Ep.46「静寂を歩いて」
苦い煙草の匂いがする。
昔は嫌いだったその香りも、今は。
◇
ボクはその日、「無理をさせたら、君の首をもぐからね」と割と本気で凛彗さんから忠告を受けた蜜波知さんに、無理ない程度に可愛がられた。
随分手慣れていたので、「経験があるんですか」と脱がされている途中に訊ねたら、「結婚してた時期あったっつったろうが」と苦々しい顔で返された。気分を悪くさせたお詫びにいろいろと頑張ったら、その数倍のしっぺ返しをもらった。
――あんまり、おじさんを煽るんじゃねえよ
そう言って獣のように笑う蜜波知さんは、随分な男前だった。
そうして、事後。煙草を吸う彼の腕のなかに囲われたまま、ボクは「そういえば、ネウがいないんです」と口にした。
諸々終わると気が付いたらそこにいるぬくもりがないと、なんだか寂しい。
「あ? ネウ? ああ、あのクソ猫か……まあ、猫だしよ、そのへんの物陰に寝ているとかじゃねえのか?」
「……そうです、よね」
でも、黙っていなくなることなんて今までなかった。いつだってボクのフードの中にいた。
本人だって、ボクのフードの中じゃないと眠れないと言っていたのだ。
「……つうかよ、遊兎都」
「はい」
「起きてすぐ猫の話するか、フツー?」
「? ……えぇっと……。……大変気持ちよかったです?」
「ば……ッ! 違ぇわ! やめろ、マジで抱き潰すぞ!」
「抱き潰すと捻り潰されますよ、蜜波知さん」
「マジレスありがとうね!」
ベッドの上でも変わらないおじさんに、腹を抱えて笑ってしまった。
ひとしきり笑い終えた後、蜜波知さんは真剣な顔をして「おじさん、けっこー嫉妬深いんだよ」と言った。
「嫉妬深い……? え、あ」
そっか、ネウはオスだ。
ふたりきりの朝に別の男の話をされるのは、嫌か。
蜜波知さんはそっぽを向いてしまった。
拗ねているみたいだ。
「蜜波知さん」
「なに」
「拗ねてます?」
「……拗ねてねえ」
「じゃあなんでこっち向いてくれないんですか」
「……」
「蜜波知さん」
「……」
ううーん、テコでも動かない感じがする。
どうしよう、こういう場面での立ち振る舞いは、あまり得意ではないのだけれど。
「あの、……どうしたら機嫌直してくれますか」
蜜波知さんがぐるんとこっちを向いた。勢いが良すぎて怖い。
「ちゅーしてくれ、ちゅー」
「……」
「駄目ならいいぜ」
「……駄目じゃないです」
背伸びをして唇を重ねた。触れる程度にするつもりだったが、後頭部を蜜波知さんに抑えられてそれはもうとびっきり、ねちっこい濃厚なものに挿げ替えられてしまった。
「……ちゅーって……言ったのに」
「ぶちゅーも、ちゅーだろ」
「……おじさん……」
ボクが言うと、蜜波知さんは「へへん」と少年みたいに笑った。
朝日みたいに眩しかった。
◇
「凛彗さん、おはようございます」
「……おはよ、ユウ君」
着替えて食堂車に向かうと、凛彗さんはすでにソファに座って寛いでいた。ボクに気づくと彼は微笑んで立ち上がった。それから長身を屈めて、ボクのつむじに唇で触れた。最近よくしてくれる。愛おしくてたまらないって気持ちが伝わってくるようで、くすぐったくてうれしい。
「……体は、大丈夫?」
「え? あ、はい。全然問題ないです」
「……そう」
「んだよ、凛彗。別に無理させちゃいねえぜ」
「……」
蜜波知さんの自己申告はあながち間違ってはいない。でも割と何度も求められた。首のまわり、結構ひどいことになっていると思うけれど。
そうだ、とボクは凛彗さんを見る。
「あの、凛彗さん」
「うん?」
「ネウを、見ていませんか……?」
「……ううん、僕は見ていないよ。……いないの?」
