Ep.7「駆け引き」
「ハニーBが何を考えてあなた方に協力しているのかわかりません。ただ彼にはどうやら大きな後ろ盾があるようです。気を付けてください」
真摯な眼差しで、峰理さんは言った。
ハニーBはトウキョウに来てから、ほとんど他人と交流をしたことがないそうだ。であればあのだらしのない恰好に合点がいく。人と会うのを前提にしていなければ、見た目などどうでもよくなるだろう。
「あの峰理ってやつ……珍しいやつだな」
帰宅途中に、ネウがフードから僅かに顔を出して峰理さんの印象を話す。一応周囲には気を遣って小声だった。確かに峰理さんはいいひとだ。
ハニーBから仕事の処理なら、と紹介されて初めて会ったときに、ボクの両手足に巻かれている包帯を見て「融通しましょうか?」なんて提案するくらい。
やさしすぎる気もしたが警戒心と危機感を丸ごとどこかに置き去りにしたボクが、それを指摘するのはなんだか無礼な気もする。
「そうだね、あんないいひと滅多にいないよ」
「……で。お前はあいつの言うことをどう思うんだ?」
「ハニーBのこと?」
「ああ」
「……わからない、かな」
「わからない?」
ホテルが見えてきた。トウキョウではかなり目立つ立派な建物である。フロントを通ると受付のひとたちがほう、とため息をつくのが聞こえた。部屋にカードキーを通して、扉を少し開けてからボクは立ち止まった。
「おい、どうしたよ」
ボクはちょっと考えて、凛彗さんを仰ぎ見る。彼はボクの視線を受けて、なにかを悟ったようだった。
無言でネウを掴み上げると自分のフードに放り投げる。「ぎにゃ」とネウが珍妙な声を発した。前に尻尾を間違って踏んだ時に上げた声だ。
「……ユウ君」
「はい」
凛彗さんの人差し指がボクの包帯に覆われた首を撫でた。くすぐったくて体がびくん、と跳ねる。
「……なんでも、言うこと聞いてね」
恐ろしい台詞を残し、凛彗さんは去っていった。終始ネウが説明を求めて喚いていたが、睨まれでもしたのか急に大人しくなった。
凛彗さんがネウを見逃しているのはひとえに猫だからである。あのひと、猫好きだからな……。
そして、ボクは。
「不法侵入ですよ、ハニーB」
ソファに我が物顔で座っていたハニーBは、声に反応して首だけぐるりとこちらを向いた。ボクがひとりしかいないことに違和感を覚えたのか、眉間にぐ、と皺が寄った。
「邪魔して……って、あれ? お前だけか?」
「ボクだけになりました」
「……?」
「ハニーB、少しお話しませんか」
「なんだよ、改まって」
ボクはハニーBの正面に立った。ソファではなく、座っている彼の真正面に。
ハニーBは目をぱちくりさせて、驚いている。
「なんだよ?」
「先ほど峰理さんに会ってきました」
「ああ、『掃除屋』か」
「それで、あなたは人嫌いだと」
「……」
「金にしか興味がない、とも伺いました」
「……」
「どういう意味なのか、答えてもらえませんか?」
薄々気づいてはいた。
きっと何か思惑があるのだろうと。
でなければ、身元不明で意味不明な組み合わせに積極的に関わろうとは思わないだろう。
そもそもトウキョウに来る人間の多くは脛に傷がある。だから首を突っ込んで藪蛇なんてざらのはずだ。ましてやハニーBは、ボクらが来る以前より無法地帯で仕事をしている。その辺の勘はボクらより働くはずだ。なのに、人助けをしている奇特な連中と知って自ら出張ってきた。
彼がやさしいから、ではおそらく片付けられない理由があるのだろう。
ハニーBは黙っていた。いつもの愛想のいい顔はそこにはなく、ただじっとボクの言葉を聞いていた。
「教えていただけませんか。代償が必要ですか」
「……まあな」
「それじゃあ――ボクの体っていうのはどうです?」
両手を広げて〝さあどうぞ〟という姿勢を見せる。
