Ep.75「同志」
人道倫理を無視した描写が含まれます。
「ね、お願いだよ祢憂」
「……なんで、オレなんだ」
「キミなら大丈夫って思うから?」
「……意味がわからねえ。……オレは人間が嫌いだ、他のやつにしろ」
「だめでーす。決定事項なので覆りませんー」
「……」
「……あの子はこの世界にとって希望になるよ。だから、祢憂に見守っていてほしいの」
「……」
「それに、祢憂もきっと気に入ると思うよ?」
「……なんで、そう思う」
「だってあの子はボクの子どもだからね!」
◇
――誰かの夢を見た。
あれは、誰だったのだろう。首を捻るとおなかのうえにいたはずのネウがボクの顔の真横で体を丸めて眠っていた。
うすぼんやりとした記憶に、やさしさだけが余韻を残している。
もやもやはしたけれど、この霧を晴らすにはまだ早いような気がした。
変な気分だ、こういう時は。
「――お風呂に限る」
未だ眠りにつくふたりと一匹を部屋に置き去りにして、大浴場に来た。
朝早い時間だから誰もいない、と思ったのだが。
「あ」
「……おや」
がらんどうに思えた大浴場には、ひとりだけいた。
皇彌さんだった。
「おはようございます、お早いんですね」
「いえ、ちょっと目が覚めちゃって。皇彌さんも早いですね」
「私は早起きが習慣づいておりますので。普段は走りに出ているのですが、外に出る気もなれませんでしたので朝風呂です」
「なるほど」
そういえば、翠君が皇彌さんの仕事は朝早いと言っていたっけな。
皇彌さんは体を洗っている最中だった。目が合ってしまったから、わざわざ別のところに座るのも気が引けて、ぎこちなく隣に座った。
皇彌さんとふたりきりで話すのはこれが初めてだったりする。翠君がいつも傍にいるから。
ボクもボディソープを持参したタオルに垂らして泡立てた。傷はもう古いものばかりだが、あまり強く擦ると火傷や擦過傷なんかが痛むので慎重に洗う。すると皇彌さんが「随分手酷くやられていますね」と声をかけてきた。
「あ、すみません。お見苦し……」
謝ろうとして皇彌さんを見て、ボクは目を見張った。
皇彌さんの体は傷だらけだった。ボクと違って擦過傷が多いけれど、それより目が引くのは引き締まった体の、脇腹についた深い火傷だった。皮膚を抉るような傷跡は明らかに人為的なものだった。
皇彌さんがボクの視線を辿り、傷跡をなぞった。
「……? ああ、これですか。古傷ですよ。焼き鏝で名前を刻まれて業腹でしたので、更に焼き鏝で上書きしたんです」
「や、焼き鏝で……!?」
「ええ。最悪な家族でしたよ、落ちこぼれを徹底して凌辱するおぞましい一家でした。『殺しの名門』が堕ちたものです」
皇彌さんは自嘲する。思いもよらない告白に、ボクの脳内は言われたことを理解するので精一杯だった。
見れば、髪の毛を洗おうとシャンプーを泡立てる両手もひどく焼け爛れていた。
――ああ、このひとも。
「……皇彌さんも生き残ったんですね」
ふとこぼれ落ちた言葉に、皇彌さんが面食らっているのを肌で感じた。ボクは慌てて「すみませんっ」と謝ったが彼はやわらかに笑って「いいえ」と首を振った。
泡立てたシャンプーを艶のある黒髪に移して、皇彌さんは洗髪を始めた。それきり口を閉じたので、ボクもならって体を洗った。
浴槽に浸かると、頭のもやもやが溶けて消えていくようだった。
「――瑪瑙堂家で私は奴隷のような扱いを受けていました」
不意に皇彌さんが口を開いた。
ボクは彼のほうを見る。整った横顔が愁いを帯びていた。
「生まれてしばらくしてから、私の視力が悪いことが判明し、そして……他兄弟よりも劣っていることがわかると両親の対応は一変しました。私の存在を無視するようになったのです」
ほぼ無意識で、ボクは奥歯を噛み締めていた。
怒りに似た感情だった。遣る瀬無さを感じた。
皇彌さんは淡々と、自分自身について語り出した。
◆
両親は無視しましたが、兄弟たちは違いました。
十五歳になった日のことです。彼らは私を地下牢に呼び出して、そして言いました。
「お前はこれから俺たちのものだ」、と。
暴力は日常茶飯事でしたし、性的な行為も強制されました。理不尽なことがあれば決まって捌け口にされました。
双子の兄、羅修と炉雲は交互に私を犯し、姉の以呂玻は男としての尊厳を徹底して蹂躙し、一番上の兄である彌勒は私を支配するために暴力を振るいました。
――私に焼き鏝で名を刻んだのは彌勒です。彼は私に愛を囁きながら、殴るのが好きな男でした。
傷を負っても当然、治療などされません。傷が膿んで感染症に苦しむ様を、皆笑って眺めておりました。
火傷を負った日などひどかった。塩を塗り込むんですよ、激痛で身悶えする姿は大層お気に入りだったようですね。痛みで失禁したりもしましたので、無様なのが随分お気に召したようです。
ああ、申し訳ない。お耳汚し、失礼いたしました。
要するに私は玩具にされておりまして、家にいて人間らしい扱いなど受けた記憶はありません。
死なないよう食べ物は与えられましたが、多くは残飯か――酷い時には虫の死骸なんかを食べさせられました。まあ、目を瞑って飲み込んでしまえば一応食せます。おすすめは致しません、不衛生ですから。
最初のころは無論抵抗を試みましたが、そんな日々が続ければ抵抗が無意味だとわかってくる……だから抵抗はやめました。されることをされるがまま、受け入れました。――ただ、殺意だけを胸に抱き、私は日々生き延びました。
