Ep.8「Whose are you」
凛彗さんだった。目を吊り上げるとか眉間に皺を寄せるとかそういう顔の動きがまったくないのに、怒っているのがわかった。蛇が霧散して、そこにはボクを組み敷く蜜波知さんと半分脱がせられたボクがいた。
あ、下もずり下ろされていたのか。気づかなかった。
「……っち、いいところだろうが。わからねえのかお前」
「ユウ君が嫌がっているの、わからないかな……? いいからどいて。……首の骨折られたい?」
部屋の空気は極寒だった。
蜜波知さんは渋々といったていでボクの上から退く。凛彗さんが体を抱き寄せ、服を整えた。すべての動作が素早かった。手品みたいだ。
「……ああ、ユウ君。大丈夫? ひどいことをされたね……」
凛彗さんがあちこちに口づけしながら言った。その様子を見ながら、「……俺は久遠寺雅知佳に頼まれてお前らの動向を監視し、逐一報告をしている」と言った。
ボクへの説明ではない、凛彗さんへの説明だ。
蜜波知さんはサングラスをかけ直し、ジーンズのポケットから煙草を取り出して、火をつけた。すると凛彗さんはぎゅっとボクを抱き抱き締めた。ボクが煙草の香りが苦手なことを知っているからだ。
「……煙草、やめてくれないかな。ユウ君が嫌いなんだよ」
「悪いな。今は吸わせてくれ、虫の居所が悪ぃんだ」
「……」
「それで、悪くない額をもらっている。俺の生活の半分はそれで成り立っていると言ってもいい」
「……だから何?」
「今後も俺はお前らに関わり続ける。やめろと言われてもやめねえ。これは俺の生活のため、と……」
「……」
「火がついちまった」
視線はボクに注がれている、と思う。なんせ今、視界いっぱいにご立派な胸筋しかないもので。
「……別に構わないよ。僕はこの上なく君を嫌いだけれど、ユウ君が君の依頼を受けるなら文句は言わないし、君を肉塊にするのも我慢する。……でも、今回みたいにユウ君の同意なしに触れようとするのなら、許さない。頭をもぎ取って背骨を引きずり出して臓器という臓器をすべて取り出してぐちゃぐちゃにして犬の餌にする」
他人相手にこんなにしゃべる凛彗さんは、初めて見る。
さっきから、空気はずっと冷えっぱなしだし、ピリピリしていた。
「ふうん、同意がありゃあ……抱けんのか? え?」
「……」
「遊兎都が俺に抱かれてもいいって言ったらお前は止めねえって?」
「……駄目だよ」
「あ?」
「……たとえ、心が君のものになったとしても。体はだめだ。……僕のものだよ」
抱き締める力が少しだけ強まった。
どこにも行かないよう、大切なものをしまい込む仕草だった。「……っは、クソガキの考え方だな」と蜜波知さんが嘲笑うのが聞こえた。
「おじさんには少し……若すぎる考え方だったかな、ごめんね……」
「あぁ!?」
ん?
「お・じ・さ・んだあ? お前と年齢変わんねえだろ、知ってんだぞ。お前の年齢」
「……君より若いと思うけれど」
「俺ぁ三十七だよ、お前三十二だろ。四つしか変わんねえぞ」
確かに凛彗さんは三十二には見えないよなあ。というか四つは結構違うのでは……。
ああ、でもボクは十個違うし。どうなんだろう。
「へえ……見えないね、老けすぎじゃないかな。……どうでもいいけれど」
「味が出てるってこったろうが」
「味……? あぁ……。はいはい……。そういうの、年齢の取り方がきれいなひとが言うものだよ……。君は全然全く、きれいではないね……」
「はぁ? 言うじゃねえか」
「……」
あれ、喧嘩になっている?
これは止めないとまずいのでは?
「……表出ろ」
「……後悔するよ」
あれ!?
「――ちょ、ちょっと待ってください!」
ばちばちと火花を散らすふたりが、同時にボクを見た。
うわ、思ったより結構ちゃんと喧嘩をしている。
「……止めんな遊兎都」
「うん……大丈夫だよ、一瞬だから……」
「あ?」
「……なに?」
「待ってくださいってば! ――ボクのことで争うのはやめてください!!」
叫び。のち、沈黙。
空気が変わった。
「……あれ?」
ボクも蜜波知さんも凛彗さんもみんな、ぽかんとしていた。
するとどこからか現れたネウがあきれ顔で、
「……素でそういうこと言う奴、いるものなんだな」
と言った。
ボクはようやっと自分が何を言ったのかを自覚した。一気に顔に熱が集中する。
うわあ、恋愛小説とかで見る台詞を全力で叫んでしまった。
「……き、聞かなかったことにしてください……」
恥ずかしい。恥ずかしくって穴があったら入りたいくらいだ。
顔を手で隠して下を向く。再び、静かになる部屋。
どうしたのだろうとそっと指を開いて隙間から覗くと、
「……っっ」
「……」
蜜波知さんは天を仰ぎ、凛彗さんはしゃがみこんでいた。
えっ、なに? なにごと?