思いもよらなかったのか、ハニーBは目を丸くさせて驚愕していた。
「……は」
「ボクは元男娼です。お任せください、これでも娼館では一番だったんです」
「……遊兎都」
「どんな〝お遊び〟もお付き合いできます。痛いのも多少は我慢します。どんな卑猥な台詞も――」
「やめろ、遊兎都!!」
突然怒鳴られて、今度はボクが目を丸くする番だった。
眼下にいる彼はひどく怒っていたし、ひどく哀しそうでもあった。
どうして、あなたがそんな反応をするのだろう。
「やめろ、よせ。……やめてくれ、遊兎都」
額に手を当てて、ハニーBは呻いた。
ボクはどうやら、彼を傷つけたようだった。そういえば凛彗さんも、トウキョウでどうやって稼ごうかって話になって、ボクが体で稼ぎますよ、と言ったら同じような顔をしたっけ。
罪悪感が込み上げてきて――ああ、まだそういう心はあったのかなんて思いながら――「……すみません、娼館のころの刷り込みなんです」と言い訳した。
目を逸らすためにボクは彼の隣に腰を下ろす。愁いを帯びた横顔に、ますます自分の行動を後悔した。
ハニーBがぐしゃぐしゃと頭を掻いた。ふうと息を吐くと、意を決したように口を開いた。
「……エデンだよ」
エデン。その名は『楽園』。
白い鳩が玉砕覚悟で飛び立つ場所。
ボクの故郷だった場所。
「ああ、……やっぱり」
「やっぱり?」
「指名手配……みたいなことはされていると思っていますよ」
「指名手配……ま、似たようなもんだな。〝女帝〟久遠寺雅知佳はお前たちを探している」
「ふうん」
「ふうんって……」
正直、予想していた。
追われる理由なんて、それくらいしかないから。
「何をしたか、ってのは知っているよ。調べたし、雅知佳からも言われたしな」
「そうですか」
「裏切者、なんだってな」
「はい」
久遠寺雅知佳。
大陸最大勢力『久遠寺財閥』の代表。
あらゆる街のあらゆる権力者を取り込み、今やその名を知らぬものはいない。
彼女もまたボクと同じザイカの出身だ。
雅知佳さんはザイカで黙認されていた『使用人』制度――有体に言って奴隷制度をひどく嫌っていた。自身にも経験があるからだ。だから力をつけて戻ってきた時、彼女はいの一番に奴隷たちの解放と彼らを虐げていた者たちの粛清を行った。
その過程でボクらは出会った。出会ったが、結局別れてしまった。
意見の不一致、考え方の相違――いろいろあるが、一番の理由はボク自身が思いの外たくさんのひとに好かれていた、ということだろう。
ハニーBもボクも、数刻の間口を閉ざした。先に話し出したのはハニーBだった。振り絞るような声で、若干掠れていた。
「……俺はお前を見て、まさかこんなやつが……って思ったよ」
ハニーBは遠いところを見たまま話し出した。
哀愁が漂っている。おじさんだからだろうか。
「ちっちぇし、白いし。……おまけに傷だらけでさ。目の奥には確かな意思があるのに、底が見えなくて危うくて。気が付いたらどっかいなくなっちまいそうで。……そう思って見ていたら、目が離せなくなっちまってな……」
「そんなにボクってどこかに行きそうですか?」
「今みてえに簡単に自分の体を差し出すだろ、そういうとこだよ」
「……すみません」
大人に叱られた子どもの心地だ。
周囲にはボクを褒めるひとしかいないので、新鮮だった。
「俺はお前の様子を逐一報告するように言われてんだ、悪くねえ額ももらっている」
「なるほど」
「……責めないのか」
ハニーBは首を動かさず、視線だけこちらへ動かした。サングラスの向こう側の目が、迷子みたいな頼りない光を宿している。寂しげだった。
「なにを、ですか」
「俺はお前を騙してんだぞ?」
「でも、実際ボクらの生活は潤っているので……」
