Ep.63「Fake it till you make it.」
ベッドから転げ落ちそうになったのを、凛彗さんが抱きとめてくれた。彼の表情は険しかった。
雨汰乃さんが舌打ちした。
「っち……、来やがったか」
「何事ですか」
拳銃を手にしながら皇彌さんが雨汰乃さんに訊ねた。
「伝えるタイミングをすっかり失っちまったが……。雅知佳が動き出したって言っただろ、アレだ。あいつは俺たちに懸賞金をかけて引っ張り出そうとしていやがる」
「懸賞金? ああ……、なるほど」
皇彌さんが立ち上がりながら相槌を打った。
「合理的ではありますね。明確な報酬があれば食いつくゴロツキはいくらでもいる――あちこち、貧困は避けて通れない問題でしょうから」
「ああ、そうだ。それも他の街の基準に合わせるってんだから破格だろ。ただし……〝生け捕りのみ〟だがな」
共通した貨幣制度は存在しないこの大陸では、街独自の価値基準でのみ経済は動いている。だからこそ、財政難なんてことになって、挙句戦争という暴挙に出る街もある。
そして必ず貧富の格差が生じるのだ。どこの街も困窮者の救済について頭を悩ませている。だから『エデン』のもたらした懸賞金は魅力的に映るだろう。しかし、生け捕りのみとは。
利用する気満々である。
「クソ……今の今まで静かだったからこのあたりの海域は占有されてねえのかと思ったが……泳がされていただけか。迎え撃つぞ――唄爾、呉綯! 用意しろ、てめえらの仕事だ」
「はぁーい」
「わかった」
雨汰乃さんの号令にふたりが素直に頷いた。
唄爾さんがおもむろに、首元までを覆った襟のファスナーに手をかけた。そしてそれを一気に下ろす。現れたのは、ボクのそれとは一線を画す、耳まで裂けた口だった。
彼の口は裂かれたわけではなく、もともとそういう風に形作られているモノだ。
人為的ではなく、生得的で。
生まれながらの異様で、異形だった。
上あごと下あごが一体どのように繋がっているのか理解のできない、口の形である。それを見た祢憂が「……なんだあれは」と言った。
ボクも初めて見た時は驚いたものだけれど、ボクだって口が裂けているから他人のことは言えない。
明らかに人の歯ではないあの牙は、どんなものでも噛み砕く。そして彼の胃袋はどんなものでも消化する。――たとえ、人であっても。
そんなことに思いを馳せていると、再び船が大きく揺れた。どこかが崩れたような音も続いた。
「人数が多いな……悪いが、お前らにも働いてもらうぞ」
「もち。最初からそのつもりだったよ」
答えたのは翠君だった。準備運動をして、臨戦態勢である。ボクもカッターナイフを取り出し、刃を限界まで伸ばした。
三度目の爆発音とともに、部屋の壁が崩れた。崩落した壁の向こう側にいたのは武装した侵入者たちである。その手には十人十色な得物が握られていた。
――目の輝きが、普通じゃない
よほど金に困っているのだろう、貪欲にぎらつく目はザイカでよく見たろくでなしと同じだった。
「おいみろ、大枚はたいて爆薬をしこたま買った甲斐があったぜ。懸賞金が雁首揃えていやが――」
興奮気味な侵入者の言葉はそこで途切れた。首が吹っ飛び、赤い血が噴水のようにあふれた。
凛彗さんだった。悪役の台詞を言い終わるのを待ってやるほどやさしい人間なんて、ここにはいない。
特に彼は。
「ひぃ!?」
「……」
後方にいた仲間らしき男たちが瞠目して驚くが、その時間が命取りである。反撃おろか武器を構える暇もなく、凛彗さんにより次々と首をもがれていった。足蹴りで。
その様子を見ていた翠君が「おぉ……、すごい」と感想を漏らしていた。仕事ぶりを見たことがあるのだろう、皇彌さんは「相変わらず苛烈ですね」と呟いていた。
「ちょっとー凛ちゃんー、俺ちゃんたちのおもちゃ取らないでよー!」
「……出遅れたか」
一尺八寸兄弟が口々に言いながら、揃って前に出て空いた穴から外へ飛び出した。
先ほどの爆発の件もあるし、予想するに集団がいくつか乗り込んできている。
