Ep.59「あなたはやさしく愚かだった」
連れてこられたのは食堂だった。
広い食堂も、部屋同様にきれいにされていた。
適当に座れと言われたので、手近なテーブルにみんなが集った。ボクはお決まりのふたりに挟まれていて、翠君は皇彌さんと隣同士である。
「遊兎都と『情報屋』、あと皇彌。お前らは珈琲でいいか。あと、凛彗と翠玉はココアだな、クリーム乗せるか?」
「是非」
「……お願いするよ」
甘党ふたりの返事に、雨汰乃さんが懐かしそうに笑った。
手伝いますよと言ったのは皇彌さんだ。ボクも、と手を挙げたが「狭えから皇彌だけでいい」と断られてしまった。
ほどなくして人数分の珈琲とココアが到着する。ココア組にはホイップクリームのトッピングつきだ。
あと、雨汰乃さんは丸く平たい皿にのったミルクを用意してくれた。ネウの分だろう。
「ネウ、ネウ? 起きてる? ミルクがあるけれど……飲む?」
「……んん? にゃ……おぅ……」
ぼそぼそしゃべってネウはフードから顔を出す。雨汰乃さんを見て一瞬しゃべったことを後悔したみたいだったが、顔色を見て問題ないと判断したらしい――大人しく出されたミルクを舐めていた。
各々の前にあたたかいな飲み物が揃う。雨汰乃さんが椅子に腰を下ろし、淹れた珈琲に口をつけた。
そして、「ややこしい話になるが」と前置きをして、語り出した。
彼と雅知佳さんと。
――もうひとりの、星になってしまったやさしいひとの話を。
◆
俺と雅知佳と維央が出会ったのは、もう十年くらい前のことだったか。
俺は故郷を追われて、〝科学の街〟ガクカにたどり着いた。
追われた理由を話しておこうか。いずれ知られる話だしな。
俺の故郷は一度話したことがあったと思うが、コウシンだ。〝神秘の街〟として知られている。
翠玉の住むシジと同じで、街の外に情報がほとんど出て行かない。当然だ、そうしなきゃいけねえ理由がある。
コウシンは、『巫覡』と呼ばれる神の声を聞くことのできる女が、街のすべてを取り仕切る。絶対的権力、まさに神ごとき力をそいつは持っていて、『巫覡』の言葉がその街のすべてになるんだ。
この『巫覡』が、次代の『巫覡』を産むわけだが……。たったひとり、しかも街の長だ。その役目を任せきりにするんじゃ、割に合わねえ。妊娠、出産は命に係わる大仕事だからな。
だから、なのかはわからんが、コウシンの男共には『子宮』を持つ男が生まれるんだ。ああ、もうわかっただろう?
俺が、そうだった。
でもこの『子宮』は女がもともと持つそれとは少しばかり事情が違ってな。単に持っているだけじゃ機能はしねえ。
どういうカラクリかはさっぱりわからんが、うなじを強く噛まれる――血が出るほど強烈に、な。噛まれると、持っている『子宮』が生育し、体が段々と女みてえに変化する。変化するってだけで、女になるってわけじゃあねえぞ、ついているもんがなくなるわけじゃあねえ。
そうして、――俺たちは『巫覡』に代わって子どもを産むんだ。『子宮』のねえ野郎と交わってな。
そして、子どもを産んで生き残った野郎が『巫覡』との交わりを許可される。それが合図だ。『巫覡』の世代交代のな。そうして交わって『巫覡』が次の、『巫覡』を産む。野郎の方は『巫覡』の父親として栄誉ある身分を与えられるんだよ。親族も一緒にな。
――あ? ああ、『巫覡』と交わる前にできたできた子どもはどうするか、って?
