Ep.83「囁きに堕ちる」
――纐纈織・奥義<血染めの阿修羅>
――血液を糸に混ぜることで、より糸を強固なものとし、打撃の効果を増強させる
――巨大化した阿修羅像を駆使し敵を一掃する大技
――ただしこれは使用者の命を、著しく削るため、発動時期は見極めること
◇
翠君はどんっ、と強く地面を踏みつけた。
血管が浮き出た顔は、赤かった。激昂としているというよりも、己を最大限鼓舞しているようだった。翠君がぐるりとその場で一回転する。腰に下がった『舞飾』の、尻尾のようなそれが動きにつられてふわりと揺れた。ついで一緒につけられている金属の装飾具がからん、からんと小気味いい音を立てた。
普段目に見えないはずの『糸』が彼の腕から伸びているのが見えた。
『糸』が赤く染まっているのだ。それが幾重にも翠君の肌から伸びていて、彼の足や手の動きに合わせて『糸』が折り重なって何かを紡いでいる。まるでひとの形をした機織りのような――無駄のない動きだった。
無駄がないがゆえに、翠君の動きはとても美しかった。まさに『舞踏』である。舞うのを止めようと襲い掛かるひとたちは、問答無用で吹き飛ばされていた。
翠君は舞い続け、そして赤い『糸』たちは縦横無尽に空中を駆けて絡み合う。
そんな時間が続いて、やがて。
「……すごい……」
何かの本で見たことがある。
三つの顔に、六本の腕。異形でありながらも神々しく、厳めしい顔立ちには何物も寄せ付けぬ雰囲気があった。ふたつの足で地上に降り立ち、愚かな人間を天から睥睨する戦いの神。
――巨大な真紅の阿修羅が顕現した。
「……纐纈一族の奥義です」
唖然とするボクの横で誰かがそう言った。皇彌さんだ。
彼の表情は険しかった。
「奥義……?」
「美しいでしょう? ……でも」
「でも……?」
皇彌さんは苦虫を噛み潰したように、
「赤い『糸』は血を混ぜて『糸』の硬度を上げているんです。だから、使用者にはかなりの負担がかかる……」
と続けた。
「えっ!?」
「……クソガキが……」
――死ぬつもりか
消え入るように皇彌さんが言った言葉が、ボクの体を動かした。
翠君に近づこうと走ったが、罪もなく意思もない群衆によって経路を阻まれる。
ボクの腕は動かなかった。しかし、相手は吹き飛んだ。
阿修羅の大きな手によって。
「翠君! 翠君、だめだ!」
「……大丈夫だよ」
翠君は真正面を向いたまま答えた。彼は見たこともない険しい表情をしていた。
視線の先には、ぬいぐるみに頬擦りをする紫乃盾がいた。
「翠玉……いいや、まったく。あれはどこまでも私が嫌いなのかね」
紫乃盾はぬいぐるみに口づけをする。唇を触れ合うだけでは飽き足らず、舐めてもいた。
おぞましくって見ていられなかった。鳥肌が立つ。
「知らないよ。『祖』のことなんてかけらも知らない。……でも、僕はお前が嫌いだ。心の底から死んだほうがいいと思っているよ」
「っは! ――私の廃棄が、君ごときで決められるものか」
「知らないって言っているだろ。――お前はここで、死ね!!」
翠君が腕を動かせば、阿修羅の巨大な腕が紫乃盾に振り下ろされる。土煙と凄まじい風が吹いて視界を覆った。思わず目を瞑って顔を腕で庇った。
ほどなくしてやんだのち、目を向けるとそこには誰もいなかった。
誰も、――いない?
