Ep.77「決意」
二日間、宿の朝食、夕食の場にも雨汰乃さんは出てこなかった。
いずれも部屋に持ってくるようお願いしていて、布団も自分で敷くと言っているらしい。思うように世話ができなくて、女将さんが少々困惑していた。
お風呂はそこそこにして――ボクに至っては朝に一度堪能しているので――早々に布団に入った。用意された浴衣は肌触りのいい代物で、ボクみたいな身長の低い男にもきちんと合うようにサイズ展開も豊富だった。
宿のごはんは朝も夜も常に豪華で、食の細いボクにはなかなか重かった。凛彗さんが代わりに平らげてくれていたけれど、その食べっぷりを見て蜜波知さんはぽかんと口を開けていたのは面白かった。
食事を終え、部屋に戻り、食休み。
「あいつ意外と食うんだな」
「ボクもこの前のお昼に初めて見て驚きました」
「だから……そうか……でけぇのか……」
「? ……ちょっと。どこ見ているんですか」
「いや別に?」
おじさんのあからさまなすけべ目線に、同じく浴衣を着た凛彗さんがものすごい顔をして引いていた。手が出ないだけ以前よりマシである。でも最悪だ。
ボクが目で訴えると、「悪かったよ、おちゃめな冗談だろ?」と蜜波知さんは両手を上げた。
「――それにしたってこの二日間、どうにも普通だったな」
「普通?」
「俺としちゃあ、なんだかんだで食って掛かられると思ったんだが」
「雅知佳さんは、約束は守るひとですから」
「まあな。俺がちゃんと働いていた時は毎月金払ってくれてたもんなあ」
蜜波知さんの発言で、すっかり忘れていた事実を思い出す。
――そういえばエデン側のひとだったんだ。このひとは、裏切り者。
そう考えると、外に出ないのは極めて正しい行動である。
どこでどう、報復されるかわからないからだ。しかも、彼には。
続けざまに思い出した事柄に、ボクは知らぬうちに生唾を飲み込んだ。
「……蜜波知さん」
「ん? どうした、遊兎都。急に真面目な顔して」
「……なんて言ったらいいのかわからないんですけど……。もし、その……」
そんなことするはずがないって思っているけれど、人間は窮地に至った際何をするかわからない生き物だ。怒りで頭が真っ白になって相手を殺すことしか考えない、とか。それは愚かなボクの例ではあるが、雅知佳さんがそうならないとは限らない。
下手に動いて愛瑠々さんの身に何かあったら、ボクの責任である。だって裏切るきっかけはボクなのだから。責任を取れと言われたらそのつもりだった。
「ああ……。瑠々のことなら気にすんな、あいつは元気だ」
ボクの思考を先読みした蜜波知さんが壁にもたれたまま、にかっと歯を見せて笑った。相変わらず少年みたいな笑い方をするひとである。
「……え?」
「実はな、瑠々とは連絡を取っているところなんだよ。雅知佳に勘繰らねえようにってやってっからそこまで詳細なやりとりはできてねえんだが……。生きていることは確実だ」
「そ、そうなんですかっ?」
「おうよ。――おいおい、俺ぁツクヨミ大陸イチの『情報屋』だぜ? 舐められちゃ困るな」
鼻の下を指で擦る仕草も、少年っぽい。
「……そうか、そうなんですね。……よかった」
「っは」
「!?」
体が抱き寄せられて、腕の中に収められる。煙草の香りがした。
「だから言ってんだろ? ひとりで負うんじゃねえって」
「……あ」
――相思相愛って言うんだから、お前だけ頑張るんじゃ意味ねえよ
ネウのことを話した時、このひとはそんな風にボクの気持ちを受け止めてくれた。
そうか、頼ってもいいのか。ボクは――このひとに。このひとたちに。
「……おい、オレにも背負わせろ」
――と言ってきたのは、ネウだった。フードではなくボクの布団の上に我が物顔で座っている。香箱座り、やっぱりかわいい。ぺしぺしと尻尾を布団にたたきつけている。
「うん、ありがとうネウ。ネウにもちょっと背負ってもらうね」