産まれてすぐ連れて行かれて……、おそらく。……胸糞悪ぃ話だろ。
話を戻すぜ。
そう、つまるところ――『巫覡』が世代交代するまでの間、死に続ける。だから、俺たちは『巫覡の贄』と呼ばれている。
贄に選ばれるのは街じゃ光栄なことでな、この上なく喜ばしいことだった。
俺は特段嬉しいだのなんだの思わなかったが、持って産まれちまったもんは仕方がねえ、役目を果たそうと思っていた。そう、諦めていたんだ。運命に抗っても意味がねえ、とな。
しかし、人間は千差万別だ。受け入れる奴もいれば抗うやつもいるのは当然のことだろう。
同じ時期に贄になった野郎が、自分の運命に抗うやつだった。あいつは死にたくないと言った。俺は潔く散れと言って、気にしなかった。
だが――、そいつがとんでもねえやつだった。あいつは俺を呼び出し、俺を襲った。そして『巫覡』に密告した。
〝俺が野郎を誑かし、『巫覡』に捧げる神聖な身を汚そうとした〟ってな。
困ったことに、この密告ってのはしたもの勝ちでな。俺は神聖な身を汚した『ケガレモノ』としてめでたく街を追い出された。
さて、長々と面白くもねえ話をしたが――要するに俺の肉体は珍品なんだ。研究素体にはうってつけだろう? だから、情報は統制されているし、誰も外には出て行かない。誰も好き好んで体をいじくり回されたくねえからな。
そんなわけで、ガクカにたどり着いた俺はめでたく研究所行きになった。
そこで出会った。維央にも、雅知佳にも。
雅知佳がどうやってガクカに辿り着いたか、までは知らねえ。俺も俺の事情をあまり話さなかったし、話して盛り上がるような内容じゃねえしな。
当時のガクカは研究に没頭しすぎて財政難だった。だから金を稼ごうと必死だった。その結果、生まれたのが『裏研究』だ。人道倫理、良心の呵責――その一切合切をかなぐり捨てた研究のことでな、維央の夫で当時研究所の最高責任者だった宮雲一颯によって秘密裏に立案された。
維央は『裏研究』に強く反対していた。だが正面切って反抗すれば『裏研究』に関わるどころか、最悪ガクカからも追い出される。それじゃあ止められねえ。だから維央は心を殺して『裏研究』に関わり続けた。すべてのことを自分ひとりがやる、とそれまでいた研究員を全員追い出して。
らしくねえと言ったら「悪役を演じられて楽しかった」なんて言いやがる。本当にどこまでも……きれいだったよ。
出会いはじめはな、俺も維央のことなんざこれぽっちも信じていなかったんだ。やさしい顔して俺を絆そうとしているんだろうって。
でも、いるんだよな。本当に、骨の髄までお人好しってのが。
維央は、なんていうか、やさしさと無垢と純粋とお人好しが人間の形しているみてえなやつだった。
維央は毎朝早くから『裏研究』に回された被験者ひとりひとりに話しかけるんだ。それから全員分の飯を用意する。部屋だって、あいつがひとりで全員分を掃除した。拒否反応を示すやつにも根気よく話しかけたし、殴られようが噛まれようが髪の毛を引っ張られようが、維央は誰ひとりとして見捨てなかった。
いつだって笑っていて、弱音ひとつ吐かずに世話をしていた。
そんな維央のことを、雅知佳は手伝っていた。呆れるほど献身的だった。傍から見れば惚れているのは丸わかりだったよ。
だが、ただひとつ。大体のことをなんでもこなす雅知佳に、ただひとつだけできないことがあった。
雅知佳は男が苦手らしくてな、触れることができねえんだ。だから手伝いに支障が出ることが度々あるらしい。
恐怖症、というんだろうな。俺は心理学に明るいわけじゃねえから、正しくどう呼ぶのかは知らんが。とにかく、雅知佳は男の被験者の部屋に入れねえ。
被験者は男の方が多かったんだ。女子どもは維央が参加する前の実験でほぼほぼ……。
だから、俺ともうひとりが維央を手伝うことになった。一番害意がなさそうな人選だったんだろう、俺もその時は維央のことを疑っちゃいなかったから、快諾したよ。
そこから、関わるようになった。関われば関わるほどふたりを知れば知るほど、こんなやつらがいるんだって思った。――悪い意味じゃなくてな?
