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Ep.45「近づく心、遠のく影」

 朝起きると、蜜波知(みつばち)さんが食堂車のソファで寝ていた。

 ボクはちゃんと自室に戻ったのに、と釈然としない気持ちで向かいのソファに腰を下ろす。

 規則正しい寝息が静寂を満たす。ボクは朝ごはん代わりのホットミルクに口をつけた。

 一晩悶々としたけれど、結局考えはまとまらなかった。

 夢は見なかった、ような気がする。そのことも相まって、朝日すら鬱陶しいと思うくらい暗澹たる気持ちだった。


「……ネウもどっかいっちゃったし」


 大体いつも一緒にいるから、いなくなられるとちょっと寂しい。

 ボクは膝を抱えた。


「……」


 ボクは愛されているのだと思う。

 凛彗(りんぜ)さんにも蜜波知さんにも――たぶん、ネウにも。

 想像もしなかった。自分自身を肯定的に受け入れていないから、こんな風にたくさんのひとから想われるだなんて予想外である。

 だから、戸惑っている。


 ――大切なものがありすぎると、失われた時が恐ろしい。

 ボクはつい、そういう物騒なことを考えてしまう。


 手にしたものが全部消えてなくなる妄想。

 手にしたものをひとつ残らず壊される幻想。


 馬鹿馬鹿しいと一蹴できないのは、事実ボクの身にすべて起こったからである。

 大切なものは重い。重いのにあたたかい。

 だから、手放せない。だから、怖い。


「……ボクは欲張りだ」


 蜜波知さんのことを好きになりつつある。でもそれはとても傲慢なことだと思う。

 だって凛彗さんが――凛兄ちゃんがいるのに。凛兄ちゃんには他の誰も好きになってほしくないと思っているのに。ボクは。

 あっちこっち想いを寄せて、不誠実じゃないか。

 凛兄ちゃんは一途にボクのことを想い続けてくれていたのに。

 ボクは、全然一途じゃない。


「……わがままだよ……」


 好きな気持ちは誰にも止められない。

 ボクが制御する感情だ。でも、できなかった。

 留めようとすればするほど加熱して、そして自分の手に負えない事態になる。


「……わがままだ」


 あれも欲しい、これも欲しい。

 とんだ子どものわがままだ。

 でも、今更蜜波知さんを嫌うこともできない。使えと言われて使えるほど物わかりもいいわけじゃない。

 性欲処理? いやいや一番ありえない。


「……ボクは、どうすれば」

「ユウ君」

「ッ」


 不意に名前を呼ばれて、びっくりしながらも顔を声がしたほうに向ける。

 凛兄ちゃんだった。彼は首を傾げて不思議そうにボクを見ている。


「どうか……、した?」

「……あ、えっと……なんでも、ないよ……?」

「……?」


 凛兄ちゃんがボクのすぐ横に座った。

 下手くそな誤魔化し方だったな、と思いながら俯いた。

 蜜波知さんのことを言ったら、凛兄ちゃんは怒るだろうか。ボクのことで滅多に怒るひとじゃないけれど、不快には感じるかもしれない。嫌われるのは嫌だった。

 本当にボクはどうしようもないな。


「……なんでもない……わけ、ないよね?」

「えっ、あ……!」


 凛兄ちゃんに腕を引かれて、膝の上に乗せられる。意図せず彼をまたぐような恰好になった。

 ボクの胸のあたりに、凛兄ちゃんがいる。


「……り、凛兄ちゃん……」

「悩んでいることは、言えないこと……?」

「あ……、あの……」

「……彼のこと?」

「っ」


 図星を突かれたボクの顔を見て、凛兄ちゃんは笑った。


「ふふ、ユウ君はわかりやすいね……かわいい」

「……凛兄ちゃん……」

「なあに?」

「……凛兄ちゃんは、……いや、じゃ……ないの……?」

「なにが?」

「……ボクが、その……。……ほかの、ひとのこと……好き、って思うの……」

「――嫌だよ」


 はっきり言われて心臓が跳ね上がる。

 そうだよな、そりゃそうだよ。当然だ。

 ボクの頬を凛兄ちゃんが撫でた。壊れ物を扱うみたいに、やさしく。


「でもそれは僕の……僕個人のどうしようもない我儘。本音を言えばね……? 僕以外を見ないでほしい」

「……」


 好きなひとに好かれたい。

 好きなひとに自分だけを見てほしい。

 ボクもおんなじだ。凛兄ちゃんにはボクだけを想っていてほしい。


「……でも、難しいことだってわかっているよ」


 凛兄ちゃんの目に怒りも不快感もない。

 朝露に濡れた紫陽花みたいに、きれいでやさしい色だった。


「……凛兄ちゃん……」

「僕はユウ君が好き、という言葉に、きちんと向き合って答えてあげる……、とてもやさしくて、いい子だって知っている……。生半可な気持ちではないことは、……僕が一番よくわかっているよ」