「……ちょっとじゃねえ、全部だ」
「全部はさすがに……。猫じゃ重みに耐えられないよ」
「っち。……これならいいだろ」
言ってからすぐネウが祢憂になった。黒髪で金色の目、黒いスーツ姿の青年が布団の上に胡坐をかいて現れる。
「それでもちょっと重すぎるんじゃないかな?」
「……」
祢憂は口をへの字に曲げる。
人間の姿に尻尾はないはずだけれど、布団を叩いているのが見えるような表情だった。
不満を前面に押し出してなにかしら言いたそうな祢憂に対し、蜜波知さんが聞こえるように溜息をつく。金色の目が獰猛な光を持ったまま真横に滑った。
「っは、クソ猫。そんなひょろひょろじゃあ無理だって。年の功だ、年長者に任せろ。つまり俺」
自信満々な蜜波知さんに対し、今度は凛彗さんが嘆息した。
「なんだよ」
「……戦えもしない癖に……よく言うな、って。……思っただけだよ」
「あぁ? 適材適所だっつってんだろ、坊主。俺は情報戦、お前は肉弾戦。わかるか? 情報次第で戦いってのは有利にも不利にもなる……。ああ、そうか脳筋君じゃあわかんねえか」
「……は?」
「おつむも筋肉じゃあそういうのわかんねえよな。ぶっ壊すだけじゃあだめなんだぜ、ぼーや?」
「……戦わないひとは疲労しないから……、口が良く回るね……」
――なんでこのひとたちは、いつもこうなのか。
ボクは深呼吸してから、立ち上がった。祢憂の方に駆け寄り、彼の横で腰に手を当てて仁王立ちする。ちょうど祢憂の説得に向かったときの格好だ。そして、
「蜜波知さん! 凛兄ちゃん!」
叫ぶとふたりが揃って〝え〟という顔をした。なんだかんだ似た者同士。
「もしそれ以上不毛な言い争いを続けるようなら、ふたりとも罰を受けてもらいます」
「……は?」
「……罰、って……?」
恐る恐る訊ねる凛兄ちゃんに、咳払いをして一言。
「一週間接触禁止にします!」
『えっ』
わかりやすく、顔色が変わった。
「接触禁止って……あれか、ちゅーは……」
「だめに決まっているでしょう」
なんで大丈夫だと思ったんだ、このおじさん。
「……ユウ君……、抱き締めるのは……?」
「もちろんだめです」
接触って意味、わかっているのかな? 凛兄ちゃん。
「……そいつはどうも……」
「……堪えるね……」
とんでもなく、落ち込んでいる。
良心がずきずき痛むが、今は無視。再び口を開く。
「――蜜波知さんもいい大人なんですから、あんまり煽らない。あと、凛兄ちゃんもちょっと抑えて。どっちの力もボクには必要なんですから」
「……」
祢憂の視線を感じたので、「もちろんキミの力も必要だよ」と笑った。まんざらでもない顔をしたので、ひとまず不機嫌になることは避けられた。
落ち込むふたりは心なしか小さく感じた。滅多に見られないつむじを見つめながら、駄目押しをする。
「いいですか。次同じような言い争いをしたら、前置きなしで罰を執行します」
「……」
「……」
「おふたりとも、返事は?」
「……わかりました……」
「……うん。……わかったよ、ユウ君……」
わかってくれてよかった。
正直、ボクにとっても罰に等しいことだったから。
◇
「――ということがあって」
「おお、ゆと君すごい」
「飴と鞭、だな」
ボクらの声が静かに反響する、午前二時過ぎの大浴場。ふだんは閉めている時間なのだが、雨汰乃さんが事前に連絡して特別に開放してもらっているという。ただし、清掃の都合上二時間が限度らしい。
「毎日じゃさすがに迷惑だからな。今日だけだ」
「え、それじゃあ……昨日はどうしたんですか?」
「部屋に備え付けの風呂があったろ、そこで済ませた。途中あいつらが起きて無駄になっちまったがな……」
「……ドンマイ」
「……雨汰乃さん……」
同情を禁じ得なかった。
ボクらは昼間に話した通り、夜中に合流した。大浴場を覗くと予想通り雨汰乃さんがそこにいた。しかし話を聞く限り、今回一緒になれたのはかなりの奇跡だったようだ。
