Ep.74「面影」
「――そうか、峰理が」
宿に戻って、ボクらは雨汰乃さんの部屋に向かった。
雨汰乃さんは、『食後』だった。刺青の上からでも噛み痕がわかった。
部屋の作りはボクのところと同じのようだ。絨毯が敷かれている区画のソファにボクらは並んで腰かけた。向かいのソファに雨汰乃さんが座っている。ストールを緩く体に巻き付けて足を組んで座っている姿ですら、絵画のように美しかった。若干目元に紅が差しているからだろうか。
雨汰乃さんに峰理さんに会ったことを伝え、その時起こったことを話した。
あの後、峰理さんは「一晩、慈玖と話してみます」と言って、帰っていった。
寄り添うふたりの姿を見て、もう心配はいらないと思った。
「帰り際にすごく手厚くお礼を言われちゃって……正直言いすぎじゃないかなってヒヤヒヤしていたので、逆にどうしていいかわかりませんでした」
手を握って何度も何度も峰理さんは頭を下げた。慈玖君も同じようにしたものだから、ボクは唖然としてしまった。
外で待っていた凛彗さんは何も言わずにボクの頭を撫で、翠君は皇彌さんにげんこつを食らっていた。お見通しだったのかもしれない。「ちょっとぐらい手加減してよ……」と翠君はぶうたれていた。
結構強烈な一撃だったらしく、翠君は今もなお後頭部をさすっていた。
「あれくらいがちょうどよかったんじゃない? お互いちゃんと話してなかったみたいだし」
「そう? ならいいのだけれど」
「ていうかゆと君にあそこまで言わせているんだから、どうにかなってもらわないと僕の気が収まらない。雑魚も鬱陶しかったしね」
「……翠君……」
結局、翠君と慈玖君は最後まで打ち解けられなかったようだ。残念。
話を聞いていた雨汰乃さんはちょっと笑いながら、「相変わらずだな、翠玉」と言った。
「なにが?」
「誰に対しても態度が変わらねえところだよ。遊兎都と皇彌にだけは、違ったようだがな」
「……別に。……一緒だけど……」
翠君がすごく小さな声で反論し、そして露骨に視線を逸らした。翠君も翠君でとても素直である。
皇彌さんと並べられるとなんだか申し訳ない気がするけれど、皇彌さんもボクは別枠だったって言っていたから、卑下しすぎも逆に失礼かな。
でも、正直うれしいような、そこまでじゃなくてもいいような、複雑な気持ちだった。「峰理も……結構頑固者でな」と雨汰乃さんが懐かしむように口を開いた。「まったく……俺の周りは頑固者だらけじゃねえか、どうしようもねえ」と頭を掻いた。呆れているけれど、表情はやわらかだった。
「弁明する機会を与えると言っても聞かなかった。なら、せめて死なねえように念のため釘を刺したんだ……今にも死にそうだったからな」
当時の事を思い出すように、苦々しく雨汰乃さんは言う。
ああ、やっぱり。
「――本当に死んでほしくなくって言ったんですね」
雨汰乃さんはボクの言葉にちょっとびっくりしていた。
真っ白な目を見張り、それから力を抜いて、ついでみたいに笑った。
「そりゃあそうだ、俺がそんな皮肉言えるかよ」
峰理さんは雨汰乃さんの『死ぬな』を曲解していたようだけれど、雨汰乃さんは建前ってものがない。いつだって真剣で、いつだって本気だ。だからこそ冗談の類ですら本気にしてしまうのだけれど。
「だが、聞いた限り大丈夫そうだな。――遊兎都、世話になった」
雨汰乃さんが頭を下げたのでびっくりした。「い、いえいいんですよ!」と割と大きめの声を出してしまったので、慌てて口を手で塞ぐ。すると、雨汰乃さんがおかしそうに笑った。
「くくく……なんだ、あいつらが起きると思っているのか? 安心しろ、そう簡単には起きねえよ」
「え、あ、そうなんですか……」
ボクは押さえていた手を外した。
眠りの深いひとたちなのか……あんまり、そういう記憶はないけれど。もしかしたらボクが気絶した後とかに寝ているのかもしれない。
「それにしても」と翠君が出されたココアを口につけながら口を挟む。
「全然戦ってないのに、するんだね。僕はてっきり運動しない限りおなか減らないのかと」
翠君の問いかけに、雨汰乃さんは足を組み直しながら「翠玉、お前だって動かなくても腹は減るだろ」と答える。「あー……うん。そうだね、毎日美味しいごはん食べさせてもらっているね」と翠君。
「――そういうことだ、しねえ日はねえよ」
「雨汰乃さん、大変だ」
「大変と言えば大変だが……もう慣れたさ」
ボクは横を見る。視線の先、襖に隔たれた向こう側に兄弟が眠っている。ふたりは性行為と食事が同義なので、通常ひとが食事を済ませるように性行為をする。そしておなかがいっぱいになると、寝てしまうのだ。本能に忠実な生き方だとしみじみ思うけれど、ふだん獣のようだし、あながち間違いでもないのかもしれない。
「でも……なんていうか、『食生活』が一般的じゃなくてよかったですね。日に三回もあれだと……」
「? 三回するときもあるぞ?」
「えっ、あれを三回ですかっ?」
