Ep.66「攻防」
〝罪悪の街〟ザイカ。
あらゆる犯罪はここから生まれるとさえ言われた、災厄の街。ボクの生まれ育った場所。
ここではあらゆる非合法は合法である。人を殺すことも、薬を売りさばくことも、子どもを商品として扱うことも、人間を奴隷にすることも。
ザイカで親のいない子どもは、大抵が臓器を売るか、体を売るかの二択である。そのうち、ボクは後者だった。
気が付けば娼館にいて、客を悦ばせる術を教え込まれた。最初は意味も分からず、ただ蹂躙されることが怖くて泣いていた。でもいつしかその現実を受け入れて余計な感情を捨てられるようになると、ボクはあっという間にその娼館で一番の男娼になった。
月明かりに似た目の色から、『輝夜姫』と呼ばれ、ボクは日に何人も相手にした。そして時には客に対し『待て』を出すこともできるようになった。
『待て』の意味を、その時のボクにはわからなかった。ただ、一番になった日に館の主人から「簡単に股を開くな、限界まで焦らして搾り取れ」と言いつけられたので、その指示通りに振る舞っただけだった。効果は絶大だった。思い返すとあまりに愚かで、おぞましい話であるが。
成金たちは年若いボクの体を開く優越感を得るために、必死になって金を落としていくのである。
ボクはそうして一番の地位を保ち続けた。
男娼も娼婦も順位が高くなればなるほど待遇が良くなる。個室も持てたし、ある程度のわがままも許された。
ボクはほぼ無欲であったから、お風呂に入れてふかふかの布団で眠ることができればよかった。
けれどほかの子は違っていて、あれやこれやと小間使いに要求しては、その要求が通らないと小間使いに当たっていた。廊下で罵倒され、殴打される小さな子を何人も見た。
可哀想だとは思わなかった。ああならなくてよかったとも思わなかった。
ただ、――痛いんだろうなと思った。
「……兎戯君」
ある日現れたよく笑う男の子。三月櫓兎戯君。彼も小間使いのひとりだった。
見目がいいから、と男娼になった子だった。愛に飢えて、性に溺れて、最終的に己の首を掻き切った子。
派手な見目ではなかったけれど、その素朴さが受けて割と人気の男娼だった。
でも情緒が不安定な子だったから、館の主人も手を焼いていた。
よく笑うけれど、その分よく泣くし喚いた。自分がどういう存在であるかを忘れてしまうらしく、客が囁く愛の言葉を本気にしてしまう。そうして相手に取りすがって鬱陶しがられ、常連客から見放されることも多かった。
客が離れていくのを見逃すわけにはいかない。だって実入りがなければ経営はできないから。ある程度大きな娼館だったから、維持するのが大変だったのだ。
だから、館の主人は経営のために彼を売り払った。表向き、気に入られて買われたということにして。
「……」
再会したけれど、彼は紫乃盾晴矢の手の中だった。
別れる時に見た真っ黒な目。感情のない顔。ふとした瞬間思い出して暫くボクの記憶の中に鎮座している。
ボクはあの子を見捨てた。背を向けた。だから、あの子を慮る資格なんてない。
それでも、考えてしまう。
――あの男の傍にいて、あの子は本当に幸せなのだろうか。
そんなこと、ボクにわかりっこないのに。
ボクが幸せになれなかったといって、彼もまた同じとは限らない。
でも、あの表情が焼きついて離れなかった。
「ユウ君」
凛彗さんの声だった。一気に回想から現実に引き戻される。
ザイカに向かう船内。静かだった。雨汰乃さんが操縦室にいて、兄弟ふたりがいないからだろうか。でも誰もが口を閉ざしているこの状況は、まるで死地に赴く兵士たちみたいだった。
ボクを呼んだ凛彗さんは大きな体を折りたたんで、顔を覗き込んでいた。ボクらは隣同士に並んで座っていた。
「……大丈夫?」
ボクの頭を大きな手が撫でる。いつもなら撫でられて消えていく黒い蟠りも、今回は消えていかなかった。凛彗さんの例もあって、ボクは帰郷に大きな期待を抱けなかった。
