Ep.85「嵐去りて」
目覚めてからの数日間、ボクはほとんど部屋から出なかった。
凛彗さんが食事や替えの包帯なんかを持ってきてくれて、とりたてて不便は何もなかった。だから出る気がなかった、というのが正しい。
外は静かで、全部が全部嘘みたいに思った。
ハニーBに出会う前の『便利屋ラビットホール』。
ボクと凛彗さんとネウ。
何もかもが一転してしまった。
きっかけは、峰理さんからの依頼で。
あれよあれよという間に知らない場所にたどり着いた。
紫乃盾晴矢。
アレは一体なんなのだろう。
ボクは一体なんなのだろう。
不可思議が重なりすぎていて、現実味がない。
「……凛兄ちゃん」
ボクは隣で、無言のまま座っている凛兄ちゃんを見上げた。紫苑色がこちらを向く。
「ボクが意識を失った後、何があったの?」
「……うん」
彼は静かに教えてくれた。
ボクが意識を失ってすぐのこと。錦さんと、他に数名やってきて場を一気にひっくり返したという。
「『絡新婦の血族』の族長だそうだよ。翡翠さん……、翠玉君のお姉さんもいたね。さすがに強かった……あっという間に群衆を制圧してしまった。ひとりはその場にあるすべてを凍てつかせ、ひとりはあらゆる武器を切断した。腐敗させるひともいたよ……。『絡新婦の血族』とは戦いたくないな……」
凛兄ちゃんはその時のことを思い出すように、顔を顰めた。圧倒的強者の存在を目の当たりにして、もっと強くならなくてはいけない――と思っているような表情だった。ボクはそっと彼の手に自分の手を重ねた。「……ありがとう、ユウ君」と凛兄ちゃんは力なく笑った。
最近気づいたこと。凛兄ちゃん、不安な時に手を握ってあげると安心するみたい。かわいいなあ、って言ったら怒るかな。
「……紫乃盾は、特段抵抗しなかったよ。分が悪いと思ったのか別の理由があるのか……わからなかったけれど。それから潮が引くみたいに群衆はいなくなって……誰かが叫んだのが聞こえて、景色が変わった。……まるで、禮世の『幻術』みたい、だった……気が付いたらみんなここにいたよ」
ここは『絡新婦の血族』の『隠里』というらしく、場所は完全に秘匿されているそうだ。
どうやってきたかは凛兄ちゃんもよく覚えていないらしいけれど、空を飛んでいた気がすると言っていた。
「ユウ君が目覚めるまでに、全員と一応……、話したよ。……さっき言った、すべてを凍り付かせたっていうひとは――」
その時だった。
「ごきげんよう、入ってもよろしくて?」
可愛らしい声がボクに入室の許可を問うた。ボクはちょっと戸惑いながら「はい、大丈夫です」と答えた。
障子戸が開く。そこには影の通り、小柄な少女がいた。
ボクよりも身長が低いひとに会うのは初めて、のような気がする。基本的にみんな背が高いから。
雪のように真っ白な頬に、大きな蜘蛛の刺青がされていた。水色の髪と瞳はガラス細工のように儚さを感じた。清廉な水を擬人化にしたような印象を受けた。
前髪は片側だけ長くて、後ろ髪はかなり短かった。手足は指の先まで覆われているのに、胴体はまったく無防備であった。裾には光を反射する布が無数に下がっていて、水面のようだ。独創的な格好だなと眺めていると、少女は敷居をまたいで部屋に入ってくる。
襖を背に座っていたボクも場所を移動し、部屋の真ん中あたりに座った。真向かいに少女が座す。
くりくりっとした目がなんとなく小動物を思わせる見た目だが、目の奥に有無を言わさぬ意思の強さを感じた。このひとも族長なのだろうと直感した。
少女は真顔のままこてん、と首を横に倒した。傾げた、というよりも倒したと言った方が正しい首の動きだった。
「……彼女は群青さんだよ」
凛彗さんがボクに耳打ちした。その様子を見ていた少女群青さんは「そうだわね、静は群青よ」と言った。
「九の字を書いていちじく、そして群れる青で群青だわね。九群青。あなたが遊兎都ちゃんね」
まさに鈴の音のような、甲高いけれどやわらかい、可愛らしい声が名乗った。
群青さんは曲げた首をもとに戻す。なんだか人形みたいな動きだった。
「誰も来なくって寂しくはないかしら。茉禽ちゃんが変に気を遣ってしまって悪いわね」
「……マトリちゃん?」
聞き慣れない名前にボクが首を傾げる。凛彗さんを見たが難しい顔で首を振った。彼も知らないらしい。
双方の反応を見て、群青さんは目を瞬かせた。それから「? ――ああ、ごめんなさい。マトリちゃんは錦ちゃんのことよ。マトリ……漢字が難しいだわ、こう書くの」とわざわざ紙に書いて指し示してくれた。
ふむ、『茉禽』と書いて、マトリか。
「〝錦〟も〝群青〟も族長になった際に受け継ぐ名前なの、本名ではないのだわ」
「……それって、部外者のボクに教えても大丈夫なんですか?」
「別に平気よ。呼ばなければ」
「はあ、そうなんですね……」
「ちなみに静は静鳴というの、静かに鳴るって書くわね。本名は当代族長とその伴侶しか呼んではいけない禁句なのよ、でも知る権利は平等だから知るくらいは問題がないの」
「……なるほど」
「遊兎都ちゃん、八目ちゃんが会いたいっていうから静が案内役を仰せつかったのだわ」
「ヤツメちゃん……」
「〝蜘蛛の頭には、八つの目〟……それで、蜘蛛頭八目ちゃん。『絡新婦の血族』で一番偉いコね」
群青さんは立ち上がると「お着替えをお願いするのだわ、静は後ろを向いているから」と言ってくるりと背中を向けた。
真っ白な背中を見つめながら、なんだか慌ただしいな、と思った。でも、ボクは助けられた身分だ。文句を言う資格はない。部屋で着用していた浴衣からふだんの自分のそれに着替える。包帯はこの際いいだろう。
「もう大丈夫です」
「ありがとう。――あら」
振り返った群青さんがまたこてん、と首を曲げる。
「はい?」
「慌ただしくってごめんなさいね」
「えっ」
「遊兎都ちゃん、顔に全部出ているわよ」
「えっ」
ボクは両手で頬を押さえた。
維央さんに言われたけれど、ボクってそんなにわかりやすいのか……?
