Ep.53「天つ風の翠」
翡翠さんに招かれ、ボクらは部屋のなかに入る。広かった。ただひたすらに広い。途方もなく、広い。
室内には彼女と、彼女の夫という嵯峨野小路志暈さんのふたりだけだった。
翡翠さんは翠君と同じ金髪で、緑色の目をしている。華やかな美人だった。
目鼻立ちがはっきりしていて、翠君が〝風〟ならこのひとは、風に揺れながらも手折られることは決してない、強さとしなやかさを併せ持つ大輪の花って感じだ。
対する志暈さんは鎧のように筋肉で身を覆っていた。かなり大柄である。
身長も二メートルくらいありそうだった。首も腕も土管みたいに太い。きりっとした凛々しい見た目をしているけれど、だからといって威圧感はなかった。親しみやすさがにじみ出ている。いい人なんだろうな、と直感した。
――こっそり翠君が教えてくれたけれど、どうやら翡翠さんは筋肉好きらしい。よく志暈さんの筋肉を愛でているそうだ。
翡翠さんは部屋の中央部分に座している。薄い布を幾重にも重ねた服を纏っていて、肌色が所々透けている。けれど下品に見えないのは、彼女の明朗とした雰囲気のおかげだろう。
「お初お目にかかります、私は纐纈翡翠。纐纈一族の族長を務めております。こちらは私の伴侶、嵯峨野小路志暈様です」
「こんにちは。よろしく」
はきはきとしたよく通る声音で翡翠さんが、低く心地よく響く声で志暈さんが、それぞれ名乗った。ボクもそれに合わせて名乗る。
「梵遊兎都です、翠君とはお屋敷にいた頃に」
「翠玉からお名前とお噂は伺っております。お会いできてとてもうれしいわ」
「いえ、こちらこそ……お世話になりました」
「――あ」
「へ」
突然翠君が声を上げるので、何事かとそちらを見ると「服のこと話していなかったね」と言う。
「服……?」
「ほら、僕たちの服ってあちこち肌が見えているでしょ。ゆと君に一応その話しておいたほうがいいかなって」
「え?」
翠君の服でまず目に留まるのは、背中。緩く羽織った上着は背中部分が左右に大きく割れていて、その部分を覆うようにベルトがリボン結びになっている。動くたびにひらひらするので、ネウが「気が散る……」とちょっと不機嫌になっていた。猫の本能に搔き乱されるのがお気に召さないらしい、かわいい。
他は両腕、あとおなか、それと脚部――鼠径部と太ももはがっつり見えている仕様だ。
言われてみれば、露出が多いように思うけれど、大事な部分はちゃんと隠されているし、そこまで驚くような恰好だろうか。裸同然、とかだったらさすがにボクも驚くけれど。
「僕たちは肌のきめの部分に『出糸突起』ていうのがあるんだ。足の裏以外全部にあって、そこから糸を出すんだよ。特に姉さんなんかは、一族全員の動向を把握しなくちゃいけないからね。ああして背中とか太ももとか、とにかくいろんなところから糸を出して探っているんだ」
『糸』は目に見えないんだけどね、と翠君。
指し示された腕はつるつるで真っ白だ。今の説明を聞くと、露出が多い服と肌がきれいな理由がわかった気がする。――全身が武器庫ってことか。
「きめが詰まると糸が出せないからね。肌の手入れには人一倍気を遣うんだよ」
ゆえに、温泉か。なるほど、合点がいった。
翡翠さんが困ったように、首を傾げる。
「驚かれましたでしょうか、申し訳ございません」
翡翠さんの格好のことを言っているのだろう。
ボクは「大丈夫です」と答えた。
「これが纐纈では正式な族長の衣装なのです。――申し訳ございません。外街では肌を見せる行為は、はしたないと言われているのは存じておりますが。……いかんせん肌を覆ってしまうと一族掌握ができませんので……」
「いえ、ほんとうに。――神々しいなあ、て思ったくらいで」
「こ、神々しい……!?」
「神々しい……」
ボクの変な表現のせいで、姉弟がそろって困惑させてしまった。
いたたまれない気持ちになって、ボクは下を向いた。
沈黙が降りて、少し経って、不意に「……本当によかった」という声が聞こえた。
顔を上げると、翡翠さんが眩しいものを見るような目でボクを見つめていた。
「翡翠さん……?」
