Ep.5「嫉妬するジャバウォック」
息を吐くと熱を産む。息を吸うと喉が焼ける。
甘い毒が全身を回っている。これは解毒剤の存在しない猛毒だ。
「……遊兎都」
目がちかちかする。空の星はあんなに近かっただろうか。
「……息して……。そう、……っいい子だね……」
「……っ!」
蕩けるような快楽が蛇のように全身を這い回っている。
そのうち、腹を突き破って現れるのでないか――怖くなって縋れば、とびきりの笑顔が出迎えた。
「……大丈夫だよ」
ああ、このひと。
本当にきれいな顔しているなあ……。
◇
「おはようございます……」
「声がっさがさじゃねえか、お前」
ハニーBに指摘されたが、無視した。仕方がない、ボクも起きて第一声でびっくりしたくらいだ。
凛彗さんは後ろからいつも以上にご機嫌に抱き締めていて、ネウが半眼でこちらを見ていた。
「そんなにハッスルしたのかよ? いつもそんなんじゃないだろ」
「……だいぶ大勢を相手にした後なので……」
「はぁん?」
「……こう、すごく……興奮した、ってこと……です」
それ以上は言わなくてもハニーBは察したようで、「ああそうかい、ご苦労さん」と興味なさそうにあしらった。ジーンズのポケット――ではなく、持ってきたカバンの中から彼は茶封筒を取り出した。ふたつほど分厚いそれがどん、と机の上に乗る。さすがにポケットに入らなかったのだろう。
「……?」
「お前ら、なにしたんだ?」
「……なにも。……依頼解決をしただけですよ」
「ほほう。たかだが幽霊確認でこんなにもらえるかね」
「……報酬は相手次第ですし」
報酬額を決めていない。これもお金で揉めたくないから、である。たとえ働いた内容に見合わない額だったとしても、文句は言わない。ゆえに、相手が何を思っていくら差し出されてもボクらは受け取るのみである。
封筒の中身を確認し、机に置く。なるほど、これがあれだけのことをした見返りか。
「……」
彼の用事は報酬を渡すだけのはずだが、ハニーBはなぜか帰ろうとしなかった。そのことに、ネウが文句を言った。
「おい、情報屋。ここはテメエの家じゃねえんだ、とっとと帰れ」
「んだよ、冷てえな。ちったぁ、ゆっくりさせろ」
ハニーBはどうやらすぐ帰る気はないらしい。別にいてもらっても問題なかったので提案した。
ネウと違って、ボクには彼を邪険にする理由はない。
「お茶くらいしかありませんけど、出しましょうか」
段々声が戻ってきた。
するとハニーBの目がぱっと輝いた。
相変わらず少年みたいなひとだ。
「お、マジか。頼むわ」
「おい、遊兎都! 甘やかすんじゃねえ」
「なんだよ。お世話になっているんだから、それくらいいだろ」
腹に回った凛彗さんの腕を叩く。お茶を淹れるので離してほしいという意味だったが、伝わらなかった。寧ろさっきより力が強まっているような……?