 凛兄ちゃんがボクの頬を撫でた。

 労わるような触れ方だった。


「……だから、ユウ君が僕以外の誰かを好きになっても、構わないんだ。……それは君が、……すごく、大切にしたいものってことだろう? ……君が大切にしたいものなら、僕も大切にしたい……できることなら、ね」

「……」

「――蜜波知君のことが、好き、……なんだよね?」

「――ッ!」


 否定しなきゃと思えば思うほど、言葉が出て来なくなった。

 覚悟を持って、家族すら裏切って、ボクの傍にいてくれるひと。

 真っ直ぐに、ボクを見つめて笑うひと。

 太陽みたいな、少年みたいな、純真無垢でかわいいひと。

 記憶がボクの想いを明確に形作る。

 ああ、ボクは蜜波知さんのことを――


「大切なものは、ひとつじゃなくていいんだよ」


 凛兄ちゃんの目は、ずっとボクだけ捉えている。

 ボクのことを心の底から想ってくれている表情だった。

 ふ、と凛兄ちゃんが笑った。


「……? 凛兄ちゃん?」

「……僕の〝大切〟は君だけ、……だけれどね、ユウ君」

「……!」


 ああ、どうしてこのひとは。

 どこまでも、こんなにやさしいのだろう。


「……凛兄ちゃん」

「うん」

「……ボクは凛兄ちゃんのこと、大好きだよ」


 ボクは凛兄ちゃんが好きだ。それは、変わらない。

 彼は一瞬驚いたけれど、すぐ微笑んだ。


「知っているよ。……言ったでしょ? ユウ君はちゃんと向き合って答えを出す子だって。……それに」

「それに?」

「初恋が僕であることは変わらない事実だからね……」


 凛兄ちゃんは甘えるみたいにボクの薄っぺらい胸板に額をこすりつけてきた。

 かわいい、と思って頭を撫でると、腰に腕が絡みついてぐっと強く抱き締められた。


「……ところで」

「はい?」

「……いつまで寝たふり続けるつもりなのかな」

「えっ!?」


 驚いてボクが振り返ると、横になっていた蜜波知さんが「……っち」と舌打ちして起き上がった。


「み、蜜波知さん……」


 起き上がった彼はバツが悪そうな顔をそむけたまま、うなじあたりをがりがり掻いていた。


「……遊兎都(ゆうと)

「……はい」

「告白するんだったら、直接言ってくんねえか?」

「えっ」

「さすがに他の男経由っつーのは、どうも……よ」

「あ……」


 ボクは慌ててソファに座り直した。

 向かい合わせになる。少し、気まずかった。


「……で、なんだ……その」

「……」

「……俺のこと、好きっつーことで……いいのか?」

「へっ」

「へ、って……」

「……あ、あの……えっと……」

「……あー……」

「……」

「俺はお前が好きだ。――お前はどうなんだ?」


 思いもよらぬ展開でぎこちなくってしまったボクに、蜜波知さんが水を向けてくれた。

 真っ直ぐで着飾らない想い。それに返すべき想いをボクは知っている。たった今見つけたから。


「……ボクも好きになって、……いいですか?」


「好きです」と言えればよかった。だけど、今あるボクの気持ちをそのまま素直に言葉に置き換えるとこうなる。蜜波知さんはボクの答えに笑って、「たりめえだろ」と言った。

 その笑顔はやっぱり、太陽みたいに眩しかった。


 ◇


 ざざん、ざざん。


 また波の音がする。青年が波打ち際に立っている。

 黒い髪に黄金の目。空に昇る月よりずっと色が濃い。

 背は高くて、すらっとしている。上下黒のスーツで磨かれた革靴。

 知っている気がする。でも、思い出せない。


「……お前の両手は塞がっている」

「え?」

「だから、オレはどうすることもできない」

「どういう……こと?」

「……オレはその手を取ることはできない」

「……? 何を、言っているの……?」

「……遊兎都」


 青年が近づいてくる。

 ボクの頬に触れて――いるのに、感じない。

 感じられないのが、いやだった。

 ぬくもりを知りたいと思った。


「駄目だ」

「どうして?」

「……これ以上は抑えが利かねぇ」

「抑えってなに?」

「……」


 近づいてくる。

 きれいで作り物みたいな顔が。

 目の鼻の先にある、吸い込まれそうな黄金色の瞳。

 花のような、香りがした。


「……じゃあな」


 ざざん。ざざん。

 波の音が段々大きくなっていく。波もさっきより高くなっている。

 待って、と言いたいのに言葉が出てこない。

 手を伸ばしても届かない。


 ざざん。ざざん。

 ざざん。ざざん。


「――! ――!!」


 声が出てこない。

 波の音にすべてをさらわれる。


 ざざん。ざざん。

 ざざん。ざざん。


「――! ――!!」


 待って、待ってよ。

 まだキミからなにも聞いていない。

 なにも――なにも伝えられていないじゃないか。


「――ネウ!!」


 叫んだ声も波に掻き消えて、ボクの世界は闇に覆われた。


 ◇


 天井に手を伸ばして目が覚めた。

 夢だった。夢だった、はずなのに。


「ネウ……?」


 その夢を境にネウは、いなくなった。

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