「あなたのような方がいてくださって、本当によかった。偏見の目を持たれることも少なくないのよ、妙な勘違いされることも日常茶飯事だったから」
「……あ」
そういえば、路上で男を誘う娼婦たちはそろって、露出度の高い服を好んでいた。飢えたロクデナシはそもそも服なんて関係なく襲いかかるものだけれど――肌を見せていた方が、その傾向が強かったのは事実だ。ボク自身も男娼時代に経験はしている。
でもだからといって、翠君の格好や翡翠さんの格好だけを見て、色好きだと思うのはあまりに単純だし、愚かだ。誘う言葉を連ねているのならともかく、そうでないなら――それは単なる襲う側の都合のいい責任転嫁である。
「そういうこともなく、ただ純粋にありのままの、翠玉を受け入れてくださったあなたは、本当に素敵で、良い方だわ」
「そ……、そんなこと……、ありま、……せん」
褒められ慣れていないから、どうしていいかわからずボクはただうなじを掻く。ちらっと翠君を見ると、彼は嬉しそうににこにこ笑っていた。
面映ゆい気持ちに肩をすくめる。
「……翠玉の処遇を、私はどうすることもできませんでした」
「……」
翡翠さんは悲しそうに目を伏せていた。
その時のことを、思い出しているようだった。後悔が滲んでいる。
翡翠さんのせいではないだろうに、彼女は自分を責めるような物言いで続けた。
「母にも父にも訴えました、〝こんなことしてなんになるの、翠玉が何をしたって言うの〟って。でも聞き入れてもらえなかった……。とても悔やみました。でも……」
翡翠さんがそこで一旦、言葉を区切る。そして顔を上げた。
宝石のような目には、歓喜と悲哀が混ざり合っていた。
「でもね、その時、皇彌さんがいらしたの。まさに奇跡のようだったわ……、その時だけ神様を少し信じました。皇彌さんは翠玉のことをとても大切にしてくださっていたから。……だから、託しました。そして、私はふたりの帰る場所を作ろうと尽力しました。私は族長だから……一族を変える力を持っていたから」
翡翠さんがその時のことを思い出すように言う。
悔しいというその言葉の通り、彼女の声の端々に悔しさが滲んでいた。
「翠玉ね、こんなに可愛くって尊いのに、同年代のお友だちがいなかったんです。一族の世話役が族長の弟ならば……って。交流すること自体をやめさせたんです。同じところにいるべきでない、上を目指せって……。なのに、あんな仕打ちを。……あんまりだわ」
嘆くように胸を押さえる翡翠さんに志暈さんが寄り添う。屈強な腕が肩を抱き、その立派な胸筋に翡翠さんがしなだれた。
――いやいや。どこ見ているんだボクは。しかし思わず目で追うくらい、志暈さんの筋肉はすさまじい存在感だった。凛彗さんも筋肉質ではあるけれど、あそこまで隆起していない。だから余計に目に入るのだろう。
そんな邪な思考をしているところに、「別に僕は平気だったけど。姉さんがいたし」と翠君の声が聞こえた。ああ、翠君らしいなあと感心していると、「翠玉ッ!!」と叫び声がした。翡翠さんが翠君に抱きついていた。頬と頬がくっついて、お互いに押しつぶされるくらいに勢いで。
「ああ……ッ本当になんって……! なんっていい子なの翠玉……!! 本当にあなたは私の天使だわ……!! その髪もまるで金糸のようね、目もなんてきれいな色をしているのかしら……」
「それは姉さんも同じだよ。ていうか纐纈一族はみんな一緒だよ」
「まあ! そうね、そうだったわ……! うれしい、おそろいね!」
「そうだね、姉弟だからね」
「ああ、あなたと血が繋がっているなんて本当に奇跡……!! 今なら神の存在も容認できるわ!」
「うん、そうだね。いたらいいね」
先ほどの嘆きの姿から一転し、翡翠さんは翠君をほめちぎっている。
熱量の高低差に頭が追いつかず呆然としているボクの肩を、志暈さんが叩いた。いつの間にこんな近くに。わあ、目の前にいると本当にすごい筋肉だ、小高い丘なんてものじゃない、山だった。
筋肉の山――こと、志暈さんは少々困惑気味だった。
「驚かせて済まない。ああなると翡翠は暫く翠玉君を離さないんだよ」
