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Ep.55「知らないキミ」

 振りかぶられた拳をぎりぎりで避ける。風がボクの眼前を過ぎ去っていった。

 避けたと思いきや、反対側からもうひとつの拳が飛び出してくる。ボクはそれを避けるために上体を屈ませた――が。屈んだ先には膝があった。鼻のあたりに強い衝撃を受ける。じわ、とあふれ出す液体の感覚に、ボクはどうやら鼻血を出したらしいと認識した。顔を見た(すい)君が目を大きく見開いて慌てだす。


「お、おあ……ごめん」

「だ、大丈夫……」


 鼻血を拭ってボクは笑う。

 あの後、ボクは翠君に「手合わせがしたい」とお願いした。翠君は少しびっくりしていたようだけれど、すぐ意図を理解してくれたようで「いいよ」と快諾してくれた。――の、結果がこのざまである。

 翠君は体術に優れている。身のこなしが軽やかなのは二年前のいざこざで知っていたが、目の当たりにすると手も足も出なかった。


「目で追わないほうがいいよ。目で見るんじゃなく、気配を感じ取ったほうがうまくいく。回避は攻撃が来てからじゃなくて、攻撃の予備動作が起こった時にどこに当たるか予測してから的確に動いた方がいいんだ」

「……なるほど、予備動作か」

「そう。殴る時、どうやったって腕を引いたり、体をちょっと捻ったりする、でしょ? そういうの」

「……難しいなあ」

「うーん……こればっかりは今日明日で手に入る技じゃないから……でも少しでも感じ取れるようになったら回避もしやすいし反撃も抜群に当たるようになる、……と思う」

「わかった。……よし、血も止まったし。もう一回お願いします」

「りょ」


 そして再び、向かい合う。

 ボクは特別戦闘に秀でているわけではない。自衛の手段があるってだけで、真剣勝負になったら差は歴然だ。ひとを殺す役目は凛彗(りんぜ)さんが請け負うと言ってくれたけれど、――甘えてばかりではいけない。


「行くよ」

「うん!」


 だってボクは女王様になると決めたから。

 その名に恥じぬ実力を手に入れなければならない。


 ◇


「ユ、ユウ君……!?」

「おや」


 凛彗さんがボクの顔を見て目を丸くした。皇彌(おうみ)さんは理由がわかったのか、困ったように顎に手を添えるだけだった。

 お互いに手合わせでできた傷を治療しているところだった。


「あ、おかえりなさい凛彗さん。イテテ」

「皇彌さんだ、おかえりなさい。おっと、ごめんね。えぇっと、わ、はがれないや……えいこら、ぐぬぅ……」

「……ユウ君……。その怪我は、どうしたの?」


 しゃがんでボクと目線を合わせる凛彗さん。

 心配してくれているのが、目を見てすぐわかった。


「翠君に手合わせをお願いしたんです。それで、ちょっと」

「……手合わせ?」

「はい、ボクも強くなりたいので」


 凛彗さんはなにも言わなかった。ただやさしい顔で、ボクのつむじに口づけをした。

 後ろで見ていた皇彌さんは、ふう、と溜息をもらすと「ほどほどになさい。あなたは手加減が苦手だから」と言って翠君の頭を撫でた。それから真面目な顔で「遊兎都(ゆうと)君」とボクを呼んだ。


「滞在中、凛彗の身はこちらで預かります。無理をさせるつもりはありませんが、私は手を抜くつもりもありません。多少の怪我についてはご容赦いただければ」


 皇彌さんが跪いて真剣な眼差しで言うので、ボクも姿勢を正す。ボクに(なら)って翠君も背筋を伸ばすのが傍目に見えた。


「はい、わかりました」

「……あと、翠玉」

「うん」

「……治療は私がやります」

「あちゃー……」


 ボクに施された手当を見て、皇彌さんがもう一度溜息をついた。

 翠君は、ちょっと不器用なのだ。


 ◇


 それからほぼ、毎日。ボクは翠君と手合わせを行った。

 場所は離れの近くの、竹林。翠君曰く、見通しの悪い場所で鍛練すると、上達が早いらしい。

 最初はやられっぱなしだった。時に気絶することもあってネウに「そこまでする必要あんのか」と呆れられた。

 しかしながら、手心を一切加えない翠君の鍛練のおかげか、徐々に攻撃を――紙一重ではあるけれど――避けられるまでに成長した。怪我をする回数も日に日に減ったので、皇彌さんの手を煩わせる頻度も少なくなった。最初の頃より、という話だけれど。