奇跡って言葉を安易に使いたくはないんだが、思わず使っちまうほど奇跡のような出会いだったよ。
雅知佳は頑固だった。一度こうと決めたら梃子でも動かねえ。頭が固いんだ。でもやるといったら成し遂げる奴だった。根性があるんだよ。それと――もともと人のうえに立つ才能があったんだろう、頭の回転も速かった。ずば抜けて、な。
維央は底抜けにやさしくて、お人好しで、……どこまでも無垢だった。維央の口癖は「未来はきっと明るい」でな、俺が何かと暗いことを言うとすぐ「雨汰乃、だめだよ。未来はきっと明るいんだから!」って返してきやがる。
最初は鬱陶しいと思っていたんだが……なんだかな、ずっと聞いていると本当にそうみたいに思えてくるんだ。維央にはそういう力があった。あれをきっと〝救われる〟って言うんだろうよ。
被験者たちの中にはきっと……、維央が神様みたいに見えたやつもいるはずだ。
維央は俺を含む、『裏研究』の被験者たちを全員逃がす計画を立てていると言った。話を聞いた時、俺は正直無理だろうと思った。
……だが、雅知佳は違った。
雅知佳は……「絶対に実現させよう」と意気込んでいた。自分が助かりたいわけじゃねえ、維央の喜ぶ顔が見たかったからだ。だから、躍起になっていた。
――俺も、できる限りは協力しようと思っていたよ。たとえ計画が失敗に終わっても、維央と雅知佳のふたりが生き残れれば、と。
――現実はそう甘くなかった。
突然だった。あまりに、突然すぎた。
一颯がやってきた。気持ちの悪ぃクソみてえな顔で白々しく〝何をしている〟だってよ。今思い出しても殺してやりてえ、はらわたが煮えくり返る。
全部筒抜けだったんだ。内通者がいた。そいつは皆の目の前で労いの言葉をかけられて、発覚した。俺と一緒に手伝いをしていた男だった。死にそうな顔でそいつは、その場に頽れた。
一颯は維央に迫った。〝お前が身代わりになって被験者になるか、ここにいる全員を引き渡すか選べ〟と。
維央は即答した。自分が身代わりになる、と。言うだろうと思った、だから……俺も雅知佳も止めた。でも維央は〝私は大丈夫〟って笑ってな。何も大丈夫じゃねえってのに……。
維央の答えを聞いた一颯は、更に条件を付け加えた。
だったら、子どもも一緒だ――と。
……維央には子どもがいたんだ。
維央は、研究所に隠していた子どもと共に研究所を出て行った。被験者たちは解放されなかった。だが、研究材料にはされずに済んだ。
被験者たちは内通者を殺そうとした。だが、そいつの動揺が尋常じゃねえことに俺が違和感を覚えて、止めた。聞けばそいつはもともと研究員だったそうでな、少しばかり毛色が珍しいってんで、『裏研究』送りにされたらしい。そいつは……頭がいいが少々……、気の弱い、押しに弱い男だった。
一颯はそいつの性格を悪用した。脅したんだ、〝自分の言うことを聞けばまた研究者に戻してやる〟ってな。最悪だろ? 縋るものがそれしかないってわかっていて、一颯は脅しをかけたんだ。
そいつの言葉を信じていたのは、俺だけだったよ。だから、俺だけがそいつの世話を焼いた。死なねえようにな。嘘をつかれているなんて思っちゃいなかったさ。
俺は昔から目利きが得意なんだ、物もひともな。
俺はそいつの世話をしながら、ほかの被験者――雅知佳たちは、維央の帰りを待った。あいつがいつ帰ってきてもいいように、部屋を掃除した。飯も作った。みんなで……、出迎えるために変わらねえ生活を送っていた。
……そして、維央は帰ってきた。
ガラスの箱に詰められた変わり果てた姿で。
――ひとの、形をしていなかった。肌色の肉の塊に滅茶苦茶な手足が生えていたモノがガラス張りの箱に詰め込まれていた。でも、維央の口癖を言うんだ。「未来は明るい、明るい、明るい」って。
気が……、狂いそうだったよ。でも、雅知佳は……、雅知佳は。
………。……………。……。……、………。
……、っ……すまねえ。
雅知佳だけはガラスの箱の中に押し込められた維央に話しかけ続けた。
天気だの、今日あったことだの、些細な事全部、維央に――維央だったモノに話しかけ続けた。
正直、見ていられなかった。
それが最悪の終わりであればよかった。こんな最善なんて笑っちまうが、でも本当に。強く思うよ。
――ここで話が終われば、一番良かったって。
終わらなかった。最悪はまだ続いていた。
突然、維央が暴れ出したんだ。箱を割って、巨大化した。一颯がなにか仕込んだんだろうな、そこにいる全員を殺そうと暴れた。ひとりも殺しちゃならねえ、と俺たちは懸命に被験者たちを逃がした。
