Ep.73「贖罪」
――私は遺伝子上の問題で肌や体毛が白くなる『純白種』という体質です。日光に弱いので、あまり昼間に活動はできません。宮雲所長はそんな私の体質を珍しがり、『裏研究』に回しました。
私に拒否権はありません。私に逆らう権利も力もなにも、なかったから。
博士の隣で助手をさせていただいていましたが、それだけです。一介の科学者である私にとって所長の言葉は絶対です。所長の機嫌を損ねれば終わりです。ガクカを出るしかありません。ガクカ以外での生き方など知らなかった私にとって、それは死ぬことと同じでした。
だから、怖くて従いました。
『裏研究所』に行く際に所長に耳打ちされました。
「もしお前がまた科学者に戻りたいと思うのなら、俺の言うことに従え」と。
普通の方だったら、罠だと看破されたのでしょう。でも、私には……、できなかった。
――私は……、私という男は、心惹かれてしまいました。科学者で、いたかったんです。
愚かだとお思いでしょう? 私もそう思います。
でも私にはそれしかなかった。その頃の私を支える矜持は『科学者であること』だったのです。それを奪われて、私は絶望のどん底にいた。所長の提案は、一縷の望みだったのです……。
だから、私は所長の言う通りにしました。
所長は気づいていたのです。博士の思惑に。『裏研究』を取り潰そうとしている彼女の考えを、わかっていながら博士の自由にさせていたのです。
すぐに追求しない理由を訊ねました。彼は……、所長はとても――、とても厭な顔をして言いました。
――「そっちの方が面白いだろう?」
おぞましい、と思いました。恐ろしいと感じました。でも、逆らえませんでした。
私はわかりました、と答え『裏研究所』に行きました。
その後すぐ。博士が『裏研究』のすべてを牛耳ることで、一時的に被験者たちを救済しました。
私はその動きを事細かに報告するよう所長に言われました。
やさしい博士を裏切っている罪悪感もありましたし、科学者に戻れるのだという高揚感もありました。極限状態だったのでしょう、情緒はあまり安定していたとは思えません。
思い返せば、精神が少し――おかしくなっていたと思います。
私は所長の言う通りにしましたが、最後に必ず〝あなたの損失になるようなことはありません〟と伝えました。
所長は私の愚鈍な足掻きを笑い飛ばしました。当然です、保身のために博士のことを裏切っているのに、そんなことを言うのですよ? 私だって笑ってしまいます。
そうして報告を辞める決断もできず、ずるずると裏切り続けていたある日、所長がやってきました。
被験者か自身かを選べと問われた博士は、迷わず自分の身を差し出しました。
私が代わりにその時に身を差し出せばよかったのです。でも、できなかった……!
最後の……、最後、まで……。私は、……ッ、自分の身が可愛かったのです……!
……。………。……ッ。……。
……すみ、ません……。……はぁ……。
所長は全員の前で、私に言いました。「お勤めご苦労、峰理君」と。
……もとより、私を科学者に戻す気などなかったのです。
私は被験者全員に恨まれました。当たり前のことです、私は殺される覚悟をしました。
でも、雨汰乃さんが、……あのひとは助けてくれました。雨汰乃さんだけが、私のことを信じてくれました。私にそんな価値などないというのに……。
あのひとは食事を届けてくれたり、体調を気遣ってくれたり、皆から白い目で見られてもずっと私を気にかけてくれました。どうしてそんなことをするのか、放っておいてくれと言ったこともあります。でも雨汰乃さんは「俺が好きでやっていることだから気にするな」と言って変わらなかった。
私は部屋でひとり、博士に謝り続けました。枯れるまで泣きました。己の愚かさを心から恥じました。死にたいと何度も思いました。しかし死のうとするたび、雨汰乃さんがやってきて「死ぬな」とだけ言って去るのです。
あれはきっと死んで楽になろうとするな、という意味だったのでしょう……。私は罪を背負い、贖罪のため苦悩の道を生きるしか、方法が残されていなかったのです。
私は、償いのために生きることを……愚かにも生きようと。そう、思いました。
そしてある日、博士が戻ってきたと知らせを受けました。ああ、よかったと安堵しましたが……。
あんなの、ひどすぎます……いくら、いくら自分の研究の邪魔をされたからといって……、ご自分の奥様ですよ……!?
