Ep.79「笑う女帝」
「――呑気なものだね」
開口一番、雅知佳さんはそう言った。
どういう意味かと問うつもりで口を開いたが、「まあいいさ。いいんだ、世間話など必要ない」と向こうが話を終わらせたので、ぐっと奥歯を噛み締めてボクは沈黙を保った。
案内役だった蘇中部さんは、部屋の外で待機している。
雅知佳さんの執務室には来客用と思われる五人掛けソファがふたつ、向かい合わせに用意されていたが座っているのはボクと雨汰乃さんと翠君だけだった。
峰理さんも慈玖君も扉付近に立っていて、凛彗さん、皇彌さんはそれぞれソファのすぐ後ろに立っている。唄爾さんと呉綯さんはガラス張りに興味津々のようで、ふたりそろって外を眺めていた。蜜波知さんは部屋の隅。
雅知佳さんはボクの正面に座って、足を組んでいる。
薄墨色の髪に、橙の目。墨汁を筆の先につけて飛ばしたような模様がついた白のパンツスーツ。ワイシャツは黒で、ネクタイは白だった。革靴も黒。唯一色彩があるのは、襟元のボタンだけだ。青と黄色と赤の色分けされた星の形をした装飾用のボタン。その色には見覚えがある。
ボクはちらっとはしゃぐふたりの背中を見遣った。彼らと同じ色。そして、彼女と同じ色だ。
「――仕事の話をしよう」
雅知佳さんの声に、ボクは彼女に向き直る。
彼女は背が高い。足が長いから必然座高は低くなるのだけれど、それでも見下されているような威圧感はあった。無論、感じているのはボクだけ。翠君なんかは興味なさそうにソファの上で膝を抱えているし、雨汰乃さんは平常通りだった。
ボクはごくり、と唾を飲み込む。それから、息を吸って吐くのと同時に「はい」と応じる。翠君は返事をせず、雨汰乃は「ああ、頼む」と先を促した。
「ここはエデン。『楽園』の意味を持つ都市だ。大小合わせて合計十三の街を統合したうえでできた新たな集合体。ここにはほかの街と違い、規則ではなく『法律』がある。秩序を保つために住人に課した社会的規範をまとめたものだよ。そう堅苦しいものじゃない。〝人を殺すな〟〝盗みはするな〟――そんな、子どもでもわかるようなことさ」
いずれもザイカでは、子どもが理解していたうえで、敢えて犯していた犯罪である。
なんならそのふたつは連なって実行される。畢竟、人を殺して金品を奪うのはザイカでは常だった。
「私はこのエデンをできうる限り拡大したいと思っている。なんならツクヨミ大陸全体をそうしたいが……現状、それは難しいだろう。だから、できうる限り――としている」
途方もない話だ、とボクは言えない。
雅知佳さんならやりかねないからだ。
「しかしその場合、ほかの街に存在する犯罪者やゴロツキ共――いうなればひとの形をしたケダモノたちも、相手にしなければならなくなる。現状『都市軍』でなんとかなってはいるが、これから先どんな敵対勢力が出現するかわからない。常に愛瑠々に予測は立てさせてはいるがね、予測というのは所詮、予測に過ぎない。未来予知ではないから、完璧ではない。物事には常に例外が存在するものだ、ゆえに――」
「話長すぎ。だるい」
翠君が雅知佳さんの丁寧な説明を遮った。
雅知佳さんの形のいい眉がぴくり、と反応した。が、それ以上の感情を露にしなかった。
少しだけ、沈黙。口を開いたのは翠君だった。
「要は強い力が必要ってことでしょ、雅知佳さん」
彼女はふうと息を吐いてから「ああ、そうだ」と肯定した。
「エデン拡大には軍事力は必須。軍事力強化のために『三大規格外』だった君たちの力を貸してもらいたい。君たちの力を貸してもらえれば、全土とはいかなくとも、半分ほどはエデンに統合できるはずだ」
雅知佳さんの問いかけに――
「……お断りだよ」と凛彗さん。
「丁重にお断りいたします」と皇彌さん。
「僕は雨汰乃の飼い主だ。お前の飼い主じゃない」と唄爾さん。
「俺ちゃんは雨汰乃ちゃんの言うことしか聞きませーん」と呉綯さん。
それぞれ全員、断った。
雅知佳さんは予想していたらしく、怒る様子はなかった。
ただ深く溜息をついただけだった。それから雅知佳さんが目を向けた。
ボクらではなく、扉のほうを。
視線を辿った先にいたのは、峰理さんと慈玖君だった。この場合、雅知佳さんが見ているのは峰理さんだろう。慈玖君はそもそも面識がない。
「やあ峰理。また会えてうれしいよ」と恐ろしいまでの棒読みで雅知佳さんが言った。社交辞令だ。それくらい心がこもっていない台詞だった。
「……ご無沙汰、しております」
「君はもちろん、私に賛同してくれるのだよね?」
事前の打ち合わせ通りだとでもいうみたいに、雅知佳さんが言った。
峰理さんは目を見張った。慈玖君のこめかみがぴくつく。
「も、もちろん……、ですか?」