「凛彗さん、あの……。お茶を淹れるので離してもらってもいいですか」
「……」
「凛彗さん」
「……はあ」
溜息をつかれた。なぜ。
「……ユウ君は、自覚がないから……」
「え? じ、自覚ってなんの……?」
「……ううん。……ほら、お茶を淹れるんだったよね」
「あ、はい。なので――」
「……僕が連れていくよ」
「えっ!?」
言って凛彗さんはそのままボクを持ち上げた。ネウが危うく落ちかけて慌ててボクの腕をよじのぼって定位置のフードに戻った。うわっ高いな、やっぱり。
抱きかかえられて数秒、凛彗さんは立ち止まっていた。
「……厚意を利用するのは……感心しないかな……」
ぼそっと言ったその言葉の意味が理解できず、どういう意味ですかと訊いたが凛彗さんは答えてくれなかった。何がどうしたというのだろうか。
ハニーBと凛彗さんの間に険悪な空気が広がった気がして、ますます意味がわからなかった。
◇
お茶を飲んで談笑したのち、ハニーBは帰っていった。マグカップを洗いたいから離してほしいと言ったら、今度は素直に離してくれた。長い間一緒にいるけれど、凛彗さんの行動にはたまにわからないことがある。
ボク中心であることは間違いないけれど、すべてがすべてそうではなくて、たまに逸脱する。やっぱり人間の考えることはそう容易くわかるものではない。凛彗さんは謎の多い美丈夫ということで。それに、やたらと詮索して藪蛇は勘弁願いたいし。
ホテルのそこそこ機能性のあるキッチンのシンクで、マグカップを洗っていると、フードの中でずっと寝ていたネウが身じろぎするのを感じた。起きたらしい。そして、起きぬけに「お前は鈍感だな」と言った。
「え? 鈍感? いや、ボクは割と敏感な方だよ。性感帯多いし」
多くて困るくらいだ。
ネウはボクの返答にだいぶ長い溜息をついた。器用な猫だ。
「そんな話してねえだろ。……お前、本当に気づいていないのか?」
「何が」
「あのいけ好かない情報屋だよ。どう考えてもお前に気があるだろ」
「……」
「おい、遊兎都」
「……まあ、そうだね。そうだと思う」
「お前……、わかっていたのか?」
「そりゃあね。男娼ってそういうのに敏感でないと、後々面倒が多いから」
「……だったら」
「だとして、どうすればいいのかわからないんだ」
「……なんだと?」
告白されたわけでもない。
気があるというだけ、狙われているというだけ。何もされていないのならボクが取り立てて警戒する必要はないと思う。
たぶん、彼に押し倒されても目立った抵抗はしないだろう。自分でも貞操観念のなさに呆れてしまうけれど、染み込んだ価値観は早々に覆せない。たぶん今後も無理だと思う。
だってもうボクの体はあらゆる人間の手垢がついてしまっているのだから。今更大事なものとして守って、何の意味があるのだろう。
汚れがこびりついたコップを一生懸命こすり落とすより、捨ててしまった方が格段に楽だ。
「前に言ったろ? ボクは心が欠けているんだ。だから好意を寄せられているとわかってもどうすることもできないんだよ」
「……遊兎都……」
「気を揉ませてごめんね、ネウ。ボクは平気だよ、たとえ押し倒されても――」
「――押し倒されても?」
不意に聞こえた声に、息を呑む。
振り返ると、凛彗さんがキッチンの入り口に佇んでいた。
真顔? いや、なにか怒っているような……?
見たことのない顔をしていたから、心臓が跳ねた。
「……凛彗さん?」
「……ユウ君は本当に危なっかしいなあ……」
凛彗さんが髪の毛をくしゃくしゃと掻き毟った。見慣れない仕草に緊張する。
「え?」
「……あのね、ユウ君。僕はずっと考えていることがあるんだ……」
「か、考えていること、……ですか?」
「うん」
凛彗さんはゆっくりボクの方へ近づいてくる。ボクに逃げ場はない。後ろ手にシンクを掴んで身をほんの少し、仰け反った。
紫苑色が知らない炎を抱いて揺れている。これは――なんだ?
