Ep.62「美しいひと」
「維央、余計な事言い過ぎ」
「ごめんってば。つい話しすぎちゃうんだよね」
「つい、の度合いを越えているんだよ君は」
「でも、あの子はきっと君の想像通りだね」
「いいや」
「え?」
「想像以上だと思うよ、あの子は」
◇
目を覚ますと視界にはたくさんのひとたちがいた。
凛兄ちゃんが目覚めたことに気づいて「ユウ君!?」とふだん滅多に聞かない、大きな声でボクを呼んだ。
「……り、んに、ちゃ……」
「大丈夫? 雨汰乃さんから突然倒れたって聞いて……。三日も寝ていたんだよ」
「……。……えっ、三日!?」
そんなに!?
飛び起きると部屋には全員がいた。
蜜波知さん、翠君、皇彌さんに雨汰乃さん、唄爾さんに呉綯さん。あとおなかのうえにネウ。
――いや、なぜ?
「……あ、あれ。みなさん、なぜお集まりで……」
目を瞬くボクに説明をしてくれたのは、部屋の隅で読書をしていた皇彌さんだった。
「君が倒れたと雨汰乃さんから聞いた翠玉が、目を覚ますまでここにいると言って聞かなかったもので」
「……あ、ああ……。なるほど……」
「俺ちゃんたちは寝込み襲えないかって来たんだけど無理だったわー」
「残念だ」
皇彌さんの理由はわかった。兄弟は相変わらず兄弟だった。
翠君がまなじりを下げてボクに顔を近づけた。そしてそのまま、こつんと額を合わせた。
「……平気?」
「……うん。平気だよ、ありがとう」
「よかった」
翠君の顔が離れていく。彼は少しだけ笑っていた。彼の背後から、雨汰乃さんが「大丈夫そうだな」と覗き込んだ。
上着を羽織っていない雨汰乃さんの服装を見て、目を見張った。
二の腕の部分と腰の部分がばっくりと空いている。どちらにも肌の上に刺青が垣間見えていた。
「? 遊兎都?」
「あ! すみません……服、そうなっているんだなって思って……」
「ん? 服? ああ、これな。唄爾たちに選ばせたら妙なモン買ってきやがって」
唄爾さんたちに選ばせたのか、その服……。
すると暇そうにしていた呉綯さんが、唇を尖らせて文句を言った。
「えーかわいーじゃんそれー。ズボンとかぴたっとしてて足の筋肉浮き上がってエロくて最高じゃん」
「いらねえだろ、そんな要素」
「いるよー雨汰乃ちゃんはえっちだもん」
「意味がわからん」
雨汰乃さんも背が高いから、足が長い。長く伸びた脚部のその様相を官能的かどうかはボクにはわからないけれど――特徴的なズボンとハイヒールがよく似合っている。その点から見るに、このひとの脚はとてもきれいだ。
――きれい、と言えば。
「……雨汰乃さん、あの」
「うん?」
「指……えっと、爪って見せてもらっても、……いいですか?」
「爪?」
「……あ、えっと、その……」
雨汰乃さんは真意をはかりかねて、疑問符を頭に浮かべている。
いきなり爪を見せてくれ、なんて。戸惑うのも無理はない。
でもボクはなんとなく――疑っていたわけではないけれど――見た〝夢〟がきちんと今の現実と地続きなのかどうか確かめたかった。
陽だまりの中でうたた寝をしてみるような、そんな白昼夢。やさしい誰かの想いが哀しみの色に揺蕩う幻。消えてなくなるなんて駄目だ、伝えないといけない。
何というべきか迷うボクに気を遣ったのか、雨汰乃さんが「これでいいか」と手を差し出してくれた。
爪には真っ赤なネイルが施されていた。すごく、きれいだった。彼女が教えてくれた通り、長くて節くれだっていない。手入れの行き届いた掌である。
「……遊兎都?」
「……嘘、だと思われるかも。……しれないんですけど」
「なんだ」
「……維央さんが夢に出てきて」
「え……?」
「雨汰乃さんは指がきれいなんだって。今度見てみて、って」
「……」
怒られるかもしれない。
あんな話をした後に、夢で亡くなったひとに会いました、なんて。
ボクは雨汰乃さんからの言葉を待った。どんな言葉を投げかけられても受け止める準備はできていた。けれど、降ってきたのは言葉じゃなくて、長くてきれいな指だった。頬をやさしく撫でられた。
「……雨汰乃さん……?」
「そうか。……維央が」
彼は涙をこらえるように、目をきつく細めた。
真っ白な目に、感情が揺れている。
「……信じて、……くれるん、……ですか?」
恐る恐る訊ねると、雨汰乃さんが「当たり前だろ」と笑った。
「お前がそんなことを言うようなやつじゃねえ。一緒に暮らしていたんだからわかっている。……維央は他になんか言っていたか?」