それに、翠君のこともある。彼は言った、「良くないことが起こる気がする」と。
彼の勘はよく当たるし、ボク自身もそんな気がしている。
良いことが起こる前触れなんてなにもないから、そう思うのかもしれないけれど。
でもボクが想像できない以上のなにかが、あるような気がしてならないのだ。
「……はい。……大丈夫、です」
「大丈夫って顔してねえぞ、遊兎都。数分だがまだ時間はある、寝ておくか?」
蜜波知さんが横から口を出した。彼は正面でパソコンを叩いている。
コントロールを奪取したとはいえ、懸念は払拭できないのだろう。ボクに声をかけながらも手元は忙しなかった。
「……寝起き、あんまりよくないので」
寝起きでぼーっとしているところを襲われては敵わない。首を振ってそう答えると、蜜波知さんは「無理すんなよ」と言って、再びパソコンの画面を見遣った。
「エデンの有する海域って言っていたけど、つまりそれって海までエデンのものになっているってことなのかなあ」
のんびりとした問いかけは翠君だった。
ふたりは別の場所に置かれたソファに向かい合わせに座っている。彼の手元には食べかけのクリームソーダがある。何か飲むかと雨汰乃さんから気遣われた際に、彼が所望したものだ。
こんな時でも、翠君は変わらなかった。
「そういうこと、だと思うよ。海の一部を有するなんてあまり実感が湧かないけれど……」
「ふうん……。海まで支配しちゃったら忙しくって大変だね、シジが海に面してなくてよかった」
そう感想を洩らして、ずずっとソーダを啜る。その横顔に戦地に赴くような緊張感はなかった。
なんだか、翠君を見ていると安心するなあ。
翠君は基本、マイペースだ。表情もあんまり変わらない。微笑むことはあれど、声を上げることはない。泣く姿も見た覚えがなかった。
でも、ボクは知っている。彼が人前では決して見せないであろう表情を。
それはただボクらがふたりそろって、兄弟に〝愛でられた〟から知れたものだ。
情欲に晒されている翠君は、なんというか――とても、きれいだった。
透明な水を浴びた宝石みたいに、きらきらしていた。
熱に浮かされた頭でもそう思うくらい、彼は美しいひとなのだ。
それは見た目の話じゃない。心のほうである。
翠君は終わった後必ず、「大丈夫?」と声をかけてくれた。それからボクを労って手を繋いで一緒に寝てくれた。翠君が一緒なら怖いものなんてないように思えた。
恋情にならなかったのはきっと、その時のボクに心がなかったからだろう。
彼を欲しいと思う心が、独り占めしたいという欲望が。
一度でも芽生えていたのなら、ボクらの関係はもしかしたら今と全く違ったのかもしれないけれど、それきり芽生えることがなかった。だから、ボクらはずっと友だちのままである。
それに、ボクも翠君も大切な繋がりを得たし、そういう意味でもきっとこの先も友だちでいられると思う。
「ユウ君」
ぼーっとしていたら、また名前を呼ばれた。凛彗さんを見ると、ちょっと険しい顔をしていた。
「あ、……すみません! ……? どうしました?」
「……ううん。……なんでもないよ」
凛彗さんはどこか遠くを見ている。どこだろう、と目を向けるとその先には翠君がいた。
翠君はクリームソーダの入っていたコップの、大きな氷をがりがり噛み砕いているところだ。彼はこっちを向いていない。
皇彌さんも手元の本を見つめている。
「……? 翠君がどうかしましたか?」
「……やっぱり。……危険な子だ」
「へ?」
翠君が? 皇彌さんが? なにが?
凛彗さんの言いたいことがわからず、ボクは目を瞬かせる。凛彗さんは思案気な顔をしたままボクを抱き締めた。あたたかくて心地よかったけれど、ボクの頭の中は疑問符で埋め尽くされていた。
フードの中でネウが、つまらなそうにあくびをもらしたのが聞こえた。