翡翠さんは翠君に頬擦りしている。それはもう煙が出るんじゃないか、ってくらい。
すごい溺愛っぷりだ。感動すら覚える。
そんなふたりを眺めながら、志暈さんがしみじみ言う。
「あれを俗にぶらこん、と表現するらしいね。俺もあまり詳しくないのだが……ともかく翠玉君が大切なんだ、そういう彼女を好んで俺は一緒にいるわけだけれど」
ブラコン。ブラザーコンプレックス。
ああ、なるほどね……。
納得しながら見ていると続けざまに「翡翠は美しいだろう?」と志暈さんが言うので、ボクは素直に「そうですね、きれいです」と答えた。彼は噛み締めるように首を上下させた。
「翡翠は美しい。だからこそ、ああして何かを溺愛する姿もまた、この上なく美麗だ。惚れ惚れするだろう? 実際に惚れたら骨を折るけれどね、ははっ」
爽やかに笑いながら、〝ははっ〟なんて軽く冗談みたいに言われたが、志暈さんの筋肉を前にすると冗談には思えない。折るどころか粉砕されるだろう。恐ろしや。
志暈さんが、翠君を未だ腕の中に収め尊さを爆発させている翡翠さんを見た。つられて見遣ったけれど、頬がちぎれやしないか、ちょっと心配になった。
「――翡翠はね、一族を変えようと苦心している」
「……一族を?」
「纐纈に生まれる子が、どんな子であれ幸せでいられるよう力を尽くしているんだ」
「どんな子であれ……」
志暈さんが力強く頷く。
「ああ。纐纈のみならず『絡新婦』の血を継ぐ一族は女尊男卑の傾向が強くてね。男子に対する扱いがぞんざいなところがまだまだ多いんだよ。酷いところでは、今でも監禁だの折檻だのとやっているところがあるようだね」
「……そんなことを」
「だが、俺にそれを咎める権利はない。俺は部外者だ、纐纈にも『絡新婦』にも関わりのない男に口を出せない」
一族という囲い。枠組み。
その、外側にいるひと。
ボクも同じ。ボクも纐纈一族の問題に介入できない。
「だから……、俺は翡翠の目指す纐纈一族が一日でも早く実現するよう、彼女に誠心誠意尽くすだけさ」
「……」
志暈さんの、薄い灰色の目には覚悟の炎が宿っていた。それはひとえに、翡翠さんを愛するゆえだろう。
ボクは志暈さんの口から語られた、翡翠さんの志を噛み締めた。
――どんな子であれ、幸せでいられるように。
たとえばツクヨミ大陸全土を幸福にするなんて言ったら、荒唐無稽な話だと思うだろう。
でも、纐纈一族という括りのなかだけであれば?
翡翠さんは囲いを壊すことではなく、囲いのなかにある世界を変えようとしている。
「ああ、済まない。初対面の君にこんなことまで話してしまって」
志暈さんがはっとなったようにボクに謝った。首を振って「大丈夫です」と答える。
「いえ……。でも、どうしてボクにそんなお話を……?」
「君が翡翠の大切な弟の、友人だからさ。実際に会って俺も驚いたよ、君はとても澄んだ……たとえるなら、月明かりみたいな子だね」
「つ、月明かり……?」
「月明かりはひとの本性を暴き出す……だから君に話したくなるのかもね」
「えっ……」
「君はそういう魅力があるってことだよ」
「……どうも」
また、褒め言葉。慣れなくて委縮してしまう。
志暈さんとの会話がひと段落したところで、翠君と翡翠さんの距離が開いた。どうやら愛で終わったようである。翡翠さんが恥ずかしそうに両手で頬を押さえて「失礼いたしました……」とすすっと後ろに下がった。翠君はなんともない顔で赤くなった頬をさすっていた。
「お待たせ」
「……大丈夫?」
「うん、いつものことだから」
「そう……」
〝お疲れ様〟とねぎらうのもおかしな気がして、ボクは当たり障りのない返事をした。
最初の定位置に戻った翡翠さんは美しいかんばせに、ほんのりと羞恥の赤をのせたまま「すみません」と再度謝った。
「かわいい弟のこととなるとつい周りが見えなくなってしまって……。でも、あなたは本当に素敵なひとですね、会ってわかります。あなたは周りを救済するような……そんな慈悲深さがあります」
「えっ? そ、それは過言では……救済とか慈悲深いとか……そんな……。それに、救済……、救いだっていうのなら、それは翠君のほうですよ。お屋敷にいてずいぶん勇気づけられましたし」