「雅知佳さんのこと、頑固だって……言っていましたよ。同じこと言っていたって伝えたらさすが偉大なる友人、って笑っていました」
「そうか。……そうか……」
雨汰乃さんはほっとしたように、やっと一息つけたみたいな表情をした。
なんだかまた泣きそうになる。雨汰乃さんは頭を軽く撫でてから身を引いた。
「……お前の夢のなかに入れなかった」
ネウがおなかの上でしゃべった。ちょっと雨汰乃さんの方を窺ったが、彼は特に気にしていなかった。ボクが眠っている間に、そのあたりは解決しているのかもしれない。
「そんなことあるんだ?」
「普通はねえ。オレはひとの心の中――無意識の空間を『領域』と定めて侵入することができる。例外はなく、誰の『領域』にも侵入できるが……できねえとすれば、ほかの誰かが『領域』に鍵をかけているってことだ。遊兎都、お前の夢のなかで誰かに会わなかったか?」
「……誰か……あ」
――また、会うことになるよ
白い髪の不思議な少女。名前は――
「<紅姫>って子には会ったよ」
「あ? なんだと?」
「たぶん、そう聞こえたけれど……べにひめ、って」
「……まさか、あのひとが?」
「え、ネウの知り合い? あれ、もしかして『慈母』……?」
「違う! あのひとは、『慈母』じゃねえ。……いや、だが……そうか……」
「おいおいおーい。俺たち蚊帳の外でいろいろ話すんじゃねーよー。なんだ、リョーイキだのジボだのっては」
蜜波知さんに水を差されて、ネウはむっとしていた。
そうか。傍目から見れば、ボクらの会話は意味不明である。
「あ、えっと。その……なんて言えばいいのか……ネウは神さまの使いで、ネウを作った神さまが『慈母』……ってひと。で、いいんだっけ? でネウはボクの夢のなかに入れるんです」
「へえ、そいつは便利だな。……ってことはお前ら夢のなかでちゃっかり……?」
「あぁ、えっと。会ったりはしていました、その時はまだボクはネウってことわかっていなかったけれど」
「はぁん。じゃあなんだ、クソ猫はまだ遊兎都と寝てねえのか」
……そういえば。
ネウは手を出してきていないな。
ちらっとネウを盗み見ると、彼はむすっとした表情をしていた。
「……うるせえ」
「なんだ、お前こそ童貞なんじゃねえか」
ちょっと、おじさん。そういう話は今することじゃ。
口を開きかけて、「……はあ」と聞こえてくる。
凛彗さんが大仰に溜息をついた声だった。彼は半眼だった。
「……おじさんて、すぐそういう話。……したがるよね。……空気が読めないの?」
「あぁ? なんだよ。お前だってキョーミくらいあるだろ」
「……」
「お? なんだなんだ? あるんだな? そりゃあそうだよなア」
「……首もいでいい?」
このふたりは仲が良いのか悪いのか。
ボクがなだめようと口を開いたが、それより先に呉綯さんが「へえ」と相槌を打った。
「兎ちゃん、結構ビッチちゃんじゃん。てかサ、猫と寝れんの? どこにつっこむの? あ、でも穴は開いてんのかー」
「ビッチ、と言われると確かに不特定多数と関係を持ったことはあるので否定はできませんが……。さすがに獣との経験はありませんよ」
「ふうん? じゃあその猫ちゃんが人間になったりするってことー?」
「そうだが」
言ってすぐ、猫の輪郭がなくなってひとのそれになる。
黒髪で黄金色の目、仕立ての良いスーツを身に纏った青年。顔立ちはイケメン猫の面影がある。
嵐神尾祢憂。初めて会ったとき、彼はそう名乗った。ついでにボクのことを『番』だとも。
「すっげー! マジで人間になった!! やっべー!! うわー……」
あ、まずい。
目つきがまずい。
「俺ちゃん、猫ちゃんだった子、食ったことないんだよねー……」
興味を持たれると大変だ。〝愛でられる〟。
祢憂は感じ取ったのか、呉綯さんをじろりと睨んだ。
「――オレは遊兎都以外と生殖行為もそれに準ずる行為もしねえぞ」
真面目な回答に、呉綯さんが面食らっていた。それからすぐに歯を見せて笑う。
くるくる表情が変わるところだけ見れば、このひとも存外かわいいひとなんだけど……。
「生殖……? ――っぷ、あははは、なにそれおもしろー。いいじゃん、だったら兎ちゃんと一緒でいいからさ♡」
あ、こっち来る。
まずい、まずい! このひと、人の目とか気にしないからこの場でおっぱじめる可能性がある!