正気を失わずに済んだのはひとえに私が『殺し屋』だったからでしょう。最後には殺せる、と心のどこかで考えていました。それが支えになっていたのだと思います。
――私が異常だったのかもわかりませんね。おそらく常人であれば一週間もすれば自ら殺してくれ、と懇願する行いでしょう。
どれくらい経っていたか……おそらく、五年ほど……、過ぎたくらいでしょうか。私は彼らに報復する決意をして、隙を見て逃げました。逃げた先がシジだったのです――これはまったくの偶然で、今思えば運命だった。そこで監禁されている翠玉に出会いました。
〝糸〟にかかったんです。あの子が暇を持て余して伸ばした〝糸〟にたまたま私が引っかかったようでして。誘われるように座敷牢にたどり着いて、私は目を見張った。
あんなに美しいものを、私は今まで見たことがありませんでした。
私の世界に一気に色がついたような衝撃でした。
交流を重ねていくうち、私はあの子の虜になりました。けれどその想いは口にしませんでした。
――自信が、なかったのです。
今までいいように弄ばれて、それに我慢するだけの毎日を送っていた私に、この子の輝きを受け入れる器があるだろうか、と。
私はあの子に相応しい自分になるために、強くなることを決めました。私を徹底して殺そうした家族に報復してやろうと考えたのです。
そうして、自分の過去を清算して、なんのしがらみもなくあの子を――あの子の唯一無二の輝きを手に入れたいと思いました。
私は翠玉から教えられた鍛練場所で、鍛練を重ね、そして瑪瑙堂家に戻りました。私がされたことをそっくりそのまま全員に返しました。
私が長い間受け続けた苦痛すべてを。
羅修と炉雲は三日で音を上げました、以呂玻は一週間……。ただ彌勒だけは……、最後まで私におぞましい愛の言葉を吐き続けました。
それから、屋敷ごと灰にしました。家の焼け落ちる様を見て、生まれて初めて私は腹を抱えて笑いました。笑いながら……、十数年流したことのなかった涙を、流しました。
あれ以来、泣いたことはありません。あの日にすっかり枯れたのだと思います。
そうして晴れやかな気持ちで私はあの子を迎えに行った。
……だが遅かった。――あの子はもう……、いませんでした。
ザイカに売られてしまったのです。船上で、お聞きになったでしょう? 纐纈緑青――あの子を独占したいがために、一族から引き離す――ただそれだけの理由で紫乃盾晴矢に翠玉を売ったのです。
――私は、絶望しました。責め苦を受けていた毎日よりも、あの子を迎えられなかったことの方が私には堪えました。枯れた涙が頬を伝うこともなく、ただ私は明日から己の生きる意味を考えました。
空っぽになった牢獄の前で項垂れているところで翡翠さんにお会いしたのです。あの方は私があの子と交流を持っていたことを存じておりました。あの子がいつも楽しそうだから、私がいることを隠してくださっていたようです。
翡翠さんにお会いできていなければ、私はその場で命を絶っていたかもしれませんね。
――冗談です、でもそれくらいの心持でした。
なにせ、虜であったから。黄金に輝く翠玉の。
そうして、翡翠さんから「あの子をどうか迎えに行ってほしい」と言われ、私は急ぎザイカへ戻りました。
ザイカに戻ると、久遠寺雅知佳が変革を起こしている真っ最中で……、私は『活動員』としてスカウトされました。
それからのことは、ご存知かと思います――
◆
壮絶すぎてボクは言葉を失った。
皇彌さんは生き残ったのではなく、生き延びたのだ。
そして、地獄の日々で翠君に出会って。
――皇彌さんにとって翠君は、命そのもの。
言葉ひとつで表現できる関係性じゃない。
だからこそ。
「……翠君、言っていました」
「?」
「皇彌さんは自分にとって〝明けない夜〟なんだって。月も星もない真っ暗で、静かな夜。……その夜に炎が灯るのを見るのが、好きだって」
「……翠玉が」
「はい。そのことを話している翠君、すごくきれいで……。本当に皇彌さんのことが好きなんだって伝わる顔をしていました」
静かになった。
見ると、皇彌さんが目頭をつまんでいる。
「……ふー……」
「え……っと。皇彌さん?」
「……いえ。私といる時はいつも生意気なことばかり言うものですから。本当に口が悪いんですよ、あの子は」
やれやれ、と首を振る皇彌さん。
翠君、他人のこと、すぐ『雑魚』って言うからなあ……。
あれはちょっと直しておかないといけないよなあ。
でも、
「――素直ですよね、すごく。好きって気持ち、全然偽らないで伝えるから」
翠君は遠回しとか、煙に巻いたりだとかせず、真っ直ぐに自分の気持ちは伝える子だ。
好きも嫌いも、全部ありのまま話す。だから、もちろん相容れないひともいる。けれど翠君は「あっそ」みたいな感じで全然気にしない。
「ええ。素直ですよ、あの子は。再会した時いの一番に何を言われたと思います?」
「え? ……えぇっと、なんだろう……あんまり予想ができないんですけれど、……寂しかった、とかですか?」
皇彌さんは首を横に振った。
「――〝敬語、気持ち悪。なにそれ〟です。とんでもないでしょう、再会してすぐですよ」
「……あぁ……」
――最初は僕にも敬語使っていたんだけど、僕がいやだからやめてって言ったんだ
あれは、かなりやわらかく言い直していたのか。
しかも再会してすぐ。彼らしいといえば彼らしいかもしれない。
「そして次に何を言うのかと思えば……」
――皇彌さん、お待たせ。ずっと我慢させててごめんね。
――? どういう、意味だ?
