Ep.64「そしてふと我に返る」
「――こいつはもともと豪華客船だった、だから操舵室が前方と後方に二か所にある。双方向動かせるように、だ。だがどちらか掌握すりゃあ問題ねえ、たとえ片方ぶっ壊されてても、な」
蜜波知さんに言われてボクらは位置的に近いほうの操舵室へ走った。階段を上がり、廊下を駆け抜ける。
廊下は血錆びの香りが充満していた。鮮やかな赤色もあれば、もうすでに黒くなりつつある赤色もあった。駆け抜けていく中でも襲撃はある。妨害を薙ぎ払いながら、ボクらは操舵室に急いだ。
とんでもない人数が乗り込んできているようだ。次から次と沸き出てくるから戦闘で、滅多に疲れないボクでも軽く疲労を感じていた。とはいえ、まだまだ大丈夫。
――大丈夫だと思いたい。
「あ! そういえば雨汰乃さんッ」
現れた巨漢の、脂肪で覆われた首にカッターナイフを突き立てながらボクは雨汰乃さんを呼んだ。
うう、脂で滑る……いやだなあ。
「っ、なんだ?」
「この船……っ、て! ずっと『自動操縦』なんですか?」
なんとか頸動脈の切断に成功した。血しぶきを上げながら巨漢が倒れた。カッターナイフにはべっとりと脂が付着していた。試しにワイシャツの裾で拭ってみたが、付着部分を広げただけで何の意味もなかった。仕方がなくボクはカッターナイフを取り換えた。
雨汰乃さんは、両手にナイフを持った女のひとを槍で突き殺しているところだった。女のひとは、ぐったりと壁にもたれかかって動かなくなる。
雨汰乃さんは穂先の血ぶりをしながら、答えた。
「ああ、まあな。だがたまに俺自身で舵を取ることもあるぞ。そのために船舶免許も取ったしな」
「え、免許取ったんですか? わざわざ?」
「? 当然だろ」
「そいつは律儀なこった、船だの車だの無免許な輩が大多数だってのによ」
「あ、そこ危ないですよ。そのひと、大きいから」
隠れていたらしい蜜波知さんが顔を出したので、足元に注意するよう言う。
廊下の幅を覆うのではないかというほど巨大な体をまたぎながら、彼は「うへえ」という顔をした。
「仕事柄、免許証携帯必須の街にも立ち寄るからな。面倒は少ないほうが商売はやりやすい」
「ああ、なるほど」
雨汰乃さんの説明に納得した蜜波知さんが、ボクに視線を戻す。
「……というか」
「? なんです?」
「お前、出身ザイカだったな……」
「え。そうですけど……」
「殺すのに躊躇いがねえ」
蜜波知さんの琥珀色の目には、ボクを責める感情はなかった。
ただの事実確認、という感じ。言わんとしていることはわかっている。
「油断したら理由なく殺される世界で生きていたので。――でも、殺人行為を肯定的には思っていないですよ」
「……遊兎都、そいつはなんだ」
雨汰乃さんが話の間で、険しい顔で問いかけてくる。一体なんのことだろう。
彼はボクの手首を指さした。包帯の留め具が外れて、傷だらけの手首が丸見えになっていた。正の字なんて、明らかに人為的なものだ。戦っているうち、外れたらしい。気づかなかった。
ボクが目を逸らしながら隠すと、雨汰乃さんが眉間に皺をよせ、そして蜜波知さんが目を見開いていた。
緊急事態だから悠長に刻んでいる時間がなくて、今回の分は数えていない。習慣づいているからちょっと気持ちが悪いのだけれど。
「遊兎都、お前……」と蜜波知さんが何か勘違いをしていそうだったので、慌てて「あ、ええっと。自傷行為とは少し違います」と言った。
「じゃあなんでそんなことしている」
詰問するみたいに強い口調は、雨汰乃さんだ。
怒っているわけじゃない。心配をしてくれている。
だから、答えた。
「……命を殺したこと、それを忘れないためです。最初はカッターでやっていたんですけど、凛彗さんに止められたので今は爪で。……爪なので時間が経つと消えちゃうんですけどね。でも、覚えていられるから」
「……いつからだ?」
純白の光がボクを射抜く。なんだか見ていられなくて俯きながら答えた。
「……最初に、人を殺したそのときから」
両親がまだいた頃。
ナイフでの戦い方を覚えた次の日くらいに、ボクは見知らぬひとに殺意を向けられた。
快楽殺人犯だった。教えられた通りに体を動かすと、そのひとはあっという間に死体になった。
怖かった。自分が別のものになるような感覚がしたのだ。だから自分で自分に傷をつけた。
――まだボクは〝梵遊兎都である〟と実感するために。
「……そうか」
沈黙の後。大きな手がボクの頭を撫でた。蜜波知さんと違う、やさしい手つきだ。雨汰乃さんの目にはほんの少しの、悲しみが滲んでいた。
「もうやめろ、と言いてえことだが。お前が決めたことに俺が口出しする権利はねえからな」
「雨汰乃さん……」
「だが凛彗の言う通りだ。カッターはやめろ、わざわざ一生残る傷にする必要はねえ――他人の命を、そう簡単に背負うな」
「……はい」
他人の命を背負う。違う、そんな聖人じみた考えじゃないのだ。
これは自分のためだ。誰かじゃなく、ボクがボクを失わないための行為。
殺すことを当たり前にしてしまうと、なにかが、どうにかなってしまいそうになるから。
きっとそれはボクがかつて『暴君』と呼ばれた父の息子だからだろう。だから父さんもわかって、ボクに『殺し屋』になるなって言葉を残してくれたのだと思う。
「……雨汰乃さん」
「うん?」
「あの、……」
「どうした」