「ユウ君」
凛彗さんがボクを振り返る。
彼の目を見て、言いたいことはすぐわかった。
「ボクは大丈夫。――凛兄ちゃん、お願いできる?」
「……当然だよ」
凛兄ちゃんは微笑んで、兄弟の後を追うように走って出て行った。
翠君が腕を回しながら、蜜波知さんを見る。それからボクに視線を移した。
「ゆと君、ハニーさんって戦えるの?」
「ううん、全然」
ボクの返答に、皇彌さんが「ふむ」と言って眼鏡に触れた。
「それでは遊兎都君はこちらに残っていた方がいいですね。外の連中は私と翠玉で対応いたします」
「俺も残ろう、お前ひとりじゃ大変だろ」
「ありがとうございます、雨汰乃さん」
蜜波知さんが何か言いたそうに口をもごもごさせていたけれど、戦えないのは事実である。というか『神霧教』の本部にいたとき、本人が戦えないって言っていたし。
皇彌さんの「行きますよ、翠玉」という声掛けに翠君が「うん」と答えて、翠君を先頭にふたりは部屋を後にする。部屋に残ったのはボクと雨汰乃さん、そして丸腰の蜜波知さんといつの間にか猫に戻ったネウ。ネウは素早くボクのフードの中に収まった。
奇妙な静けさが部屋を支配する。だが、それも本当に一瞬だった。
どたどたと足音が近づいて、様々な武器を持った連中が穴からわっと――虫みたいに湧き出てきた。
殺意を向けられて、ボクの体は勝手に動いた。
狙うのは、首。
躊躇えば、死ぬ。
剥き出しにされた首にカッターの刃を突き立てて、そのまま押し込む。
赤い血が噴き出すのを見つめながら、次の標的へ視線を動かす。
合間に「ぐあ」だとか「うげ」だとか聞こえるが、全部が――なんだか、潮騒みたいだった。
ひとを殺すとき、ボクの世界の時間はひどく穏やかに流れる。
殺戮を行っているというのに、なんとも馬鹿馬鹿しい話である。
『暴君』と呼ばれた父の影響なのか。それとも――
――母さん。
振り払ったはずの疑念が、ボクの足を止めた。
ああ、馬鹿野郎。一瞬の油断でひとは呆気なく死ぬというのに。
まずい、と思ったときにはもう遅かった。鈍器がボクに振り下ろされる瞬間だった。
「――遊兎都!」
鈍器を振り下ろそうとした輩の脇腹を、槍の刃がえぐった。相手は口から血を吐き出して、悶絶する。間髪入れずに二撃目。首が飛んだ。ごろりと転がったそれを見てボクははっと我に返った。
雨汰乃さんだった。自分の身の丈ほどの槍を携えて、ボクを見ている。
「大丈夫か? 本調子じゃねえなら下がってろ」
「す、すみません……」
母親のことを思い出して動揺した、なんてひどい失態だ。
ボクは気を取り直し、再びカッターナイフを構えた。
◇
雪崩れ込んだ敵のほとんどを無力化した後、残るのは血錆びの香りである。ボクはこの瞬間に痛烈に生を感じた。冒涜的かもしれないが、こればっかりはどうしようもない。
ザイカで暮らしていたころ、父と母に手を引かれながら路地裏で息絶え蛆のたかった死体を見たとき、ボクは漠然と「生きているから、ああなるんだろうな」と思った。
死は生きているからこそ訪れる終わりだ。物語を終えて本を閉じる感覚に少し似ている。本と違うのは、もう二度と開くことができない、ということ。自分自身で再読はできない。読み直せるのは生きているひとたちだけだ。
死んだボクらは読む権利を失って、ただ空っぽになる。
――実際、死ぬってどんな感じなんだろうな。
冷たくなって、意識がなくなって、何もかもを置いていくのはなんだか寂しい。
維央さんは、殺される刹那寂しかったのだろうか。
「遊兎都」
「あ……っ、はい」
「大丈夫か」
先ほどと同じ問いかけに、ボクは「すみません……少しだけ、考え事を」と言い訳がましく答えた。しかし雨汰乃さんは怒ることなく、「いろいろあって襲撃だ、無理もねえ」と言ってくれた。
雨汰乃さんはやさしいひとだ。やさしいひとを見ていると、胸が苦しくなる。
やさしいがゆえに悩んで、やさしいがゆえに、苦しむから。ボクはそういうひとが幸せになってほしいと思う。
