Ep.54「万華鏡と夜の話」
もう一度翡翠さんに礼を言ってから、ボクらは部屋を辞した。
離れに戻ると、皇彌さんと凛彗さんが出て行くところだった。皇彌さんは古びた大きなトランクを、凛彗さんは大きく膨らんだ袋を手にしていた。
「ああ、おかえりなさい翠玉。おふたりともお元気でしたか」
皇彌さんの問いかけに翠君が「「ただいま。うん、いつも通りだったよ」と答え、視線を彼の提げているトランクに向けた。「皇彌さんは……、祠のほう?」と翠君に訊かれた皇彌さんが「ええ」と肯定した。
「あのあたりなら多少吹っ飛んでも差し支えないでしょう」
「確かに。そうだね」
短い会話の後、お約束のように皇彌さんは翠君の額あたりに口づけを落とした。皇彌さんがボクを見る。夜の闇のような、漆黒の目だ。吸い込まれそうでいて、しかし心の奥を決して見せない不思議な色合いである。
「遊兎都君。凛彗を、少しばかりお借りしますね」
「……はい」
ボクが頷くのをみとめ、皇彌さんは眼鏡の位置を直した。
凛彗さんはボクに向かって、「……強くなってくるね」と緩く笑った。
「うん。いってらっしゃい、凛兄ちゃん」
「……」
「……? 凛兄ちゃん?」
「……」
固まってどうしたんだろう、と思って見ていると突然頭の後ろに手が回ってぐいと引き寄せられた。唇を塞がれる。触れるだけの口づけだった。顔が離れると凛彗さんは満足したように微笑んで、「……それじゃあ」と言って去っていった。
「……?」
「……大人気な」
翠君の言葉に、ボクはますます疑問が募るばかりだった。
◇
翠君はパソコンを取りに書斎に行き、ボクは朝いた部屋に戻った。
部屋の中ではハニーBが、体の周りに小さな端末をいくつも置いて難しい顔をしていた。携帯の形をしているものもあれば、小さなパソコンのような形をしているものもある。なにがどういう機械なのかボクにはさっぱりわからない。
「いつの間にそんなに……あ、ただいま帰りました」
「おう、おかえり」
「……戻ったか」
ハニーBのいるところとは対角線上の隅っこで丸まっていたネウが、小走りにやってきた。足の甲を叩いてフードに入れろと催促をするので、抱き上げてその通りにする。するとものの数分で寝息が聞こえた。
ボクのフード以外で眠れないというのは、どうやら本当のことらしい。
「ハニーBの顔、ですね。何か気になることでも?」
「『エデン』がなにやらいやーな動きをしているんだが……瑠々も腕上げたもんだぜ、入ろうとすると速攻で暗証番号変えてきやがる。だから全然プログラムに侵入できねえ」
瑠々――愛瑠々さん。
ハニーBこと蜜波知さんの妹である。
彼の唯一の家族。
「……あの、蜜波知さん」
「うん?」
「……後悔、していないって言ってましたよね」
「ああ、してないぞ」
「……だったらボクも。……考えるの、やめてもいいですか」
「え?」
蜜波知さんが驚いた顔でボクを見上げた。
家族をボクのせいで、裏切った事実。それは覆ることはない。
でも、だからといってボクがそのことを引きずって、彼に負い目を感じるのは、彼の覚悟に対しとても失礼だ。
彼はボクに同情をされたくて話したわけじゃない。いつか知られる事実を、バラされるのに先んじて自らの口で伝えた。
ボクは端末を踏まないように避けつつ、蜜波知さんの隣に座った。
「あなたが唯一の家族を裏切ってボクの傍にいてくれることに対して、ボクは正直無関心でいられません。今でも本当によかったのか、考えるときがあります」
「……」
「でもあなたは覚悟をしてボクを好きになって一緒にいてくれている。だから考えるの、やめます。これでよかったのかとか、なんでボクなんだとか」
「……」
「残酷、なことかもしれないけれど……これは、あなたの気持ちを大切にしたいボクの覚悟です。ボクでよかったと思えるように、ボクも腹を括ります」
酷い話だと思う。でも、ボクができる最大限はこれだけだ。
女王になると決めたなら、己を信じて従う者たちに惑う姿は見せてはいけない。
堂々と、いっそ偉そうなほどに――ボクは振る舞うべきである。
空っぽの自信でも、ないよりマシだろう。
蜜波知さんの声はしばらくなかった。
「すみません、変な話をして。何かあったら教えて、」
「――好きだ」
「へ?」
熱のこもった愛の言葉と共に抱き締められる。ぎゅう、と力強く。
「……え? あ、……蜜波知さん?」
「はあ……お前ってほんと。……万華鏡みてえなやつだな」
「ま、万華鏡?」
「回すたんびに違う色を見せて……同じ顔は二度と見せねえ。だから目が離せねえ」
「……なるほど……」
蜜波知さんが頭を撫でながら話し始める。
絶妙な力加減だから、突然の抱擁に早鐘を打っていた心臓があっという間に静かになり始めた。
「ガキの頃、唯一のおもちゃがそれだったんだ。ふたりそろってよ……もう、全部の模様を見たんじゃねえかってくらい、何度も何度も覗いたさ」
「……偶然、ですね」
「あ?」