「……はい」
本当に、どこに行ってしまったんだろう。
合流した後、列車内を凛彗さんと蜜波知さんがくまなく捜してくれた。
けれど、やっぱりネウはいなかった。
「……本当にどこに行っちゃったんだろ……ネウ」
ネウは突然現れた猫だった。『便利屋』を始めてすぐのこと。ハニーBに出会う前だった。
彼は突然現れて、堂々と「お前のところに置け」と言った。
最初からしゃべることを隠さなかった。しゃべることに面食らいはしたものの、猫が好きなボクにとっては思いがけぬ幸運だったから、言われた通りそばに置いた。なんでしゃべるのって訊いたら独自の哲学によって、微妙に答えをはぐらかされたけれど。
小言こそよく言うけれど、心配して慰めてくれたり、癒してくれようとしたり、いいところがたくさんあった、ボクの大切な相棒である。
いないと、背中が寒い。あのぬくもりが恋しかった。
「……ネウも、……何か考えたいことがあるのかもしれないよ」
悶々としているボクを見かねてか、凛彗さんが言った。
「凛兄ちゃん……」
「少し、待っていよう。……あんまり大事にすると……、ネウも出てきにくいだろうから」
「うん。……そう、だね」
助言を受けてボクは、気持ちを切り替える。
そろそろ目的地〝隠密の街〟シジに着く頃だった。
哀しい顔はしていられない。
◇
――〝隠密の街〟シジは〝誰もいないのに視線を感じる〟として怪奇現象を体験する名所として、有名だった。当然、列車が着く駅も無人である。
街は空っぽで誰もいないし、どこの店も営業していない。でも誰かがいる気配だけが漠然とあって、通りを歩いているだけでも無数の視線を感じるのだという。
必要最低限の荷物だけを持って列車から降り、誰もいない改札を通る。しんと静まり返った街に佇む建物は置物みたいだ。なのに、ちゃんと年季が入っている。
「マジでだーれもいねえな」
「……そうですね、ボクも初めて来ますけど……ここまでとは……」
「――ご無沙汰しております」
改札を出たところで、耳触りのよい声が聞こえた。声のした方を見れば、黒い目とかち合った。
カラスの濡れ羽色をした短髪がよく似合う端正な顔立ち。漆黒の目に四角い眼鏡をしていて、恰好は相変わらずお洒落だった。
襟元に控えめな柄の入ったワイシャツにはシワひとつなく、その上に繊細な模様が刺繍された質の良さそうなベスト。深緑色のネクタイも緩みなく、きっちり結ばれている。
整った服装の、その上には真っ黒なロングコート。同じ色のスラックスを履いて、腰には刀を帯びて、拳銃のホルスターも吊っている。
翠君曰く「あらゆるところに武器を仕込んでいる」らしく、見えている武器はおそらく所有しているものの一部なのだろう。洗練された格好をしているから、物騒で武骨な武器たちが装飾品のようだった。
彼はボクらを見つけると、口元を手で隠すような仕草で眼鏡を上に押し上げた。
最初に口火を切ったのは、こういうとき、滅多に口を開かない凛彗さんだった。
「……やあ、皇彌君。……久しぶりだね」
瑪瑙堂皇彌さん。翠君の恋人で『才能型規格外』と呼ばれた天才だ。
彼に扱えない武器はこの世に存在しないとまで言われ、どんなに他人が使い込んだ武器だろうが、初見の武器だろうが、まるで愛用品のように使いこなすという。彼が武器に馴染むというより、武器が彼に馴染む――そんな風に噂されていた。
ボクは皇彌さんを見上げた。彼も背が高い。凛彗さんがそれよりもずっと高いから、なんだか小さく見えてしまうけれど。というより、ボクからしたらみんな大体高身長である。ボクが小さいだけで。
皇彌さんは凛彗さんとボクを視認すると、胸に手を当てて恭しくお辞儀をした。