「だから許すって? ……人が良すぎんのは困りもんだぜ、遊兎都」
「結果論ですよ。騙されて大損しているなら考えますけど、そうじゃないですし。中抜きされていても残る十分な額はいただいていますし」
「……それもわかってたのかよ……」
ボクがお人好しかどうかはともかくとして、仲介料を支払うのは普通だと思うけど。
「あのひとに与することがどういう意味かって、ボクだってわかっていますよ」
「……あ?」
久遠寺雅知佳は強くて品が良くて、そして少しばかり狂っていたと思う。
ザイカを変えようとして、人間をも改造しようとした。
ボクが知っている久遠寺雅知佳という女性は、自分に協力した人間の裏切り行為を許さないひとだった。だからもし彼がボクたちの監視をやめようとすれば命はない。
「生きるために長いものに巻かれる選択を卑怯だと思わないし、寧ろ賢いと思います。だからあなたの判断を、ボクがどうこう言うつもりありません。もちろん責める気もないです」
ハニーBは黙っている。俯いたままだ。
「だからその……気楽にしてください」
にへら、とボクは笑って見せた。
気を抜いてほしいという気持ちを込めた、渾身の〝気の抜けた笑顔〟である。
伝わるかな。
「……え?」
「だってエデンにも気を遣ってボクらに気を遣っていたら疲れませんか? 息抜きしないとそれこそ早死にしますよ、ハニーB。ボクはあなたにお世話になっているので、体で……はだめっぽいのでまあそういう感じでお礼ができればと思います。ボクなら警戒しなくても大丈夫ですし。なにもできないから」
せめてお世話になっているのだからそれくらいは返したい。信用するしない以前に。
恩人にはなにかしらお返しはしたいと思うものだろう。
ハニーBはぽかんとしていた。
「あれ、ハニーB? どうしました?」
「……」
「おーい、ハニーB? だめでした? そんな気の抜けた話は……」
「……ミツバチ」
「へ? みつばち?」
「蜂蜜の蜜に、波に知る、で蜜波知。俺の名前だよ」
随分な暴露をされたけれど、同時に天地がひっくり返ってしまい気に留めていられなかった。
ボクはどうやらハニーBに押し倒されているらしかった。
「……えっと……」
「いくらだ」
「え?」
「いくら払えばお前を抱ける」
「……えぇーと……?」
ハニーBは真剣だった。
あ、真剣だとちょっとかっこよく見えるな。
「俺の本名を対価に、お前を抱くことはできるか?」
「わ……かりません、想定していなかったので。というよりもうボクは男娼ではないので……払わなくても抱くことはでき」
「そうかい。じゃあ」
「うあっ!?」
ボクが言い切るのを待たず、ハニーBは首に噛みついた。歯を立てられている。包帯を突き破っているんじゃないかってくらいの強さだった。さすがに痛い。
「……は、ハニービ……ッ」
ぎりぎり。ぎりぎり。
え、なにこのひと? そういう趣味? すごく痛いのだけれど。
そりゃあ切り刻まれてきて痛いのには慣れっこだけれど、だからって好きじゃない。
頭を押しのけようにも体重をかけられてびくともしなかった。
「い、いた……っちょ、はなし……っはに、び……ま……!」
痛みがふっと和らぐ。
ハニーBがボクを見ていた。
「……遊兎都、呼んでくれ」
「よ、呼ぶ? なにを……?」
「名前だよ。俺の、なまえ」
「……蜜波知さん?」
ハニーB、蜜波知さんはほうと息をついた。
「いいね、お前に呼ばれる名前悪くねえ」
「……そうですか。さすがにボクも噛まれたら痛いんですけど」
半眼で文句を言うと、蜜波知さんは「はっ!」と鼻で笑った。
シニカルな仕草が様になるおじさんだ。
「――慣らさねえでケツに突っ込まれんよか、マシなんじゃねえのか?」
うわあ……。
「ひどい下ネタを言いますね、というか経験があるんですか?」
