Ep.51「満月は女王の手のなかに」
――夢を見た。
月はどこにいなくて、浜辺にも誰もいなかった。
波の寄せて返す音だけが響いている。
ざざん。
「――」
言葉にした名前は波にさらわれて消えた。
どこにいるのだろう。
どうしてボクはここにひとりでいるのだろう。
彼はボクになんて言っただろう。
『お前は梵遊兎都。オレは――』
オレは? なんて言った?
彼の、名前は。
「……らんかみお、ねう……」
それがこぼれ落ちた時、ボクは忘れていたすべての夢を思い出した。
そして、真っ暗だった空に黄金色の月がふたつ輝く。
――ふたつ?
おかしい、満月はひとつだ。
じゃああれは――。
月じゃない、目だ!
その考えに至った瞬間、ボクはすでに現実に戻っていた。ボクの顔を覗き込む彼と目が合う。
彼は身を翻した。それよりも先にいつ起きたのか――凛彗さんが対応した。蜜波知さんも物音に目を覚ましたようだ。彼は目を擦りつつも、視界に入った状況を素早く把握して、ボクを引き寄せた。
凛彗さんは彼の首元を捉えて、襖に叩きつけた。襖が大きな音を立てて倒れ、吹き抜けになる。畳に縫い付けられた彼は苦しそうに声を上げながら、凛彗さんの手に爪を立てていた。
「――誰」
「……ぐ、ぅ……うぅ……」
「誰、って聞いているのだけれど」
「……うッ……くぅ……」
ボクは暫く呆然としていたが、はっと我に返って叫んだ。
「駄目です、凛彗さん! ――彼は祢憂です!!」
「……え?」
凛彗さんが驚いて振り返った。その隙を狙って彼は――祢憂は、凛彗さんの腕から逃れた。咳き込みながら首のあたりをさすっている。
黒髪に黄金の目。上下黒いスーツの青年。嵐神尾祢憂。
彼は言った。
――お前はオレの番だ
どういう意味なのかずっと聞きそびれている。
今度こそ教えてもらわなくちゃいけない。
「祢憂……祢憂、なんだよね?」
「……思い出したのか……」
祢憂はなんともいえない表情をした。
苦しそうで、辛そうで、悔しげだった。
「祢憂、どうして?」
「……なにがだ」
「どうして、逃げるの」
「……」
彼は口を噤んだ。
意図せずに、睨み合いになる。沈黙が続いたが、祢憂は一向に口を開こうとしなかった。
ボクの問いに視線を逸らしてだんまりを決め込んでいる。
「……なんで、何も言わないんだよ……」
「……」
夢のなかで何度も触れようとしてきたくせに。
突然、距離なんか置きやがって。
ずっとそばにいただろ。嫌いになったらそう言えばいいのに。
黙っていなくなるなんて、頭に来る。
ぶち、となにかが切れた音がした、気がした。
「ッ、なにか言えよ! 祢憂!!」
「ッ!」
「なんで黙ってるんだよ!! なんか言えよ……ッ、ずっと……ずっとボクのそばにいたのに……、なんで……!!」
言葉に詰まった。
言いたいことがたくさんある。あるはずなのに、いざ言葉にしようとするとこんがらがって出てこなかった。
いつもそうだ。感情が先んじてしまって、言うべきはずの言葉を失う。
祢憂が目を見開いて固まっている。
なんだよ、その顔……。
「……祢憂、諦めな。お前、もう自覚してんだろ」
その声は蜜波知さんのものだった。
ボクを抱き寄せるのとは反対の手で、頭をがりがり掻き毟りながら言葉を重ねる。
「お前も、俺と同じだ。――好きになっちまった、でも好きなやつがいる。だから手を引こうって話だろ……なあ?」
蜜波知さんの指摘に、祢憂は黙った。
沈黙が降りて、それから。
「……あの」
第三者の声。翠君だ。顔だけ障子戸から覗かせている。
そりゃあ、こんなにどったんばったんやっていたらさすがに起きるか。
翠君はボクらと祢憂を交互に見ながら一言。
「……土足厳禁です」
あ。
祢憂、革靴のままだ。
◇
土足で上がったことはボクが代わりに謝罪した。翠君は普段と同じ調子で、「掃除はしとくよ」と言ってくれた。
その晩は祢憂に逃げないことを厳命した。祢憂は不承不承といった風に「……わかった」と答えた。言葉を信じ、ボクらは再び床についた。
けれど眠れるはずもなく、天井の木目を眺めながら蜜波知さんの言葉を思い返していた。
――お前も俺と同じだ
つまるところ、祢憂もボクにそういう感情を抱いていて、でもボクには凛彗さんと蜜波知さんがいるから遠慮して……ってことか。
翠君は背負えばいいと言った。蜜波知さんは背負ってもらえと言った。
凛彗さんは大切なものは、ひとつではなくていいと言った。
ボクの答えは。答え、なんてものは。
もう、とっくのとうに。
――決まっているんじゃないのか?