「ええ、どうも。遊兎都君もお元気そうで何よりです。あと……」
彼は蜜波知さんを見た。
「お初お目にかかります、私は瑪瑙堂皇彌と申します。あなたが『情報屋』……、いえ。――『遠瀧電工』の代表蜜波知殿、とお呼びしたほうがよろしいですか?」
皇彌さんの挑むような視線に、蜜波知さんは怯まず「ああ、好きに呼べよ」と返した。
彼は再びボクらに視線を移す。
「すみません、突然」
「いえ、問題ありませんよ」
くい、と眼鏡の位置をまた戻す。
癖なのだろう。
「屋敷で翠玉が首を長くして待っております、案内は私が務めますのでついてきてください」
くるりと皇彌さんが踵を返した。その背中をボクらは追いかけた。
◇
ボクらの足音しかしない。けれど、視線だけは突き刺さるように感じる。
皇彌さんが先頭を歩き、その後を凛彗さん、ボク、そして蜜波知さんが続いた。
どうやら、ここは商店街の大通りのようだった。様々な店が軒を連ねているものの、どれもこれも閉まっていて営業していない。きれいに整備された廃墟を通っているような心地だった。
蜜波知さんが「気味悪ぃー」と口に出して言うと、「仕方がないことですよ」と先行する皇彌さんが返した。
「この不気味さが一部怪奇趣味の方々に受けているようでして。時折ですが外街からいらっしゃる方もいますよ」
「へえ……あ!」
「? なんでしょうか」
「お前か、シジで噂される『黒の死神』っつーのは!」
蜜波知さんが興奮した様子で、皇彌さんを指さした。当人は眼鏡を持ち上げただけで、無言だった。
「『黒の死神』、ですか」と蜜波知さんを仰ぐと、彼はハニーBの顔をして「おうよ」と自慢げに笑った。
「なんでも、ここに来て好き勝手に写真だの動画だの撮ってると、誰もいねえところから銃弾が飛んでくるって」
おどろおどろしく大袈裟に、蜜波知さんが説明してくれた。
「……ふうん。……護衛みたいなことを、しているんだね……」
凛彗さんが懐かしむような口調で、皇彌さんに言った。皇彌さんは前を向いたまま「私は纐纈一族の末席を汚すものですから」と謙虚に返した。
「仕事の傍ら、そういう形でご恩をお返ししております」
「……君らしいね」
「護衛任務はあなたの不得手とする依頼でしたね。依頼人を殺すこともあったでしょう」
「……仕事の邪魔をするのだから……仕方ないことだよ……」
「それでよく、依頼の数が減らなかったものです」
「……さあ」
凛彗さんと皇彌さんの応酬を見ていたハニーBが、「あいつ、友だちとかいるんだな」と意外そうに言った。
「友だち……。どうなんでしょうか。確かに皇彌さんとはよくしゃべる印象はありますけれど……」
「ダチじゃなかったらなんなんだよ、元相棒とかか?」
「うーん、そういうのじゃないと思います」
曖昧な返答をするボクを、ハニーBが訝しんだ。
訝しがられても、知らないものは知らない。
「お前、あんまり他人に興味ねえの?」
「えっ……あぁ、えぇっと。……興味ない、というか……自分のことでいっぱいいっぱいで知ろうとする余裕がなかった、というか……」
冷たい言い方をするなら、生き延びるのに他人の過去などどうでよかった、だけである。
知りたくないと言えば嘘になるけれど、無理に問い質す気もなかった。
「……ふうん。なんだったら、調べてやろうか?」
ハニーBは悪い顔をしたので、全力で首を振る。
弱みでも握ろうというのか、このひとは。
「いやいや、いいですよ。知りたかったら凛兄ちゃんに直接聞きますし」
「……」
「? なんですか」
「……いや……」
ハニーBは何か呟いたようだけれど、ボクには聞き取れなかった。