理由は不明だが、どうやら沈静化したらしい。
あの台詞って現実でも効果あるんだな。
◇
ハニーBは「また仕事回しに来る」と言ってボクにウインクして去っていった。険悪なムードは余韻を残していたが、彼の姿が見えなくなると凛彗さんの警戒はほどけた。
ボクの足元にやってきたネウが靴の部分を引っ掻く。フードに入れろという催促である。要望通りフードに戻すと「なァん」と猫みたいに鳴いた。
「昼寝しそこなった」
「はいはい、ごめんね」
「次は引っ掻くからな」
「……え、なんでそんなに怒ってるのネウ。そんなに眠たかった?」
「……うるせえ」
ご機嫌ナナメなネウはそのまま寝に入った。ボクも少し休もうとソファに座ろうとすると、矮躯が宙に浮き、凛彗さんの膝の上に置かれた。凛彗さんはもう怒っていないようだけれど、機嫌は良いとは言えなかった。
「……どうして君は諦めてしまうのかな」
「え」
「……彼に迫られて途中で抵抗をやめたでしょ」
「……え」
「……」
「……」
「……」
「……すみません」
圧に耐えられなくて自白した。ボクの返事に凛彗さんは目を細めた。泣きそうになるのを我慢しているみたいな表情だ。
「……ねえ、遊兎都。僕は君の事が好きだよ」
唐突に、凛彗さんが言う。
知っている、何度も言われているから。だから「わかっていますよ」と答えた。
でも彼は悲しげな表情のまま、首を左右に振った。
「……わかってないよ。遊兎都は、わかっていない」
「……え?」
「君は……僕に同じものを返してくれなくたっていい。君が僕の想いに答えを探しているのだっていつまでも待つ。……でも、誰かに……体を、許そうしている君を許容できるほど、僕はやさしくはなれないんだよ」
「……」
凛彗さんは真剣だ。否、いつだってこのひとは、真剣だった。
彼の想いを踏みにじっているのは、紛れもないこのボクだった。
「……すみません」
何に対する謝罪なのか。自分でもわかっていない。
謝って済むようなことでもない。けれどうまい言い回しが見つからない。
うまい言い回し? この期に及んでボクはまだ言い訳を探しているのか。
「……遊兎都、首輪をつけようか」
「へ!?」
首輪!?
「君の体は僕のものだよって証をつけるの。……そうじゃないと君、忘れてしまうでしょう?」
「え、えぇ? 首輪……ですか?」
「心は良いよ。……待つから。でも、体はだめ。僕のものだから触れてはいけないよって教えてあげないと」
「いやでも、首輪していても襲われるものは襲われ……」
反論しようとして、ずいっと美貌が前に出てくる。ああ、本当におきれいな顔をされていらっしゃる。睫毛本当に長いなあ。――なんて惚けていたら、「遊兎都」と現実に引き戻された。
「君が忘れてしまわないように、だよ。……いい? 首輪をしている間はこの唇も耳も頬も体も全部誰かに委ねてはだめだよ」
有無を言わさぬ物言いだった。返事は「はい」か「わかりました」以外ないと言っているみたいだった。
ボクの返事がないのを是と受け取った凛彗さんは、パーカーのポケットから首輪を取り出した。用意周到である。赤い革の首輪で、飾りはひとつだけ。月を模したシルバーチャームがついていた。
「……僕と一緒に寝る時は外していいよ。それ以外はちゃんと身に着けていてね」
凛彗さんは言いながら手際よく首輪を取り付ける。久しぶりの感覚だ、あの時より苦しくないはないけれど。彼は首輪をしたボクを見て微笑んだ。
「……これで、僕のもの」
凛彗さんは満足そうに微笑んで、「……内側から毎日変えてあげているけれど、外側はこれで……」となんだかさらっと怖いことを呟いた。内側から毎日……? それって……?
凛彗さんは力強くボクを抱き締める。すごくいい匂いするのだけれど、何か香水をつけているのかな。
――そういえば。
唯一と言っていい友人の翠君が、凛彗さんの溺愛っぷりを見て過去にこんなことを言っていたっけ。
「ゆと君」
「うん、なあに翠君」
「僕はふたりを見ていて思ったことがあるんだけどさ」
「え、なんだろう……」
「凛さん、病んでいる気がするんだよね。そのうち愛ゆえに監禁とかされちゃわない? 大丈夫? そういう時はもちろん僕が助けに行くけど……」
「ふふ……ありがとう、翠君。大丈夫だよ」
「……伝わってな」
うとうとしながら、ボクは友人との思い出を回想していた。
現実逃避していたわけである。そしてバレて、さもありなん。
遊兎都くんは現実逃避しがち