そして絶対に――絶対に、雅知佳だけは殺させねえと俺は我武者羅だった。
その時、聞いたんだ。聞いちまった。
「子ども」って。
連れて行かれた子どものことだとすぐにピンときた。
俺と雅知佳ともうひとりで、あちこちを捜した。子どもを見つけたら正気に戻るんじゃねえかって……縋るような気持ちだった。
そして、見つけたよ。ガラス張りの真っ白な部屋に、金色と青色の髪をした赤い目の双子がいた。
ああ、……そうだ。
――唄爾と呉綯は、維央の子どもだ。
雅知佳は躊躇ったが、俺はこれしかねえと思った。幸い、その時一緒にいたもうひとりが双子と面識があってな。あいつらは案外物わかりが良かった。ああ、よかった、これでなんとかなる――と俺は、……馬鹿みてえに安心しちまった。
最悪は、最悪しか連れてこねえのに。
ふたりは維央を殺したんだ。
雅知佳の目の前で。
そうやって生き残ったのは俺を含めて五人だった。俺と兄弟ともうひとり。そして……雅知佳だ。
雅知佳は生き残ったメンツを見て言ったよ。
――女は私ひとりか。
全てに絶望した顔をしていた。そりゃあそうだよな。
最愛を殺した男と最愛を裏切った男と何の役にも立たなかった男。
――そういう顔にも、なるさ。
そうして、袂を分かった。以降はお前らの知る通りだ。
兄弟を連れてくるべきじゃなかったと思う反面、最後に維央が……笑ったような気がして、……。
正直わからねえ。
兄弟の身元は俺が責任を以て引き受けた。もうひとり生き残ったやつも引き受けるって言ってはくれたが、そいつは医学の心得があるって話だったから、やめておけと言った。
あいつらは食欲が性欲に置き換えられている。……身が、持たんからな。
…………。
……………。
――これは後から知った話だが。雅知佳はどうやらガキの頃に、実の父親に……クソみてえな話だが、……とんでもない目に遭わされていたそうだ。それで、……臓器を失っている。
女が唯一持ちうる臓器をな……。
俺の体のことも、もしかしたら知っていたかもしれねえな。
でもそんなの、俺にはわからなかった。男が苦手だっていうくらいにしか、雅知佳は表に出していなかったんだ。……やさしさだよ、あいつの。
もしかしたら変わろうとしていたのかもしれねえな……でも一颯がそれをぶっ壊し、あまつさえ維央を兄弟が殺した。
たぶんあの瞬間、雅知佳にとって男はみんな敵になったんだろう。だから創ろうとしているんだ。
野郎なんかいねえ、女が泣かねえ理想の世界をな……。
◆
そこで雨汰乃さんは言葉を区切った。
何を――、どう、言葉にできるのか。
声が出なかった。代わりに、
「……ッ」
涙が机の上に落ちた。一粒こぼれると後はとめどない。
ぼたぼたと落ちていくそれを、ボクの意識で止めることはできなかった。
ボクは無関係だ。雅知佳さんの過去にも関わっていないし、そもそも維央さんというひとにも会ったことがない。
なのに、涙が止まらなかった。
一体なんの、どんな感情の涙なのか――自分でもわからなかった。
雅知佳さんのことを、ボクは知らなかった。
辛い思いをして憎悪が勝って暴走しているのだと思っていた。
違う。暴走なんかしていない。
彼女は、ずっと正常だ。
彼女を壊したのは、世界だ。
この理不尽極まりない箱の中で、見出した希望を奪われて。
幸せなんかこの世にないと思い知らされた彼女は、だから創ろうとしている。
創るための犠牲に、自分を追い詰めた者たちを贄にして。
だとすれば、ボクに。
一体、ボクに何ができるのだろう。
「遊兎都……」
「す、すみま、……せ……ッ、あ、の、っ、……と、まら……くて……」
必死に涙を拭うけれど、全然治まらなかった。
蜜波知さんが背中をさすってくれて、凛彗さんがボクの頭を抱き寄せて撫でてくれていた。ネウも膝の上で心配そうに見上げている。
やさしさが痛かった。ボクが泣く意味なんてかけらもない。意義もない。理由もない。
なんで、ボクが泣いているんだ。
「すまない、辛い話を……聞かせたな」
「い、……いんで……ッ、あの、っ、……ボクが、……なく、……のは……ちが、ッ……う、て……」
「……ありがとう」
雨汰乃さんの大きな手がボクの頬に流れる涙を拭ってくれた。
どうしたらいいのだろう。ボクに、できること――って?
いろんな感情がぐちゃぐちゃになってしまって、どう言葉にしていいかわからなかった。
ボクはひたすら流れる涙を拭っていた。
久遠寺雅知佳。
あのひとは今。
――何を思って星空を見上げているのだろうか。




