしいものである。
いろんなことを考えつつ、室内を見回る。カーテンやテーブル、椅子、コップや皿など家財道具はそのままになっていた。住むひとだけのいない空っぽの家だった。
ひとのいなくなった痕跡はいつだってうら寂しい。ぬくもりが段々と冷えて消えていく感じがするからだ。ひとが去って、残された無機物たちを見ると虚しさがこみあげてくる。
「……遊兎都」
凛彗さんに呼ばれて振り返ると、彼は二階に上がる階段を登るところだった。
「……手がかりがあるとしたら、彼の部屋じゃないかな……」
しまった、つい感傷的になってしまった。
すみません、と謝ると凛彗さんは「……気にしないで、役目だから」と言って、依頼人の自室の扉を開けた。
本棚がたくさんある部屋だった。中央に机がある。ベッドは見当たらないから寝室が別にあるのだろう。ひとまず目についた棚の抽斗を全部開けることにした。なんだか泥棒をしている気分だった。でもこれはお仕事だ。それに何かを盗んで売るつもりとかないし。
脳内で言い訳をしつつ、抽斗を開けては中を検めた。
途中子どもが描いたと思われる個性的な絵を眺めていると、凛彗さんが「……あったよ」と声がかかった。彼の手には一冊の古びたノートがある。小さな錠前がかけられていた。
「日記、ですね」
「……うん。今、開けるね」
凛彗さんは錠前を掌に隠した。それからばき、と音がする。手を開くと、錠前は粉々になった。時間にして数秒のことである。とんでもない握力だ。鉄製だったよな……?
閉ざされた日記には世に対する不平不満がぎっしりと詰め込まれていた。世間だけならまだしも、妻や息子に対する愚痴も書かれていた。大体が言うことを聞かないとか生意気な口を利くとかそういうのだった。けれどある日を境に一変していた。彼の日記には、
『私は霧の向こう側に行く術を手に入れた。明日、あのひとに会えばその術を授けてくれるという。あのひとは神だ! だが代償は安くなかった。私の血縁すべてを殺せという』
『まずは両親だ。殺すなんて初めての経験だからどうしたらよいか教えてほしいと縋るとあのひとは懇切丁寧に教えてくれた。ああ、なんてやさしいひとだろう。私はあのひとためなら死んでもいい!』
『両親を殺した。頭がクラクラする。殺人とはかくも疲れるものなのか……。だが休んでいられない。私の道を阻むものは誰一人として許さない。許さない、だれひとりとしてころしてやるんだ』
『ころした。また殺した。ああ、殺したんだ。だれもかれもぜんぶ。あのひとはよくできましたねって褒めてくれたんだ。そうじ屋にそうじをおねがいしなくちゃ』
『そうじやさんがきました。赤いやつも黒いやつもぜんぶぜんぶ溶かしてくれました。なくなりました。でもおかねをはらえ、といいます。いやだったから、ころしてやろうと思ったけど、だめだっていうのでやめました。あのひとの言うことはすべて本とうです。しん実です』
そこで日記は途切れていた。
明らかに人が違っている。殺人を犯した反動で狂ったのかもしれない。
最初の方はちゃんとした大人の字だったのに、最後はほとんど文字を覚えたての子どもみたいな、拙い字だった。罫線もはみ出ていて、それがより異常性を際立たせていた。
「――なんだ、それ」
耳のすぐ横で声がした。寝ぼけ眼をしょぼしょぼさせている。可愛い。
「あ、ネウ。おはよ」
「おはよう……、んにゃあ……、……なんだそれは」
「人の狂う過程を覗き見できる、とても貴重な日記だよ」
「……なんてもの見てんだ」
ネウが半眼になった。いや、これはボクの趣味じゃないし!
「依頼人は誰かと出会って人を殺しそれで神経がおかしくなってどこかに逃げた……という感じですかね?」
「……もしくは手引きした人がいるみたいだね……」
「それと気になるのはこの〝霧の向こう〟ってところですよね……。霧っていうとやっぱりあの水平線を覆い隠す霧のことなのかな……」
ネウがボクの右肩に前脚を乗せ、頬を摺り寄せてくる。ふわふわした毛並みが心地よい。
「んにゃ~……。ああ、あの鬱陶しい霧か……」
「生まれた時からずっとあるんだよね、調べたりはしているみたいだけれど何度も断念されていて、その後はもう誰も」
「……」
「ネウが生まれた頃も、あったの?」
「……ああ、あったよ」
「そっか。じゃあ随分ずっとあるんだなあ、あれ」
〝水平線の向こう側は誰も知らない〟
それがツクヨミ大陸に住んでいるひとびとの共通認識だった。
いろんな街の研究機関が霧を超えようと四苦八苦していたけれど、どうにもうまくいかなかったらしい。結局霧の正体もその向こう側も、永遠に謎のままである。
最近では、誰のものでもないはずの海の一部を所有しようという動きがあるらしいし、霧の調査おろか、海への行き来すら困難になりそうな予感がしている。
「ひとまず、あのひとが誰なのかを調べないといけないな。またハニーBにお願いしようかな」
「また、あいつに頼むのか」
「え? でも頼りになるの彼くらいだよ」
「テメエ……、対価に何を差し出す気でいる」
「何を……って。まあお金がないならボクの体じゃない? ていうか、なんでそんなに怒っているのさ、ネウ。今日なんかちょっと変――」
「……遊兎都」
くい、と首輪を引かれた。背筋にひんやりと冷たい空気が触れる。
「り、……凛彗さん?」
「遊兎都はすぐ忘れてしまうね。……ああ、それともここで示そうか?」
凛彗さんが腰を抱いて引き寄せる。彼はぐっと背中を丸めて顔を近づけた。
ネウが「おい、やめろ!」と叫んでいるのが遠くに聞こえる。
「……この体が誰のものかってこと……」
体の芯をあぶるような色っぽい声だった。腰に回っていた手がするすると下降して曲線に沿うように手があてがわれた。たったそれだけのことでも、ボクの体は大仰に反応を示した。不快感ではない鳥肌が立ち、じわじわと体中の熱が腹の底に溜まる。
「えっ、あ、あの……さ、さすがにここでは……」
ボクの体はもうボクの言うことを聞かないようだから、言葉で抵抗した。
凛彗さんの親指が唇をぎゅ、と押し込む。
「……じゃあもう、……言わないでね……?」
耳元でしっとりと囁かれ、ちょっと腰が砕けそうだった。ボクを見つめる彼のきれいな紫苑色の目は、普段の気だるげなそれと違って見えた。目の奥で燃える感情が透けているようだ。
ボクは必死に口を動かす。このままでは、ネウからまた苦情を言われるから。
「……い、言いません」
「……うん。……いい子」
そう言って凛彗さんは頬に触れるだけの口づけを落とした。彼は満足そうに微笑んだ。
しばらく、顔の熱が引かなかった。美人の急接近は本当に心臓に悪い……。