凛彗さんがぐっと背中を屈め、耳元に唇を寄せた。
「……君を閉じ込めてしまうことだよ」
吐息たっぷりに囁かれて、ボクは思わず身震いした。
凛彗さんの手がボクの凹凸の少ない首に触れる。喉仏を探るように親指が動いた。
「……と、閉じ込め……?」
「うん……」
長い前髪で隠れていて表情が見えない。凛彗さんは何を考えているのだろう。
どうしていきなりそんな話をするのだろう。
「……遊兎都はみんなに好かれている……みんなに愛されている……」
「えっ? そ、それは凛彗さんもじゃないですか。歩いていればきゃあきゃあ言われるし、頼み事すれば一発で……」
「……そんなのいらないよ」
あまりに冷徹な声だった。冷え冷えとしていて、刃の切っ先に似た鋭さも感じる。
視線が交錯する。やっぱりそこにはボクの知らない凛彗さんがいた。
背中を丸めてボクを見る凛彗さんは肉食動物みたいな雰囲気を纏っている。首に触れる手には鋭い爪があって、少しでも動けばそれで喉笛を掻き切られる想像がよぎった。
そんなわけが、ないのに。
「……僕にとって必要なのは君だけなんだよ、遊兎都。君のいない世界に僕は存在しないんだ……なのに君はたくさん人に愛されている……だから、いつかどこかに行ってしまう……そんな危うさがある……」
凛彗さんの吐息が耳たぶ、こめかみ、頬と順番に顔に近づく。自分の体が熱を帯びるのを感じて、逃れるために首を動かした。が、凛彗さんの手がそれを許さなかった。曖昧だった手が、しっかりと首を捉えた。ボクは生命の危機を悟った。
「……ひっ……」
「……ふふ、感じてしまったの? ……そう、君は敏感だものね。……でもそうしたのは、僕、だよ。わかる? ねえ……遊兎都?」
甘い言葉なのに、そのすべてが氷に閉じ込められているみたいに冷たかった。
返答を違えば、ボクはおそらく、死ぬ。
殺される。
「あ、あの……りん、ぜ……さ……」
怖くて仕方がない。けれど、凛彗さんはすごくきれいに見えた。
なんて馬鹿みたいな、矛盾した思考なのだろうか。
「……僕はね、君が好きだよ。……君がいないと僕は呼吸ができない。……酸素なんだ……ねえ、いなくなったり、しては……だめだよ? ……僕が死んだら君のせいだからね……」
「っ……!!」
――今、なんて言った?
恐ろしいことを、言われた気がした。
脳が言葉を理解した途端、全身が恐怖に震えた。
ぶるぶると、がくがくと、みっともなく、震えた。
凛彗さんが、なんだって? 死ぬ? このひとが?
凛彗さんが血まみれになって、冷たくなって、死ぬだって?
そんな、馬鹿馬鹿しい。天地がひっくり返るくらい馬鹿馬鹿しい。
でも、――このひとは人間だ。
獣だ怪物だなんだと、どんな理屈をこねくり回したところで、このひとが本当はただの人間であるという事実は覆らない。
白樺凛彗は、超人であり狂人であるが人外ではない。
人外のような出鱈目な力こそ持ち得ているけれど――人間なのだ。
いつか死ぬ。いつか、ボクの目の前で。
ボクの目の前で、彼が死ぬ?
おい、やめろよ。
なんて悪夢みたいな冗談なんだ。
冗談ならもっとマシなものにしてくれ。
もう誰かが死ぬのなんて、ごめんなんだ!
「……遊兎都?」
凛彗さんの首を捕まえていた手が、顎を伝って頬に触れてくる。まだあたたかい、生きている人間の温度だった。
ボクの目は乾いている。乾いているはずなのに、涙を拭うみたいに凛彗さんの指が通り過ぎた。
滑り落ちるものなど、そこにはなにもないのに。
「……ふふ、ごめんね。……嫉妬するなんて初めての経験だったから……怖がらせてしまったね……」
そう言って凛彗さんはボクに口づけた。
確かな生命の息吹に、はっと我に返る。離れていく彼を捕まえて、ボクの方から唇を重ねた。
凛彗さんは驚いていた。
「……っ、ふふふ、……なあに? かわいい……、遊兎都からしてくれるなんて……うれしいなあ……」
恍惚と笑う男は美しい。
その美しさに目が潰れそうになるのに、ボクは目が逸らせなかった。
ずっとずっと見ていたいと思った。
「り、んぜさ……りんぜ、さん……」
「なあに?」
「……し、なない、で……」
「……うん。……君が僕の傍にいてくれるのなら」
「い、る……いるから……」
「かわいい、かわいいね……遊兎都」
凛彗さんは終始ボクのことをかわいい、かわいいと愛でた。
口づけは段々と深くなっていく。まるで息をするのに必要な酸素を取り込むみたいだった。
苦しくて、切なくて、でも――あたたかかった。