「っ! っと……ぶないっ!」

「おっ、そう――きますか、であれば……!」


 伸びてきた腕を捕まえて、引き寄せるには力が足りないのでボクの方から近づく。目と鼻の先に翠君がいる。ボクは躊躇う気持ちに一時的に蓋をして、首を思いっきり振って頭突きをかました。「ふぎゃ」という翠君の声がしたが、彼は怯まなかった。鼻から血を垂らしながらも、ボクの首に手をかけて後ろに引き倒した。思いっきり後頭部をぶつけた。たんこぶになっていることだろう。頭上から血の雨が降り注いだ。


「……」

「……」

「……」

「……」

「……ちょっと休憩しようか……」

「そうだね……」


 ボロボロだった。主にボクが。

 頬や腕に青あざができていて、血の味がしているから口の端が切れているようだ。ひとまず応急処置をしてから、近くの川で汲んだ水を頭からかぶった。興奮して熱くなっていた体がすっと冷える。

 びしゃびしゃになった服は脱いで、竹の間に渡した木の棒にひっかけておいた。今日はよく晴れているから、そのうち乾くだろう。

 ふたりとも上半身裸の状態で小休憩。あぐらをかいた膝の上を、我が物顔でネウが陣取り昼寝していた。その体毛をやさしく撫でてやる。

 ――やっぱり翠君の体の傷は薄くなっているみたいだ。

 翠君は手や足の筋肉を伸ばしながら、ボクを見る。


「ゆと君、最初よりもずっと動きがいいよ。体力もついてきたみたいだし、拳にも重みを感じるようになった」

「ほんと? よかった……。肉弾戦はほとんど得意じゃないから得物を取り上げられると完全に無力になるんだよね」

「僕は武器が使えるのがすごいなって思うよ。前に皇彌さんの拳銃を借りたことがあるんだけれど、三秒で壊したし」

「壊した……?」

「うん。皇彌さんも〝何をどうしたらそのような状態になるのかこの皇彌を以てしてもまったく理解不能だ……〟って言ってた。あの時の皇彌さんのぽかーんとした顔は面白かったなあ……」


 翠君はその時のことを思い出したようで少しだけ笑っていた。


「なにが、あったの?」

「僕が触れた途端、拳銃が分解したんだよ」

「な、なぜ……? 触れただけで分解するなんてこと、あるの……?」

「さあ。この世は摩訶不思議であふれているよね」


 あっけらかんと翠君は言う。

 それにしても、貸した拳銃を三秒で壊されても怒らない皇彌さんは温厚というかベタ惚れというか。でも皇彌さんはたくさん武器を所有していそうだから、ひとつぐらいいいのかな。いやいやでも武器の手入れを徹底してしそうなひとだし……。