どんな不遇でも、翠君は前を向いていた。そして彼は誰のことも、――自分自身の事も、責めなかった。
そういう〝何物にも侵されない〟意志の強さがある。
口を裂かれた当日だってなんとも顔をして「ゆと君とおそろいになったよ。……あ、こんなおそろいは嫌か……」なんて言って、ボクは屋敷に来て初めて声を上げて笑ったものだ。
彼の揺るがない強さがまるで――
「翠君は爽やかに吹き抜ける風のようなひと、だと思っています。その風に吹かれていると悩みなんて全部吹き飛んでいくんですよ。だから一緒にいてすごく安心します」
言い終えてすぐふたりの顔を見て、ボクは固まってしまった。
「……おあ」
「まあ」
姉弟そろって再び困惑。
また、やってしまったか……。
「ご、ごめん翠君。変なこと言って……っ」
翠君に謝ると、彼はぶんぶんと首が取れるんじゃないかってくらい、左右に振った。
「ううん。そんな風に言われたことなかったから……。うれしいな、ありがとうゆと君」
翠君の笑顔につられて、ボクも笑った。
翡翠さんも微笑んでいる。志暈さんも嬉しそうだった。
平和な空気があたりに漂い――そして、不意に冷たくなるのを感じた。
――ああ、そうだ。違う。
ボクは、翠君に会いに来たわけじゃ、ないんだった。
ボクは追われている。
『エデン』という大きな脅威に。
翠君にはボクらがどうしてここにやってくるに至ったか、いきさつは話してある。話を聞いてもなお、翠君は「気にしなくていいよ」と言ってくれた。
「……翡翠さん」
「はい」
「……ボクらがここに来たのは翠君に会いに来たわけではないんです」
「? と、いいますと?」
「ボクらは、『エデン』に追われています」
「まあ……」
ボクは『神霧教』で起こったことを掻い摘んで話した。
翡翠さんも志暈さんも黙って聞いてくれた。
「……おそらく翠君の身にも危険が及ぶ可能性があると思います」
「なるほど……」
「すみません、このお話を先にするべきでした。だから、そのボクは……」
「ふふふ」
「え?」
翡翠さんが口元に手を当てて笑ったので面食らった。
「ああ、ごめんなさい。――そんなこと、気にしなくて構いませんのよ。だって纐纈では普通のことだから」
「えっ、普通のこと……?」
唖然としていると、翠君が飄々と語った。
「纐纈一族ってみんな髪の毛金色で、肌がすべすべしてきれいだから割と高値で売れるんだって。儀式用とか観賞用とかいろいろ。だから危険とは常に隣り合わせでさ、だから本当に。ゆと君はあんまり気にしなくていいよ」
「……そう、なの?」
「うん、だから僕たちは人前に姿を見せないんだ。基本的に人間不信だから」
だから、〝人気がないのに視線だけを感じる〟街が出来上がったのか。
だとすると、皮肉なものである。その異様さが一部の熱狂家たちを集めてしまっているわけだから。
「――僕は誰彼構わず警戒しても意味がないと思うけれどね」
翠君が言った。そういえば、初めて会った時も翠君はボクのことを警戒するような様子はなかった。彼の語る纐纈とは一線画しているように思う。
「まあ見知らぬ他人を警戒するっていうのは当たり前だとしてもさ。すべてを敵だと思っている人生なんて、忙しくって僕は嫌だな」
「翠君……」
「ほどよく他人を信じず、ほどよく他人に興味を持つ。……バランスが大事だ、って皇彌さんも言っていたし。僕もそう思うし」
「……そうだね」
他人を信じすぎるのは、危険だ。
そのひとがどんなひとなのかがわからないうちは、こちらの手の内を明かしてはいけない。
でも、何もかもを信じられないのもまた危険である。
自分を見失うから。
「……翠君は、やっぱりすごいひとだね」
翠君の身に降りかかったことを考えれば、人間不信に陥ったって仕方ないのに。
纐纈という一族を恨んだって自然なことなのに。
翠君は透明だ。どこまでも透き通っていて、眩しい。
ボクの唐突な言葉に翠君は目を丸くさせたけれど、そのあと笑って「そんなことないよ、すごいのは皇彌さんだよ」と言った。