――えぇ? わかるじゃん、そんなの。……すけべしよーよって、ね? 皇彌さん
皇彌さんがものすごく険しい顔で、その時のことを話してくれた。
翠君……。
「厄介な生き物ですよ、あれは。生意気なことを言ったと思えば、素直に甘えてきたり、煽ったり……全く、予測不能です。――振り回されてばかりですよ」
「……ふふふ、でも楽しそうですね皇彌さん」
「そうですね、楽しいですよ。全くもって呆れるくらいに」
皇彌さんはすっきりとした顔で笑っていた。
「あの子といると毎日違うように見えてくるんです。色彩豊かで眩しいくらいで」
皇彌さんにとっての万華鏡、それが翠君なんだろうな。
「……あの」
「はい」
「……どうして、ボクに過去のお話を?」
「え? ああ……そう、ですね。なんというか――」
皇彌さんが立ち上がった。つられてボクも立ち上がる。
熱を帯びた体がほんのりと冷えるのが心地よかった。
皇彌さんの肉体は、見た目からじゃわからないほど、立派な筋肉に覆われている。着痩せするタイプなんだなあ、とぼんやりと思った。
――そして、ボクと同じくらいの量の傷跡があった。彼が戦って生き延びた証である。同情の目を向けるのは、失礼だ。
「あなたとは近しいものを感じていたんです。勝手なものですがね……、だからなんとなく話してみようという気になりまして」
近しいもの、か。
傷だらけになって、諦めて生き残ったボクと。
傷だらけになっても、諦めずに生き延びた皇彌さん。
似たようで、全然違うと思う。いや、全く異なる境遇だ。
皇彌さんの言葉をわざわざ否定するのは不躾なので、黙っていた。
「……ありがとうございます」
あ、でもどうしよう。ボクが先に聞いたとかそういうややこしい事態になっていたら。
すると、皇彌さんが「ご安心ください」と笑った。
「翠玉にはもう伝えてありますので」
「えっ」
「遊兎都君、わかりやすいと言われませんか? 顔に全部、出ておりますよ」
皇彌さんが頬を指さす。ボクは思わず自分の両方の頬を手で抑えた。
「えっ、あ……本当ですか?」
「本当です。素直でいいとは思いますが」
「……気を付けます」
そうか、そんなにか。
誰かにも言われなかったっけ、ボク……。
「――あの子の場合はかなり複雑な心境だったようで」
皇彌さんの声にボクは俯きかけた顔を上げた。
「複雑な……心境?」
「〝生まれたことを後悔するくらいずたずたに拷問してやりたいけれど、そういう扱いを受けていたからこそ、シジに来たし自分と出会うことになったので、どうしていいのかわからない〟――というようなことを言っていましたね」
「ああ……」
なんとなく反応の想像がついた。
――それにしても拷問、か。シジに到着してお風呂に入っていた時もそんなような言葉を口にしていたけれど。
「皇彌さん」
「はい」
「翠君って、〝拷問〟って単語をよく取り入れると思うんですけれど、どうしてなんでしょう」
「え」
〝当然知っていると思っていた〟みたいな顔をされた。それから皇彌さんは思案気にして顎に手を置いた。
「……ああ、なるほど。自分の印象が悪くなるようなことは徹底して言っていないのか……」
「え? ええっと?」
「本来であれば翠玉本人から話すべきことでしょうが……仕方がありません。あの子はきっと話さないだろうから」
「……ボク、聞かないほうがいいですかね」
「いえ。いずれバレることです。――纐纈を含む『絡新婦の血族』には〝生業〟というものがありましてね」
皇彌さんから話された内容はやや衝撃的だったけれど、翠君の印象を特別悪くするようなことじゃなかった。だから、「ああ、そうなんですね」と相槌を打ったら「あれは見栄っ張りなんです」と皇彌さんが溜息をついた。