――ああ、でも、私に嘆く権利もありませんね……そうなったのは、私のせいなのだから……。
だから、博士の暴走を目にしたとき、これもまた己の罪だと思いました。博士に殺されるのなら本望だと思いましたが、私は生き延びました。
雨汰乃さんのおかげなのです。いえ、これもまた贖罪せよ、という意味なのでしょうが……。
雨汰乃さんが私に「博士が子どもを捜している、心当たりはないか」と訊ねました。私は最後こそ役に立とうと双子の――あの方のお子様は双子の男の子なのですが――いるであろう部屋の場所を教えました。
ふたりはそこにいました。ガラス張りの真っ白な部屋に、無垢なまま――残酷なほど、無邪気なままそこにいました。
どうしたの、先生って訊くんです。だから私は答えました。
お母さんが大変なことになっているから、助けてくれるかいって。
弟のほうがにっこり笑って「わかった、やってみる」と言い、兄のほうは無表情のまま「わかった」と言いました。
そしてふたりは……あの子たちは……。
母親を――博士を、殺しました。
毒で目を潰し悶える彼女の首に噛みつき、そして骨のひとつも残さず、食いました。
所長の改造が進んでいたのです。兵器として利用するための……おぞましい改造が。
ふたりは「もう大丈夫だよ」と言いました。その時、私は雅知佳さんの顔を見ることはできませんでした。見るのも恐ろしかった……。
私も、雅知佳さんが博士をどのように思っていたか知っていたから。
――その後のことは、以前にお話しした通りです。見世物にされようが愛人にされようが私は構いませんでした。だって、私の人生は贖罪だから。罪を償うための人生なら……、どんな憂き目も決して、憂き目ではないのです。寧ろうれしかったんです。ああ、ちゃんと罰せられていると実感できて。
……。………。
……幻滅、されましたでしょうか。
私はこんなにおぞましく、愚かで、浅ましい、男なのです。
◆
峰理さんは時折嗚咽をもらしながら、そう締めくくった。
慈玖君が唖然としている。翠君は興味なさそうに背もたれに沈み込んでいた。
ボクはじっと、項垂れて肩を揺らす峰理さんを見つめていた。
「――峰理さん」
吐き出した声が、思ったよりも覚めていてボク自身も驚いた。峰理さんが恐る恐るといった風にボクを見る。迷子のような表情をしていた。どうしようもなく、狼狽えている。
ボクは一度唇を引き締め、再び開いた。
「あなたのしたことが間違いだったかどうか、ボクにもわかりません。でも、峰理さんの人生に必要なことだったなら、きっと間違いではなかったんだと思います。維央さんが言っていたように」
――でも、峰理の人生だもん、峰理がしたいようにするのが正解なの。
――だから、何も間違っていない。
頭の中で、維央さんの陽だまりみたいな声が蘇る。
あのひとは一度も峰理さんを〝裏切者〟なんて言わなかった。だって、思っていないから。
峰理さんの行動が彼にとって正しいと受け入れていたから。
「ボクは本当の悪人って、後悔もしないと思います。全部忘れて、我が物顔でのうのうと生きていると思います。でも、あなたは違いました。あの日起こったことのすべてを、覚えていた。雨汰乃さんから聞いた話とあなたから聞いた話に、大きな違いはなかった。――だから、あなたは悪人ではないと思います」
話を聞いてわかったことがある。峰理さんは臆病だ、ってこと。
でも、だからどうだっていうのだ。臆病だっていいじゃないか。
世界にはいろんなひとがいて、いいのだから。
「峰理さんが自分のせいだって思うのは自由です。過去は消せないし、振り返ったって変えられない。でもだからって――そういう過去が、あなたにあったってボクはあなたが酷い人間だなんて思いません。あなたがやさしいってことは、覆りません。ボクの手足に巻かれる包帯を見て、『包帯は足りていますか』って自然に聞いてくれたあなたのことをボクは、心の底からやさしいひとだって思います」
初めて『掃除屋』を頼った時のこと。
あの時、峰理さんはなんでもない風に訊いたのである。
「その色の包帯、このあたりじゃなかなか見ませんよね。足りていらっしゃいますか?」
ボクが曖昧に答えると、峰理さんは微笑んで「もし、不足しているようでしたら融通しますよ」と言ってくれたのだ。同情するようでも、商売をするようでもない、ただただ親切心からこぼれた言葉であると、心のないボクでも感じた。
「……遊兎都君……」
峰理さんの赤い目には、まだ涙の膜が張っている。
自責の念は、自分でしか取り払えない。彼がこの先ずっと彼自身を許さないのなら、もはや他人であるボクにはどうすることもできない。だから、伝えるだけだ。
〝あなたを信じています〟、と。
――暫く、沈黙が流れていた。もう外は暗くなりつつある。
そろそろお暇しよう、と腰を上げようとしたところで、「峰理さん……」と掠れた声がした。慈玖君だった。
慈玖君のその、青灰色の目が峰理さんを見つめている。
「オレも……オレも、アンタのこと。……嫌いになったり、しません」
「……慈玖」
「オレはアンタに拾われた。ただ逃げて生きるだけでなんの目的もなかったオレに、生きる意味を与えてくれた。それがアンタだったんだ」
慈玖君が一呼吸置いた。眉間にきつく皺が寄る。
「っだから……、だから……!!」
慈玖君の目から一滴、落ちた。
「――償いなんて、……言わないでくれよ……!」
声が裏返るほど引き攣った叫び。
峰理さんははっとしたように、目を見開いた。
ボクは野暮だと思ったけれど、口を挟んだ。
「峰理さん。――あなたの今までの人生がすべて贖罪なら……慈玖君と日々もそうなんですか?」
「……」
峰理さんは答えなかった。
でも、答えなくてよかった。
「……私、は……」
彼は手を伸ばした。ぼろぼろと泣きじゃくる慈玖君を抱き締めた。
「オレは……アンタと……ッ、一緒にいら、れて……しあわせ、ッ……だった、のに……!!」
慈玖君はしゃくりあげながら言った。
ボクは目を逸らした。翠君はすっかり興味を失っていたが、ボクと目が合うと呆れたように溜息をついた。
――ありがとう
記憶の中で――それはボクの錯覚に過ぎないけれど――、あのひとがあたたかく笑っていた。