雨汰乃さんは突然現れたボクらに一瞬驚いたがすぐ笑って、「一緒に入るか?」と逆に誘ってくれた。もちろん了承して、三人並んで体を洗っている最中にボクが寝る前のひと悶着について話した。
「それにしても」
「うん?」
「改めて見るとすごいですね……」
雨汰乃さんは筋肉質だ。胸板もしっかりあるし、腹筋だって割れている。美しい見た目と同じくらい、均整の取れた美しい体である。――だからこそ、つい目が行ってしまう。体中の、その痕跡に。
鬱血痕がまんべんなく、噛み痕も同じくらい、腰のあたりには手の痕もあった。臀部あたりにあるのは、無視しよう。あのふたりにしない体位はないし〝お遊び〟もない。大体あらゆることをあらゆるモノを使って試す。それが、一尺八寸兄弟の『食事』だ。雨汰乃さんはそのことを「味付けや調理方法を変えて楽しんでいる」と言っていた。
「ああ、これか」
雨汰乃さんが自身の体を検分しながら説明してくれた。
「――鬱血痕は大体呉綯だ、あいつは痕をつけるのが好きらしい。噛み痕はほとんど唄爾だな……この腰の手跡はわからねえ」
「気絶しているって言っていますもんね……」
「最近は滅多にトばさねえがな……ああ、そうだ」
「はい?」
「忠告しておく……。吸引はやめておけよ、あれは地獄だから」
「……」
「……」
なんとも返事の難しい忠告だった。
吸引は、されてないのだけれど……。
まあいいや、これは。敢えて言わないでおこう。翠君もそのようだし。
それにしても。
「雨汰乃さん、気絶してないんですか? あれで?」
「薬の効きが悪いんだよ。都度呉綯が体内で調合しているから、配合は変わっているんだろうが……。あいつ曰く、〝雨汰乃ちゃんの体が俺ちゃんの毒を受け入れてきた〟ってことらしいぞ」
「そんなことあるんですか……」
「さあな。知らねえよ、呉綯の言うことは大概冗談だからな」
ぶっきらぼうに言い放って、雨汰乃さんは体についた泡を流した。
「えー意識保てても嫌じゃない? 無駄に頑丈だったからいろいろ覚えてて最悪だったよ」
口を挟んだのは翠君だった。彼は体を丁寧に洗っている。
きめが詰まると戦いに支障が出るからだ。
「寝ている間に何かされるよかマシだろ」
「えぇ……」
――一応断っておくと、雨汰乃さんは一切合切を了承の上で彼らに体を預けている。ボクらもまた同じく、だ。だからこれは合法、同意の上、の関係だ。かなりギリギリ、崖っぷち、瀬戸際で。
「寝ている間に何かされたんですか、雨汰乃さん」と頭を洗いながら訊ねると、「焼きを入れられそうになった」と答えた。
「は? ……焼き?」
「刺青を入れようとしたらしい。最初のころ俺はよくトんじまってな。その時に、針の先端を燃やして入れようとしやがった。たまったもんじゃねえだろう? だから希望通りに入れてやった」
これだ、と示したのは下腹部――へその下のあたりだった。限りなく急所に近い位置にハートを模した刺青が入っていた。ハートから派生した刺青が腰を一周する形で続いている。服の隙間から見えていたのは、この刺青の一部だったようだ。
「なにそれ」
「知らん。呉綯曰く可愛いシルシらしいぞ、唄爾も随分喜んでいたな」
「ふうん、悪趣味っぽい」
「間違いなく悪趣味だろ。あいつらの趣味は全く理解できん」
「なのに服を任せているの?」
「そうだ」
「なんで」
「俺のセンスの方が壊滅的だからだ」
「……あのふたりより?」
「あのふたりより」
「……えぇ……」
〝そんなことある?〟という顔の翠君。
翠君、知らないと思うのだけれど。
雨汰乃さんは一緒に住んでいた頃、近所の野良猫に餌をあげて可愛がっていた。
ちょうど餌を与えているところに出くわしたことがあったのだけれど、そのとき呼んでいた名前が――
――どうだ、美味いか?