「やめろ、呉綯。俺で満足しておけ」
そこで雨汰乃さんの助け船が出た。
「え、なになに雨汰乃ちゃん嫉妬ぉ? かわいー♡ いいよ? 雨汰乃ちゃんがそう言うならやめたげる♡ でも嫉妬されて俺ちゃん、超うれしいから今日はちょっと激しめでいー?」
「……お前が穏やかだったことねえだろ」
火のついた呉綯さんが雨汰乃さんにのしかかった。
いつもの光景である。動きが結構不穏だったのでひやひやしたけれど、雨汰乃さんは慣れっこで、肘で呉綯さんを押し返していた。
「てめえは我慢ってのを覚えろ。どこでも盛ってんじゃねえよ、人前だ」
「えぇーいいじゃん、見られてた方がコーフンするっしょ?」
「しねえ」
「うっそだあ、この前鏡使った時さー」
「それ以上言ったら口を縫うぞ」
威圧感がとんでもなかった。呉綯さんは押し黙る。でもそれは怯んだ、というよりもこれ以上叱られるのは面倒くさいから一旦黙っておこう、みたいな感じ。
雨汰乃さんと呉綯産の会話を聞きながら、ボクは維央さんの言っていた「雨汰乃さんならふたりを人間として扱ってくれる」という言葉を思い出していた。
兄弟は人道倫理その他諸々、いろいろとごっそり抜けているようなひとだけれど――それでも、怪物ではない。殺戮兵器、でもない。ちゃんと人間である。
そうしたのはたぶん、雨汰乃さんの力だ。
維央さんは全部わかっていて、託した。ただひとつ、雅知佳さんの想いだけは自分のなかに残したままで。
「……伝えなくちゃ」
「うん?」
ボクの独り言を雨汰乃さんが拾った。
夢のなかで言われたこと。維央さんが後悔していること。一番伝えたい心。
――もう、自分を許していいよ
黙り込んだボクを、怪訝そうに見る雨汰乃さんの目を見て、口を開く。
真っ白な瞳はいつ見てもよく晴れた日の雪原みたいで、きれいだ。
「……維央さん、意図しない形で雅知佳さんの過去を知ってしまったそうなんです。それで、最初に〝可哀想〟って思ってしまったって」
「……」
「だから……その。……好き、って言えなかったん、だそうです」
「……」
可哀想。
ボクも、あんまり言われたくない言葉だ。それはこれまで生きてきた自分が全部否定される気がするから。
――でも、そう思うことに罪はない。知ろうとすること、わかろうとする上で必然的に思い起こされる感情だから。
「……馬鹿野郎が」
雨汰乃さんが落とすように言った。
きっと雨汰乃さんも気づいていたのだろう。
ふたりが相思相愛で、でもいろんな枷があって言えなかったことを。
「維央は……、あいつはやさしいから。やさしすぎるから、思っちまった自分が悪いって思ったんだろうな。あいつはひとの世話を焼きたがる癖に自分のことは省みねえ。それは雅知佳も一緒だった……誰かが気にかけてやんねえと、自滅しちまうんだよ」
「……はい」
「だから、雅知佳さんのところに行くんだよね」
翠君の告げたその一言は、一陣の風のようだった。
暗い雰囲気を吹き飛ばすように、清々しさだけを残して去っていく風。
「うん、そうだね」
晴れやかな気持ちで返答をした、その時だった。
船全体が、大きく揺れたのは。