神なんてものが本当に存在するなら、問いただしたい。
なぜ、やさしいひとが歩む道ばかりに茨を生い茂らせるのか。
振り払う手ですら傷つけるのは、どうしてなのか。
馬鹿馬鹿しいおとぎ話だ。ワンダーランドにだって神さまはいなかった。
いたのは、傍若無人な女王だけである。
「……ボクが、それか」
――君は女王様でしょ
だったら多少我を通しても許されるのではないだろうか。
やさしいひとが、もうこれ以上傷つくことがないように。
ボクが、代わりにその茨を刈り取って強引にでも背中を押せれば。
「遊兎都?」
「雨汰乃さん、ボクは雅知佳さんに会いに行きます」
「え?」
「雅知佳さんに会って、維央さんの気持ちを伝えます。だからどうなるかなんて、わからないけれど。維央さんは伝えてほしいって言っていたから。――幸せだったって」
「……」
「エデンに行きます」
ボクの言葉を黙って聞いていた雨汰乃さんが、不意に笑った。
慈しみの笑顔。あたたかいな気持ちを分け与えてくれる表情だ。
「言っただろ、俺は雅知佳を止めてえって」
「! それじゃあ……」
「最初からこの船は――楽園行きだ」
そうか、ボクは戻るのか。
白く塗り固められたかつての故郷に。
里帰りって本来もう少し楽しい気分であろうものだけれど、今は――
「……盛り上がってること、悪ぃんだがよ」
後ろから遠慮がちに蜜波知さんが声をかけた。
おっと、そうだった。今は緊急事態だった。
「あ、はい。すみません、蜜波知さん」
「この船ってもしかして中古品か?」
思いもよらぬ問いかけで、雨汰乃さんはやや戸惑いながらも「そうだが」と応じる。
「もしや、ザイカで使ってたやつか?」
「……そうだが? 使わねえってんで安く譲ってもらった。陸に家は持てねえからな」
蜜波知さんがそれを聞いた途端、深いため息をついて項垂れた。
「……おいおいおいおい、おいおいおいおい!」
「なんだ」
「ばっか、てめえ……そいつはねえぞ……」
「なんですか、蜜波知さん。何か不都合でも?」
「不都合だらけだってーの!!」
わ、びっくりした。
蜜波知さんの大声なんて聞いたことがなかったから、不意打ちですごく驚いた。
ネウがフードの中で恨めしそうに「……うるせえ」と唸っている。
「いいかっ! ――ザイカで造船された船のほとんどに遠瀧の技術が使われてんだ、『完全自動操縦』……こいつは俺たちが仕込んだプログラムを活用して作られてる、わかるか? 俺たちが裏から舵取ろうと思えばできるって話なんだよ!」
「……なんだと」
「え」
それって。
思考の止まったボクの代わりに、雨汰乃さんが「……愛瑠々が航路を変えようと思えばできるってことか?」と訊ねた。
蜜波知さんは焦った表情のまま、「そうだ!」と答えた。
「たとえば航路を無理矢理変えてやべえ海域に誘導することだってできる! だーっくっそ、船体に必ず遠瀧の印があるはずだってのに……!! 油断してたぜ……。――当時のプログラムは改良中で穴だらけだった、今の瑠々だったら乗っ取るなんざ朝飯前だ」
「……すまねえ。俺の落ち度だ」
雨汰乃さんが心の底から、謝罪の言葉を口にした。彼の謝罪に蜜波知さんは首を振った。
こっちもこっちで、なんだか複雑な心境そうだ。
「いや『完全自動操縦』を適用している船なんざ滅多にねえ、お前が操縦席にいねえ時点で気づいてりゃあよかった……」
遠瀧の技術で作られた船。目の前で頭を抱えているひとは、その代表者。
凄腕の『情報屋』。ボクのために家族を裏切ったひと。
「……ハニーB」
「うん?」
「ボクのために、働いてくれますか」
女王蜂のために蜜を集める働き蜂のように。
ボクの眼差しに、蜜波知さん――いや、ハニーBは合点がいったようで、にやりと口を歪ませた。
「当然だろ、俺を誰だと思ってんだ。――ツクヨミ大陸イチの『情報屋』でお前の恋人なんだぜ?」
彼は少年のように笑って、得意げに答えた。
眩しかった。