「ボクも初めて凛彗さんに出会ったとき、世界がそんな風に見えたんです。色があふれてその時々で全部変わって、同じものは二度とない……蜜波知さんにとってのボクもそんな感じだったとは……。偶然だなって」
「……ばーか」
「?」
蜜波知さんがボクと距離を取る。真っ直ぐで無邪気な琥珀色の瞳だ。
額がぶつかった。
「そういうの、運命って言うんだろ」
「!」
くたびれたおじさんみたいな時もあれば、頼りがいのある情報屋で、でも初心な少年みたいで、だと思っていたら獣みたいにぎらぎらしていて。
「……あなたも存外、万華鏡みたいなひとですよ」
そう言うと「じゃあ俺たちお似合いだな」なんて笑う。
笑顔を見ながらボクは改めて、このひとのことが――蜜波知さんが好きだと思った。
◇
パソコンを持って戻ってきた翠君が「……お邪魔でしたかな……」と申し訳なさそうにするので、大丈夫だよと笑って答えた。彼の持ってきたパソコンを手にした蜜波知さんは、水を得た魚というより――おもちゃを手にした少年みたいに、生き生きと活動し始めた。
邪魔をしてはいけないと、ボクらは部屋を後にする。離れにはいくつも部屋が用意されているらしいが、全く使っていない部屋ばかりだという。
「こんなに広いし、ふたり暮らしじゃそうなるよね」
「うん。でも皇彌さんが掃除を欠かさないからいつだってきれいなんだよ」
ボクが通されたのは翠君の部屋だった。翠君らしく、最低限のものしか置いていない。
足の短い机――文机というらしい――と座布団、あとは本がいくつか。
翠君はわざわざ、ちゃぶ台を襖から取り出してお茶とお茶請けの羊羹を用意してくれた。あとでハニーさんにも持っていくよ、というからそれはボクがやるからいいよ、と言っておいた。
「翠君はあの後どうしているの? ずっとここに?」
「うん。本当は皇彌さんの仕事を手伝いたいんだけど、早起きが苦手だからさ。皇彌さんの仕事って大抵朝早くて、僕が起きるのを待っていると遅刻しちゃうから大体家にいるよ」
「皇彌さんは今、何の仕事しているの?」
「ゆと君と似た感じかなあ……『便利屋』って感じ。でも主に諜報活動とか暗殺任務が多いって言っていたよ」
「諜報活動に暗殺任務……すごいね」
「まあ、皇彌さんちって知る人ぞ知る『殺しの名門』の家だし。それに瑪瑙堂はもう皇彌さんしかいないし、頼りにするひとは多いみたいだよ」
「え? 瑪瑙堂は皇彌さんしかいないって……どういうこと?」
「皇彌さん、自分の手で一族郎党根絶やしにしているんだよ」
「ええっ!?」
ボクが驚いてお茶をひっくり返すところだった。そっとちゃぶ台に置く。
「じ、自分の手で……?」
「そう。皇彌さんって落ちこぼれだったんだって。だから家族にすごくいじめられて、見返してやろうって思って努力した結果が、アレ。『才能型規格外』なんて呼ばれるくらいの天才になりましたと、さ」
その話を聞いて不意に、ハニーBと皇彌さんの会話を思い出した。
――いないものとして扱われていましたので。
ハニーBの情報からも漏れるほどに、存在を抹消されるということ。
想像ができなかった。
「だからもう瑪瑙堂を名乗れるのはこの大陸上、皇彌さんしかいないんだよ」
同姓同名がいたらどうしようもないけどね、と冗談のように付け加えて翠君はお茶を啜った。
「ひとまず僕のできることといえば料理を作ったり掃除したり洗濯をしたり、なんだけど。皇彌さんが大体やっちゃうから……僕は穀潰しだなあ」
飄々といっそ清々しいくらいに言ってみせる翠君。
でもわずかに、寂しさが滲んでいる。
「翠君は、本当は手伝いたい?」
問うてから少し意地の悪い質問だったかなと後悔する。けれど翠君は機嫌を損ねるようなこともなく、切り分けて口に運んだ羊羹を咀嚼しながら「そうだねー」と相槌を打った。
「僕がもう少し早く起きられれば。でも……、苦手なんだよね、朝日は眩しくて目が痛くなるから」
「そっか。そういえば屋敷にいた頃もいつも眠そうだったね」
「うん、夜遅いのに朝早いから嫌だったよ。ロクなことされなかったし」
夜はほとんど眠られやしない。そのくせ、朝起きればすぐに『奉仕活動』をさせられる。
最悪の生活だった。
「――だから、夜が好きなんだ」
「夜?」
「そう、夜。皇彌さんの目の色と同じ、夜。だから、最初にあのひとに会ったとき、夜がやってきたって思ったんだ。真っ暗で星も月も出ていないような、そんな静かな夜が。でもね、僕をじっと見るときだけ……その夜に炎が灯るんだよ。それを見るが好きなんだあ……」
「……」
皇彌さんのことを語る翠君の目は、とびきりやさしくてきれいだった。
「……翠君は本当に皇彌さんのことが好きなんだね」
ふと口にした言葉に、翠君はふわりと笑った。
「うん、大好きだよ。あのひとは僕のやさしい夜だから」
その言葉に余計な感情なんて一切なくて。
ただ純粋に好きという気持ちだけがあふれていて、ボクはつられて笑った。
凛彗はマウントを取っていきました