「遊兎都ッ!!」
蜜波知さんの声。すぐ、後ろから。
手を伸ばす彼が見えた。その手を取ろうとボクも手を伸ばした。
でも、
「だあめえだあよう、ゆーうとくーん」
耳にへばりつく、どろどろした甘い声がボクと蜜波知さんの間に割って入ってくる。
首と胴体に腕を回され、ボクは後ろに引かれた。誰かと問うまでもない。
兎戯君だった。
「だあめ、だあめ。そっちはだあめ。ね? 一緒にあのひとに可愛がってもらお? きもちよぉくしてもらお? ね? ね?」
媚びるように兎戯君が囁く。甘えた仕草に反して力は強かった。
がっちりとホールドされて身動きができない。蜜波知さんも襲い掛かってくる群衆を相手するのに精いっぱいだった。
人と人とが混じりに混ざり合い、誰もが誰かと戦っている。
血を流し、血が流れ、傷がつき、傷をつけている。
楽園だったはずの場所が、一瞬にして地獄と化した。
頭が痛い。心が軋む。喉がからからに乾いて、苦しい。
「……なんで」
「なにがあ?」
「なんで、……なんでこんなことするんだよ……? なんのために、こんなことするんだよ……ッ!?」
一体全体このひとたちが――凛兄ちゃんやネウや蜜波知さん、翠君や皇彌さん、雨汰乃さん、唄爾さん、呉綯さん、峰理さん、慈玖君、雅知佳さん。……維央さん。
やさしいだけのひとたちが、何をしたっていうんだ。
何をしたらこんな報いを受けなくちゃいけないんだ。
ひどいじゃないか。ひどすぎる。
こんな世界、間違いすぎている。
こんな間違った世界に誰が――……
「――きみのせいだよ?」
冷たいものが胎に降りた。
え? なんだって?
ボクの……?
「……!」
「ぜえんぶ、きみのせい。君が生きているからみんなああやって苦しむの。溶けてなくなっちゃえばよかったのに。キモチイイまま、死んじゃえばよかったのに。……ねえ、生きているのってつらくない?」
「そ……んな、こと……」
「きみのせいでこうなっているんだよ? 大切なひとが、壊れちゃうんだよ? ねーえ、遊兎都君。一緒にあのひとのところ、行こ? そうしたらみんな助かるよ?」
ボクのせい。ボクのせいで、みんなが。
ボクが生きているせいで。
「ねえ、遊兎都君。わかっているでしょ? どうするのがイチバン、いいか。わかるよね?」
「……ボクは……」
「ねえ、遊兎都君」
わかるよね?
兎戯君の声。甘い声。
戦うみんなはボクのせい。
傷つくみんなはボクのせい。
ボクは。ボクが。ボク、 ボクなんかが。
いる、せい で?
「遊兎都ッ、おい、しっかりしろ!」
「わっ!」
どん、という音が聞こえて兎戯君の拘束が外れた。
代わりに乱暴に掻き抱かれた。耳が強く圧迫されて痛い。
痛みに少しだけ思考がはっきりする。
金色の目がボクを見ている。
ああ、お月様みたい。
「……ねう……?」
「お前のせいなんかじゃねえ!! くだらねえ甘言に惑わされるなッ!! お前が誰かを損なうなんてこと、ありえねえんだよ!! お前は救いなんだ!! 誰にとってもお前は救いなんだよ!!」
「……すくい……?」
「しっかりしろ!! 遊兎都!! お前は……!!」
「――はてさて」
「……っ!?」
祢憂の息を呑む音が聞こえた。
――誰だろう? 聞き覚えのない声だ。
「てめえは……!」
「ごきげんよう、『神使者』殿。急を要するとやってきたが……これはまた。最悪じゃア、ないかね」
なんだろう、声が聞こえる。
顔を見ようと思うのに視界が全然定まらない。
ぼやぼやして、鮮明じゃない世界に見知らぬ色を持った誰かがいる。
ボクを見ているのかどうかもわからない。
「うん? ああ、君か。世にも珍しい『慈愛型』。なあにどうも、……堕ちかけているねえ、よくない、まったくもって――よくないねえ」
「……あ、なたは……?」
「小生は、味方さね」
女のひとだろうか。
「小生の名は――」
ああ、もう聞こえない。
誰なんだ、あなたは――。