「ああ、そうだとも。もちろん、だ。――だって君、償いが済んでないじゃないか」
「……!!」
雅知佳さんがいとも容易く、傷を抉った。
深い傷を、更に傷つけた。
峰理さんが両手を胸元に引き寄せる。丸めた両手は震えていた。
「……つ、償い……」
「そうだよ。峰理、なあどうして私が君なんかを呼びつけたと思う? ――償いの機会を与えてやろうと、そういうことだよ。君もわかっていたからここに来たのではないのかね? ――若い男にうつつを抜かして、忘れたわけじゃあないんだろう?」
雅知佳さんは一歩も動いていない。ただ座って、峰理さんに問うているだけだ。
けれど、さながら言葉が雅知佳さんの形をして詰め寄っているようだった。彼女が一言話すたびに、峰理さんの顔色が悪くなっていった。青褪めているというより、白い。血の気が引いていた。
「峰理、なあ峰理。私たちが犯した罪を忘れるなんてあんまりじゃないか。なあ、なあ。なあ、峰理」
「あの……私は、……」
「峰理。羽詰峰理。私は、私はね。不思議でならんのだよ」
「ふ、ふしぎ……?」
「――なぜ、君が生きているのかね」
「雅知佳!!」
叫んだのは雨汰乃さんだった。峰理さんは色を失って腰を抜かしていた。傍らの慈玖君が焦燥に駆られながらも、寄り添う姿が横目に見えた。
ボクの隣では、雨汰乃さんは立ち上がって、雅知佳さんを睨んでいた。
とても悲しい顔をして。
「うるさいぞ。私は声の大きい男が嫌いでね」と雅知佳さんは蝿を追い払うみたいな素振りを見せた。雨汰乃さんは「……そいつは失礼」と冷静さを取り戻し、ソファに座り直した。「だが、お前の物言いも交渉としちゃあ随分じゃねえか?」と訊ねる雨汰乃さんに対し、雅知佳さんの目は冷えていた。
濁って凍り付いていた。うろを覗いているみたいに、感情がない。
「――交渉?」
「お前は『三大規格外』の力が欲しいから俺たちをここに呼んだんだろ。だったら話すべきは俺たちだろうが。違うか?」
雅知佳さんは、つまらなさそうに「違うね」と言った。
「君たちの意志など、確認するだけだよ。交渉などしない」
「……なんだと?」
「君たちにもとより拒否権などないよ、あるわけがない。君たちが拒絶できるわけがないのだから」
「拒絶できねえってのはどういう意味だ」
「そのままの意味さ。君たちは、断るということすらできない。拒めない、受け入れるしかない。――そうだろう、遊兎都君」
「……え?」
雅知佳さんはボクを見ていた。
真っ直ぐに、ボクだけを。
ボク、だけ?
「どうかね。ここにいれば安全だよ、君を傷つけるものは何もない。なにも、彼らを道具みたいに使うってわけじゃあないのさ。ただ少しばかり、力を貸してもらいたい。私はただそれだけなんだよ」
どういう、ことだ?
どうしてボクを見るのだろう?
なおも雅知佳さんは語り続ける。
ボクに集中したまま。
「腕輪も首輪も君が望めば外して構わない。まあ一応例外を作るといけないから形式的につけてはもらうがね。安心してくれ、妙なものは入れないから。『情報屋』についても今回の事は不問に付す、そんなことよりエデン拡大のほうが最優先事項だからね、些末なことにはとらわれないさ」
彼女はいっそ不気味なほどにボクに擦り寄ってきた。
目の奥に嫌な輝きが宿っている。その目は、吟慈さんと同じだ。
凛彗さんを、凛兄ちゃんを、我が物にしようとするあのひとと同じ目だ。
懐柔しようと、手懐けようとしている厭らしい人間の目。
どうしてあなたがそんな目をボクに向けるの。
どうして、――
「遊兎都君」
「……雅知佳さん……」
「なんだい? 君だって、苦労してきたんだろう? 無秩序で。無法地帯で。――ここは君の苦労が報われる楽園だよ」
「……ボクは」
平和は大切だ。平穏は重要だ。
誰も死なない世界線。誰もが笑っている時間軸。
欲しいと思っても、祈っても、願っても、どうにもならなかった現実。
手に入るかもしれない。夢物語で終わらないかもしれない。
それなのに。
躊躇っている。戸惑っている。
その手招きする一線を越えれば、幻想が本物になるのか。
だったらどうしてボクは怖いのだろう。
その手を取ることに、こんなに違和感を覚えるのだろう。
――自分を救えるのは、自分だけだよ
「遊兎都君」
自分を救うこと。
それは涙を流すように。
それは覚悟を決めるように。
それは自分を許してあげるように。
――お前は、忌むべき存在です。ですが利用価値もある
――だから彼女に引き渡すのが吉でしょう
――水それ自体にはなんの薬効もありませんが、与えられる側がそう思い込むことでただの透明な水は甘い毒を含んだ水になる
――どんなひとでも虜にできちゃうすごい体質
『魔性』。
他人の人生を狂わせる。
ボクは。