 その時ふと思い立った疑問を、翠君に投げかけた。


「ねえ翠君」

「うん」

「皇彌さんっていつも冷静だよね」


 ボクが知る限りでは、皇彌さんは基本静かで穏やかだ。時折語気が強くなることはあるものの、感情を露わにする瞬間を見た覚えがない。

 翠君は首を傾げて唸る。


「うーん……うん。うんうん。そうだね。いつも真面目な顔してるね」

「怒らなそう、だよね」

「え、怒るよ? なんだったらよく罵倒されているけれど、僕」

「え!? ば、罵倒……!? 額に口づけを贈るようなひとが、罵倒……?」

「ふは、その顔かわいい。おもしろいね」

「いや、全然想像できなくて……罵倒、するの? 皇彌さん」

「するよ。よく〝クソガキ〟だの〝生意気〟だの言われる。僕は嬉しいから問題ないんだけれどね」

「随分乱暴な物言いするんだね……想像つかないや」

「あんまり人前じゃ崩さないからね」

「翠君の前だと素に戻るんだ、皇彌さん」

「うん。最初は僕にも敬語使っていたんだけど、僕がいやだからやめてって言ったんだ」

「へえ」

「せっかく会えたのに壁を張られているみたいで、すごく気分悪かったんだよね」

「本当に嫌そうだね……」

「うん、本当に嫌だった。あ、あとね。あのひと、見た目にいいひとって感じだけど案外そうでもないよ。すぐひとの頭握りつぶそうとするし」

「握りつぶす……!?」

「そう。外面がいいんだ」

「そ、そうなんだ……ひとってわからないものだね……」

「まあね。僕も猫かぶりって言われるからお互い様なんだけど」

「へえ? 全然見えないけれど……」

「うーん、まあ信じられないか。こういうの、とか?」


 言って翠君はべえ、と舌を出した。赤い舌の真ん中に、銀色の……ピアス?


「えっ、翠君それって」

「うん、舌ピ。あ、ちなみに両耳合わせて十個くらいピアスあるよ。あとおへそもね」


 翠君は次々と自分の体に施されたピアスを見せてくれた。

 わあ、すごい。ボクも開いてはいるけれどそこまでじゃない。

 ふだん、両耳が隠れているから気づかなかったや。

 どれもシンプルなものだったけれど、並んでいる姿は圧巻だった。

 でも――、


「……ピアスをたくさんしていることって、猫かぶりってことになるの……?」

「あれ、意外とこれ見せるとびっくりされるのだけれど……。ゆと君はいいひとなんだね」

「……そうかなあ……」


 よくわからないけれど、翠君が嬉しそうだからいっか。


「さて、と」


 翠君が立ち上がった。鼻血も止まったようだ。

 でもよく見ると翠君っていい体しているよなあ、筋肉もちょうどよい感じでついているし。

 そんなことを思って眺めていると、「どうかした?」と声をかけられた。


「あ、ううん。ごめん、なんでもない」

「そう?」

「筋肉がすごいなって思っただけだよ。翠君って意外と筋肉質なんだね、お姉さんが好きだから?」

「え? ああ、これね」


 翠君が力こぶを出して見せた。おお、思ったより大きいな。


「糸を出すのに筋肉の収縮を利用するから勝手につくんだよね」

「ああ、そうなんだ。やっぱ不思議だね、翠君のカラダ」

「まあね。僕だって実際わかんないとこあるし」


 人体の不思議ってやつだなあ。

 しみじみ思っていると、不意に頬を握られて伸ばされた。


「へ?」

「僕はゆと君のこのもちもちしたほっぺたのほうが気になるよ。ゆと君、お餅か求肥でできてたりしない?」

「へ? ほれは(それは)はいんははいはは(ないんじゃないかな)

「ふふ、何言っているのかわかんない」


 翠君は面白そうにして、手を放した。ちょっとだけ引っ張られた頬が熱を持っている。


「僕さ、あんみつの具材で言うと求肥と白玉が好きなんだよね。ゆと君がもしどちらかなら、おなかすいたときに食べられていいな」

「え……」


 笑う翠君は蠱惑的だった。

 見たことのない色がその目に宿っている。

 どきん、と心臓が跳ねた。


「じょ、冗談だよね……?」

「うん、冗談だよ。でもね、ゆと君」


 笑ったまま、ぐん、と翠君が近づいてきた。きれいだとばかり思っていた翠君の目が、まるで野獣みたいだった。

 寸前に迫った彼は、ボクの記憶にいるどの翠君とも一致しなかった。


「――もし、ゆと君を傷つけるひとがいたら、教えてね。僕がそいつを生まれたことを後悔するくらい拷問、してあげるから」

「……」


 冗談を言っているようには見えなかった。

 あ、あれ……もしや、これが猫を被っていない翠君……?


「……ありがとう、でも大丈夫だよ」

「?」

「ボクは平気さ、気持ちはありがたく受け取っておくね翠君」


 そう、平気。平気でなくてはいけない。

 だってボクは女王様なのだから。

 笑いかけると、翠君は途端ふだんの澄んだ顔になって「そっか」と言った。


「ゆと君がそう言うなら。――じゃあ、続き始めようか」

「うん、よろしくお願いします」

「りょ」


 そうして、向かい合ってボクは拳を握った。

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