――チョモランマンベンチ太郎
つまり、そういうこと。
◇
三人でお風呂に入るのは、本当に久しぶりだった。昔は体がくっつくぐらい狭い浴槽だったから、手足を伸ばせるのは新鮮である。
翠君はお湯を蹴り上げて浴槽の端から端を泳いでいる。多分皇彌さんといるとできないから、存分に羽目を外しているのだろう。見守ることにした。
雨汰乃さんは浴槽のへりに両腕を置いて、天井を見上げたまま口を開いた。
「どうだ、楽しめたか」
「ええ、それなりに。……でも、慣れませんね」
いつだって不穏が傍にあったから、なにもないということが逆に疑心暗鬼を生じさせた。
ボクの発言に雨汰乃さんは「当然だ」と言った。
「籠のなかにいる鳥は籠の中の世界がすべてだからな。俺にもお前にも世界ってのは血と臓物の匂いに満ち溢れた不穏なものでしかなかった。だから、血も流れねえ、売人がヤクを捌いてもねえここは理想郷であり異郷だ。俺も驚いたよ、雅知佳の力量を少しばかり見誤っていた」
雨汰乃さんは顎を引いた。右側だけ髪の毛を伸ばしているから、右隣にいるボクには雨汰乃さんの表情は読み取れない。
「……このまま……、このまま放っておいた方がいいと、思っちまった」
弱々しい声だった。
雨汰乃さんの言葉を待つ。
「誰もが幸せでいられる世界なら、それでいいじゃねえかって。俺の犠牲ぐらいでどうにかなるんだったら、それで全部……」
「――ダメだよ」
遮ったのは泳いでいた翠君だった。首だけお湯から出した状態で近づいてくるので、生首が水面を滑っているみたいだった。
「雅知佳さんの幸せは雅知佳さんの幸せだし、僕たちの幸せは僕たちの幸せだよ。どっちかを犠牲とかしたくないし、雅知佳さんの幸せのために、僕の幸せを諦めたくなんかない」
「……翠玉」
「雨汰乃さんの幸せだって、諦めてほしくない。雨汰乃さんにだって幸せになる権利はある」
力強い言葉に、ボクは頷いた。
「雨汰乃さん、ボクも同じです。ボクは雨汰乃さんにも幸せになってほしいし、ボクもボクの幸せを捨てたくないです。――それにきっと、維央さんだってそんなの望んでないですよ」
維央さんは自分のことを思い出にしてほしいと言った。
忘れてほしいのではなくて、自分のために生きてほしいという意味なんだと思う。
雅知佳さんは維央さんの夢を叶えようとしているから。
「……そう、か。……そうだな」
雨汰乃さんは力なく笑った。
「……戦わねえ、とな」
誰もが自分が正しいと信じているように。
誰もが幸せになりたいと願っているから。
――だから、戦わなくちゃいけない時がある。
「大丈夫です、ボクらがいますよ」
「僕も強いし、皇彌さんも強いし。負けないよ、きっと」
「……ああ」
雨汰乃さんはボクらを見て破顔した。
それはとてもきれいで、透明で、簡単に壊れてしまうガラスみたいな笑みだった。
――この時、ボクはすっかり忘れていた。
翠君が言っていた、あの言葉を。
〝良くないことが起こる気がする〟
〝『紫乃盾』の気配がする〟
――人生は希望と絶望の繰り返しだ。
そして、失うものと得るものが同じくらいの大きさとは限らない。
だいたいの場合、失うものの方が大きいことがままあるのがこの世界。
不条理の世界の、鉄則である。