兄弟の、すったもんだはほとんど拷問に近い。気絶しても叩き起こされるし、唄爾さんの噛み癖もある。加えて彼はあちらが随分ご立派でいらっしゃるため、普通に苦しい。腹が裂けるかと思う。当初、絶対に尻が裂けたと思ったし腹が破れたと感じた。しかしながら、痛みに泣き叫ぶ羽目にならなかったのは呉綯さんがそれすら快感にするよう、体液由来の薬を絶えず投与していたからである。ちなみに呉綯さんもなので、さもありなん。
まあ、はっきり言って、――地獄なのだ。
一晩だけでも地獄のような快楽漬けなのに、それを三回も……。
翠君も唖然としているし、冷や汗を垂らしている。同じ気持ちだ。
「……怖すぎ」
「う、雨汰乃さん、死なないですかそれ……」
「ごらんの通り生きてはいるから、死なない程度に加減は……しているんだろうな。おそらく」
「加減とかできるんだ、あのひとたち。僕たち加減された覚え全然ないけれど」
「一応、な。餌に死なれて困るのはあいつらだろう。――そういう頭の使い方はできるらしい」
「……なるほど」
彼らを生物兵器として使用する際に発生した問題が、食事だった。得た栄養をもとに身体能力を増強するのは、一般的な人間と同じ。ただし、その消費量がとんでもない。万が一戦場で食糧難に陥り、彼らだけが生き残っても意味がない。兄弟はあくまで『兵器』であって、『兵士』ではないからだ。
だから、その問題解決のため、彼らを『改造』した。
――食事と性行為を結び付け、他人を犯すことにより、食事と同程度の栄養を補充できるようにしたのである。
なんとも胸糞の悪い話だし、どうしたらそんなことを思いつくのか全くもって理解できない。吐き気がする。
そんなわけで、彼らは本当の意味での『食事』をしないし、排泄もしない。
最初に聞いた時は非現実的すぎて、説明が全然頭に入ってこなかったけれど。
「――まあ、でも退屈はしねえさ」
雨汰乃さんは兄弟の扱いに手を焼いていたけれど、でも一度だって放り出そうとしたことはなかった。真面目だからってのもあるだろうけれど、たぶんそれ以上に責任感が強いからだろう。
ちゃんと人として育てようという気持ちが伝わってくるから。
「好き勝手やりやがるどうしようもないやつらだが……長く一緒にいると情が移るものだな、多少可愛くも思えてくる」
襖を見つめる雨汰乃さんの目には言葉通り、愛おしさが滲んでいる。
男性に対して不適当な表現だと思うけれど――母性を感じさせる視線だった。
「可愛い? あのひとたちが……?」
翠君が得体の知れないものを見るような目で言うものだから、雨汰乃さんが噴き出した。
「くくくっ……まあ、わからんな。――毒されているのかもしれねえ」
新雪のような目に滲む、やさしさと悲哀と懐かしさ。
それをじっと見ていると不意に目が合った。心臓が跳ねる。
「そういえば、遊兎都」
「は、はいっ」
「俺に訊きたいことがある……とか言っていなかったか?」
「え? あ……」
〝母親のことを、何か知っているのなら教えてほしい〟。
口ごもったボクに気遣って翠君が「僕がいないほうがいいならそうするけど」と言ってくれた。ボクは首を振って大丈夫だよと返した。
別に聞かれて困る話をするわけじゃない。ただ、今、この状況でする話かちょっとわからなかった。
記憶の薄い母のこと。ボクがこうして存在するので、当然いるはずだけれどボクの記憶の大半は父とのものが多かった。
「……今ここじゃ、言えねえことか?」
まずい、黙っているとふたりに余計な気を遣わせてしまう。
慌てて「違うんです、その……家族のことで」とお茶を濁しながら口にした。
「家族のこと? それってゆと君のお父さんだのお母さんだのってこと?」
「……うん。……ボク、父さんの記憶はうすぼんやりとあるんだけれど……。母さんとの記憶が、……全然思い出せなくって」
「……」
「……雨汰乃さん、最期に父さんに会いましたよね? だから、母さんのことを何か話しているんじゃないか、って……」
当時の雨汰乃さんはかなり特殊な立場だった。
雅知佳さんに協力する身でありながら、ボクらを逃がす裏工作をしていたのだ。ゆえに雅知佳さんの計画はなかなか進まなかった。だから、彼女はボクの父を利用しようとした。
父の死を契機にボクが雅知佳さんの理想に賛同すると踏んでいたらしいが、雨汰乃さんが途中で裏切ったことで計画は頓挫した。そして、ボクらはザイカを出た。
雨汰乃さんは暫くの間口を噤んで、それから神妙な面持ちでかぶりを振った。
「……すまん。……俺はなにも聞いていない」
「そ……うですか」
「……ただ」
「はい……?」
「お前の父は――璃雨都は、お前のことを『母親のように他人のために泣けるやさしい子』だ、と言っていた」
「……」
「名前も言っていたぞ、確か……」
雨汰乃さんが腕を組んで記憶を探るように、目を瞑る。それから開いて、「そうだ」と言った。
「――サナ、だ。字はわからん、だが確かに璃雨都はそう言っていた」
サナ。
顔も思い出せないボクの母親。
どんなひとだったのだろう。そしてどうして彼女は父と一緒になったのだろうか。
ザイカでは『暴君』と呼ばれ、なによりも戦いを好んだボクの父。
笑顔を浮かべながら、楽しそうにひとを殺せる、戦闘狂いだったという。
そんな彼を愛し、ボクを産んで慈しんだひと。
名前だけが指標のように、心の奥に沈んでいった。