ボクの何気ない問いかけにおじさんは顔を引き攣らせた。
「まさか。でもま、おじさんは性欲旺盛なんでね。そういうことに興味津々なの」
「はあ……」
「……」
「……えっと?」
「……調べたんだよ、察しろよ」
「……わざわざ?」
「悪ぃか? 好きなやつにはキモチよくなってほしいだろ」
「……」
また、〝好き〟か。
言われてもわからないっていうのになあ……なんて悠長に考えていたら、蜜波知さんの手がボクのネクタイを掴んで緩めた。
「え……?」
「なんだよ」
「いや、だって。さっきボクが誘ったら嫌がってたじゃないですか……」
「あれはお前……仕事の対価でってことだろ? これはあれだ、俺の依頼」
「いらい……?」
「俺にお前を抱かせてくれ。報酬は言い値で構わねえ」
「……えぇ……?」
そんな依頼は初めてだった。
困惑していると、蜜波知さんがひどくやさしい手つきで頬を撫でた。
思わずびく、と体が痙攣する。
「あ? なに、お前ビンカン?」
「わ、わりと……」
「ふうん?」
「ひゃ……っ!」
手が無遠慮に服の中を滑ってきた。
「へえ、可愛い声出すじゃねえの。もっと聞かせてくれよ」
「ちょ、ま……ボク、まだ受けるって言ってな……!」
「――遊兎都」
呼ばれて視線をそちらへ向けると、蜜波知さんがサングラスをゆっくりと外すところだった。初めて、本当の意味で目を見る。どくんと心臓が脈打った。そこにいるのは陽気な情報屋のおじさんではなかった。
蜜波知さんはきれいな琥珀色の瞳をしていた。その目の奥では煌々と炎が燃えている。
ああ、このひと、本気なんだ。
本当にボクを食おうとしている。
本当にボクが好きで、抱こうとしている。
熱を分け与えようって、想いをぶつけようって。
少年みたいだと思っていたのに、立派に男じゃないか。
そうだ。こういうとき、ボクがどうすべきかわかっている。
ボクのすべきことは。
その答えにたどり着いた瞬間、全身の力が抜けた。
「遊兎都?」
「……いいですよ」
「……へえ?」
「抱きたいんでしょう? いいですよ。――どうせお仕置きされる予定、だったし」
「ふうん? お仕置きって、凛彗にか?」
「それ以外に誰がいるんですか……」
「お前だったら他の男と寝るの、躊躇しねえだろ」
「まあ……。でもそれは凛彗さんに禁止され……いた!?」
再び噛まれた。このひと噛むのが趣味なのか?
「……遊兎都、俺に集中しろ。凛彗の名前は呼ぶな」
「へ……?」
「嫉妬したらおじさん、どうなっちまうかわかんねえぞって話だよ」
唇を塞がれた。
苦い煙草の味がする。嫌いな味だけど、なぜだろう。
受け入れてもいいかな、なんて思ってしまった。
息が続かない。くらくらして何か文句を言わなくちゃいけないのに、全部が吐息に変わっていく。
――ああ、でも。いっか。知らないひとじゃないし。お世話になっているし。客よりずっと紳士的で丁寧だし。
臭くないし、痛くもしないし。というか、ボクの体はそんな使い方くらいしかできないし。
迷子みたいな顔していたくせに。哀愁漂わせていたくせに。
どいつもこいつも、なんだってボクなんだ。
傷だらけの欠陥品を愛そうなんて――みんな、どうかしている。
兎の穴に落ちて、その先は不思議の国でした。
それじゃあ、イカれているのはやっぱりボクじゃないか。
また、蛇が見える。蛇がボクの腹の中に潜り込もう狙っている。
知らない色の蛇だ。舌をちろちろ出しながらボクを愛でようと首を伸ばしていた。
もういいや、やめちゃおう。考えるの、面倒くさいし。
快楽に任せてしまおう。好きも嫌いも愛も憎しみも、全部全部溶かしてしまえば同じなんだから。
そう目を閉じた時。
「――ねえ、どういう死に方が好み?」
ぞっとするほど冷たい声が、降ってきた。