ここまで来たら、ボクはいっそ。
「……上等だよ」
わがままで欲張りな女王様。
結構だ、そうなってやる。
まるで女王様ではなく、まさに女王様に。
ボクは男だけれど。
「……」
そっと布団から抜け出す。
祢憂がいる部屋はボクらの部屋からふたつほど離れている。縁側を歩き、声もかけずに障子戸を無遠慮に開いた。
彼はちゃんとそこにいた。襖にもたれて片膝を立てて、俯いている。
ボクの来訪に気づいていると思うが、顔を上げなかった。
「祢憂」
「……」
「祢憂ってば」
「……」
「ねーうー!」
やや大きめの声で呼びかけたところで、やっと祢憂は顔を上げた。
仏頂面だった。
「……っち。……なんだよ、夜中だぞ」
「知ってるよ」
ボクは敷居をまたいで中に入る。翠君に「礼儀的なあれで踏んじゃ駄目」と言われていた。
祢憂に近づこうとすると彼ははっとなって立ち上がり、後ずさった。
「……なに?」
「……てめえこそなんだ。なんのつもりだ」
「なんのつもり、って」
「……思い出したら覚えているはずだろ。……オレは抑えが利かねぇって話したはずだぞ」
「あー……そんなこと言っていたね、たしか」
「……だったら……ッ」
「だからこそ、だけれど」
抑えが利かない。あの時は夢のなかだったせいか、ピンとこなかったけれど今ならわかる。
感情を抑えられないから何をするかわからない、って意味だ。
「改めて聞くけれど。――キミはボクのことが好きなんだよね?」
「……は」
「その好きは家族を想うものと同じもの? それとも、凛彗さんや蜜波知さんと同じもの?」
「……」
「祢憂。ちゃんと話して」
「……後者だ」
「そう」
だったら、ボクのなすべきはひとつだけ。
「っ!? お、おい……、お前……なにするつもり……!」
祢憂はすっかり忘れているようだけれど。
ボクは元男娼だ。そういう技なら覚えたくなくても、覚えている。
まさかそれを生かす機会があろうとは、思っていなかったけれど。
ボクは飛び跳ねる形で祢憂の首に両腕を引っ掻けると、懸垂の要領で彼の唇にボクのそれを当てた。ついでに、無理矢理こじあけて舌を侵入させる。
「ッ!! ッッ!?」
反応が初心でかわいいなあ。
でもあんまり押せ押せしてもびっくりしてしまうから、このへんでよそう。
ボクは腕を放して畳に着地する。
「……て、てめえ……ッ」
祢憂は口元を押さえて、顔を真っ赤にしていた。
耳まで全部赤い。
「蜜波知さんに童貞なんて言っていたのに、祢憂も案外そうだったりする?」
意地悪く訊ねると、祢憂はそのままずるずるへたりこんで「……当たり前だろうが……」と恨みがましく言った。
「オレたちは『神の使い』だ。こんなこと、知っておく必要性がねえだろ……」
「その『神の使い』ってなんなの?」
「……この世界に生じた災いが二度と降りかからないように監視するための存在だ。……『慈母』によって生み出された。……人間じゃねえ」
「ふうん」
「……ふうん……って、お前な」
「『神の使い』ってところは大体わかったよ。番って、なに?」
「……」
「だんまり禁止。あ、それともさっきのやつ、もう一回しようか?」