「……全部終わったら、相談。……させてほしい、です……」
唐突なボクの言葉に、雨汰乃さんは面食らったようだけれどすぐ笑って、「構わねえ。時間を取ろう」と言ってくれた。
「ありがとうございます」
雨汰乃さんは父と最後に言葉を交わした唯一だ。何を話したか訊けずじまいで別れてしまったから。
もしかしたら、父さんから――母さんのことを片鱗でも、伝えられているかもしれないし。
「……遊兎都」
フードの中からネウが囁く。
あ、と彼を見ると黄金色がじいっとボクを覗き込んでいた。
「ごめんね、急ぐよ」
「……いや。……そうだな」
「うん?」
ネウの反応が気になったけれど、それよりも今は操縦桿の奪取が先決である。
ボクらは急いだ。
◇
たどり着いた操舵室にも既に侵入者がいた。ボクらに気づくと一斉に向かってくる。
幸いにも機械部分に手は出されていなかった。雨汰乃さんが槍を横に薙いでふたりほど、ボクは跳躍して三人ほどを殺した。いずれもあまり戦い慣れていないようだ。――いや、ボクが殺し慣れているだけなのかもしれない。
血の匂いが充満する操舵室で蜜波知さんが持ってきたパソコンを、なにやらたくさんボタンのある中央の機械に接続していた。何が何だかわからないので訊くこともしなかった。
蜜波知さんには作業に集中してもらわないと。部屋に残っている侵入者も片付けて、ボクは蜜波知さんの背中を見る。雰囲気はすっかりハニーBのそれである。
「……っち、プロテクトがかかってやがるな……なるほど、ここのソースコードを改変して……」
独り言を言いながらかちゃかちゃキーボードを叩くハニーBを見て、雨汰乃さんがボクに耳打ちした。
「話かけねえほうがいいか」
「そうですね、ああなると完全に自分の世界に入っちゃうんで」
「わかった」
窓の外では戦うみんなの姿が見えた。
あれは――翠君かな? ほとんどその場から動いていない。でも彼が腕を振るたび、近づくひとたちがみんな床にめり込んでいた。心なしか、生き生きしているように見える。
凛彗さんはどこだろうと思って見まわしていると、近くでぱりんと音がした。
――侵入者だ。手の甲に金属製の大きな爪をつけているのが、ギリギリ目の端で捉えられた。
「死ねえっ!」
お決まりの台詞を入って突進してくる侵入者に、ボクはカッターナイフを向ける。だがすぐに首が捕らえられなかった。
――早い!!
今まで相対した敵は大抵凛彗さんが倒してくれていたし、パーティー会場だっていろいろと小技を利かせて辛勝だった。畢竟、実戦経験が圧倒的に不足している。
まともに攻撃が当たらない。視認しても残像になってしまって突き立てた刃がすり抜けてしまう。
まずい、これではどんどん蜜波知さんに近づいてしまう。雨汰乃さんも扉からの襲撃に対応していて、とても相手にしていられる様子じゃなかった。
その時、不意に翠君の言葉が蘇った。
――目で追わないほうがいいよ
――気配を感じ取った方がうまくいく
気配、殺気。――集中しろ、感じ取るんだ。
ボクに向かってくる、殺そうとする意志を。
途端視界で何重にもぶれていた人間のかたちが、ひとつになった。
――そこだ
ボクはカッターを横向きに構え直し、その首めがけて思いっきり薙いだ。
皮膚を突き破る感覚がして、真っ赤な飛沫が噴水みたいに視界を覆う。
「ぐっ……うぅ……」
躊躇うな、押し込む手を――止めてはならない!
ありったけの力で刃を深く深く突き刺すと、侵入者は口から血のあぶくを吐き出しながら頽れる。タイミングを見計らってカッターを引き抜くと、赤い水がびしゃびしゃとあふれ出て、あたりを汚した。
「……」
何人目、だろう。
こんなに一度に人を殺す機会があまりないから、妙に緊張している。でも、ボクの手のひらは乾いているし、心臓の鼓動もふつうだ。
命を壊しているのに、白い紙をびりびりに割いているみたいに実感がない。
人を殺す。命が消える。ザイカでは日常茶飯事で寧ろ、それが仕事となりうるような治安であったけれど、だからといって肯定されるべき行いでは決してない。
自分が生き延びるという利益のために、ボクはこのひとの命を奪った。
改めて考えて、ボクは思考を閉じた。
考えても意味がない。
だって、殺してしまった命を憐れんでも帰ってこないのだから。
「憐れむ……?」
もうそんな気持ちすら、もう忘れている気がするな。
可哀想に、と思う気持ちは道端で死んでいる動物を見るそれと同じ。
人間も――まあ、動物だし、間違っちゃいないのだろうけれど。
でも、やっぱりボクの心はどこか壊れている。
なにかがきっと、欠如している。
「……母さんは、」
顔も思い出せぬ母親は、こんなボクをどんな風に思うのだろう。それこそ理不尽に死んだ動物みたいに、憐れむのだろうか。
わからない。わからないけれど、今考えることじゃない――か。
ふうう、と深く息を吐いた。だめだ、感傷的になっている。
緊急事態だっていうのに。
危機管理能力の欠如。これは根深い欠点だ。
「遊兎都」
「ああ、ネウ。ごめんね」
「……オレは」
「うん?」
「……オレはどんなお前でも『番』として認めている。……忘れるなよ」
「へ? ……ああ」
慰めてくれている、のか。
「ありがとう、ネウ」
ふわふわの体毛をこすりつけてくるネウを撫でて、ボクは死んでしまったそのひとを壁にもたれかけさせた。
血で床が滑りやすいと、困るからね。