ちらっと凛彗さんを見遣ると頷かれた。
うわあ……。
◇
ボクは外に出なくてよかったと思うのと同時に、よく凛彗さんは迷わなかったなと思った。
屋敷はとんでもなく広かった。しかも廊下が入り組んでいて群青さんの案内がないと迷子は必至だろう。時折すれ違うひとたちはみんな慌ただしくしながらも、ボクらを見かけるとみんな一度立ち止まって頭を下げた。なので、ボクもならって頭を下げた。
「――入り組んでいるのは侵入者対策なのよ」
ボクらを先導してくれている群青さんが、突然そう言った。
「侵入者対策?」
「そう。静を含めて九一族――ひいては『絡新婦の血族』っていうのはみんな見た目が珍しいの。翠玉ちゃんだってそうでしょう? 金色の髪にエメラルドの瞳。なかなかいない見た目だわね」
「……あ」
そこまで言われて合点がいった。
群青さんの見た目もまるで氷の妖精のようで愛らしい。だからこそ、気を付けなければならないのだろう。
「九一族はね、みんな身長がこのくらいで止まってしまうの。男のコはもう少しだけ高いけれどね、でも小さめよ。――遊兎都ちゃんなら」
「!」
群青さんが立ち止まって、ボクを振り返った。
瞳は見れば見るほどガラス細工みたいだった。つるりとした表面の奥には、燻る感情が宿っている。
それがなんなのか、手に取るようにわかる。
「あなたなら、きっとこの意味がわかると思うのだわ」
ボクは頷いた。
男娼をしていた時分に薬を使われてまでこの見た目を維持されたのか。
それが薬もなく自然にそうなるのだとしたら。その、価値は。
「……ヘドの出る話です」
「まったくだわ、そんな奴らみんな凍って砕けちゃえばいいのよ」
群青さんは辛辣に言い放った。刺々しくなるのは当然である。
下衆の考えることは一生かかってもわからないし、わかりたくもない。
不意に光景が変わった。そこは洞窟の入り口みたいなところで、真っ赤な鳥居が鎮座していた。空気がひんやりしていて、本当にここが家だったのかと疑うくらいである。
どこをどう通ったか、ぼんやりとした記憶していないが、でも随分下に降りたことは覚えていた。
ここはおそらく地下部分。天井から落ちてきた水滴に、昼寝していたネウが「んにゃ!?」と飛び起きていた。
「この先にいる八目ちゃんは『絡新婦の血族』を束ねる蜘蛛頭の当主よ。偉いコだけれど礼儀を欠いたら首を刎ねるとか『糸』で細切れにするとか……そういうのはないから、心配しないで頂戴ね」
「あの……えっと」
「『人類統率機構』<紫乃盾>についても八目ちゃんが話してくれるのだわ」
「……」
群青さんはボクの胸中に渦巻く疑念の中心を、さらりとつついた。
わからないことだらけだ。何か、糸口が欲しいと思っていた。
「――この先はごめんなさいね、遊兎都ちゃん。あなたひとりで行かないといけないの」
「え?」
「嵐神尾祢憂、白樺凛彗。あなたたちも行ってはだめなのだわ」
「えっ……ちょ、オイ」
「……」
言うが早いか、群青さんはボクのフードに手を突っ込んで寝に入りそうになっていたネウを持ち上げた。ネウはお気持ち程度の抵抗をした。凛彗さんは何も言わず身を引いた。
「ずっと下っていくだけでいいわ。一本道だから。静たちはここで待っているわね」
群青さんは先の見えない暗闇を指さして、それからその場に座り込んだ。ネウは大人しくその腕の中で丸まっている。凛彗さんは佇んだままだった。
「行ってらっしゃい」
「……気を付けてね」
群青さんが手を振り、凛彗さんがボクの額に口づけた。ボクは一礼してから闇へ下っていった。