舌を見せて言うと、祢憂がびくっと体を震わせた。猫だったら耳がぴこんと立っているだろう。
想像したら、ますますかわいい。彼はしばらく口を噤んでいたが、観念したようにボクの問いかけに答えた。
「……『番』は『心を尽くす相手』のことだ」
「……」
「……『番』なんざできるわけねえ……と、思っていた」
「どうして?」
「……オレたちを生み出した『慈母』こそがオレにとって絶対だった。……だから、……『慈母』以外に心を尽くすやつなんかいるわけがねえと思っていた」
「……」
「……お前の体質は『慈母』と同じだ。……だからオレもそれに当てられているんだと思った」
「……」
「……違った。お前に口づけられた瞬間、そんなの全部オレがオレを騙すための言い訳でしかねえってことをいやになるほど理解した……オレは……お前を……」
不意に、言葉が途切れた。途切れた続きを繕うように、問う。
「……祢憂はボクを好きになって後悔しているの?」
すると祢憂は緩く首を左右に振った。
「……してねえ」
「そう。ボクもしていないよ」
「……」
「キミに命を分け与えたこと、後悔してない。だって危ない時もずっと一緒にいてくれた大切な相棒だから」
「……相棒、ね」
「うん? 不満? 相棒兼恋人って言った方がいい?」
「……ッッ、だからお前は……!!」
「ふふふ、ごめんね」
「……お前はいいのかよ」
「なにが?」
「白樺凛彗もいるし遠瀧蜜波知もいる。……お前ひとりに、だ」
「だから?」
「……オレが増えると――」
「ボクは女王様だからね」
「は?」
ボクは立ち上がって、腰に手を当てた。
祢憂には偉そうに仁王立ちしているように見えるだろう。
それでいい。
「女王様はわがままだから。ボクが欲しいと思ったらボクは手に入れるよ。手に余るなら背負えばいいし背負わせればいい」
ボクの言葉に祢憂は目を瞬いた。きょとんとしている。
「……お前、見ねえうちに性格が変わったのか?」
「覚悟を決めた、と言ってほしいね」
我儘だから、強欲だから、欲張りだから。
だからなんだっていうんだ。
それがボクなら、受け入れてやる。
「だから祢憂。知りたいのはキミの気持ち。気遣いじゃない、キミの本当の気持だよ。どう? キミは諦めたいの?」
「……」
「諦めたいならボクだってその覚悟を受け入れるよ。キミのことはもう追わない。――どうなの?」
「……オレは」
祢憂は視線を伏せた。そののち、顔を上げた。
さっきとは違う、腹を括った表情だ。
「……悪ぃが、お前を離してやれなさそうだ」
ボクはおかしくなって笑った。
そんなの、知っているよ。だって、
「――夢のなかはボクひとりだけのもの。だから、キミは夢のなかに現れた。……独り占め、したいから」
夢のなかに入り込めるのは祢憂だけ。夢のなかはボクだけのものだ。
だから彼はずっと夢のなかに現れてボクに触れてきた。
独り占めができる唯一無二の場所だから。
祢憂は頭を掻いた。それから、はあと息を吐いた。
「……お前には勝てねぇな……」
祢憂は立ち上がって初めて、彼のほうからボクを抱き締めてくれた。
ちゃんと、あたたかった。




