Ep.44「Sweet honey for you」
それから襲撃は激減した。あの軍人ヤクザたちの惨劇が知れ渡ったか、或いは『情報屋』が漏らしたのか。頭が空っぽになるくらい、なんにもない穏やかな一日だった。
凛彗さんはボクの肩に頭を載せて寝ていて、ハニーBは自室に引きこもっている。
――凛兄ちゃん、本当はボクの膝枕で寝ていたかったみたいだったけど、ネウに猫パンチをお見舞いされて渋々場所を変えていた。猫だから強く出られない姿が、なんだかかわいかった。
すうすうと隣から聞こえる寝息に耳を傾けながら、ボクは〝思い出せない夢〟について考えていた。
日中もずっと頭の片隅に引っかかって、本を読んでいても集中できなかった。
どうして思い出せない夢をわざわざ思い出そうとするのだろうか。自分でもわからないけれど、思い出さないといけない気がしていた。
あと、明らかにネウの様子がおかしい。物言いが神妙でいやに冷静な猫、なのはもとからだけれど最近は無口だ。
ボクが「おはよう」と言えば必ず「おはよう」と返してくれるのに、めっきりである。
何か怒らせるようなことをしたろうかと考えても、全く心当たりがなかった。でもすごく怒っているわけではなく、膝の上の昼寝は欠かさないから、わからない。
猫心、難解極まりない。
「……ネウ」
「……」
「ねえ、ネウってば」
「……」
「……寝てる?」
丸まったネウは微動だにしないし、一言も発さない。変なの、と列車に乗ってからずっと呟いている言葉を口に出し、ボクは手元の本に視線を移す。やっぱり全然、集中できなかった。
◇
その日、眠れなかったのでまだ煌々と明かりのついている蜜波知さんの部屋を訪れた。
部屋はボクの寝室と違って広く、壁際に無数の画面とキーボードがあって、床は配線だらけだった。ベッドは大きいものがひとつだけ。蜜波知さんはうんうん唸りながら、キーボードをせわしなく叩いている。入ってきたボクに、全然気づいていない。
集中しているところを驚かすのも悪いと思って、そっとベッドに腰かける。シーツに乱れはなく、もしやこのひとずっとベッドで寝ていないんじゃないか、と思った。
一通り作業が終わったのか、蜜波知さんは座っている椅子をくるりと回した。ボクと目が合う。
「あ? ……マジかよ……」
蜜波知さんはそう言って、眉間をつまんだ。大変お疲れのご様子だ。
「……幻覚まで見え始めやがる……俺もそろそろキテんな……」
蜜波知さんは「はあ、やだねえ」とか呟きながら、のろのろとボクのほうへ近づいてきた。目の下に随分濃い隈がある。予想的中――このひと、たぶんまともに寝ていない。
「……ちっちぇ、よな……」
「……」
「白いし。……ああ、でも……うぅん……すげえビンカンなんだよな……」
「……」
「いじってやるとかわいー声してさ……はあ、……たまんねえ……」
なんだろう、この感じ。
本人が聞かれたくないであろう独り言を意図せず聞いてしまった、気まずさ。
それが自身の褥での振る舞いに関する事実であることの、気恥ずかしさ。
複雑な気持ちだった。
蜜波知さんは虚ろな目のままボクを見て、ごそごそ何かし始めた。
あ、これは。
「まあ、妄想ぐれえなら……許されるか……。はああ……、意地張らねえで、来てくれって言うべきだったかなあ……」
がりがり頭を掻き毟りながら、蜜波知さんはベルトのバックルに手をかけていた。
うーん、どうしようか。どうするべきか、これは声をかけてあげるべきかな。
妄想と思っているボクが本物だってわかったから、このひとどんな反応するのだろう。
ちょっと悪い気分だった。悪戯をする子どもの気持ちってこんな感じなのかな。
ボクはズボンを脱ぐ寸前の蜜波知さんに笑いかけた。
「……あ?」
「抱きたいならどうぞ?」
「……え? あ? ……待て?」
「溜まっているから発散したいって言えばいいと思いますけれどね。ボクは別に構わないし」
「……? ……?? ……ん?」
「蜜波知さん」
「……ハイ」
「ボクはあなたの妄想の遊兎都――ではなく、本物の、現実にいる、遊兎都です」
「……え、あ、……は!?」
蜜波知さんは後ろに下がろうとして、脱ぎかけたズボンに引っかかってひっくり返った。
あ、面白い。
◇
蜜波知さんはズボンを履き直し、ボクの隣でバツが悪そうに座っている。
「……いるなら言えよ」
「すみません、すごく集中していたので。ボクが驚かせて手元狂ったりしたら大変かなーって」
「……抱かれに来たのか」
「うーん、眠れないのでちょっと」
「……そうか」
声に覇気がない。やはりすごく疲れているのだ。
「お疲れですね」
「……まあ、な。雅知佳も手を打ち始めてるからよ」
「なるほど……雅知佳さんも泳がせられっぱなしじゃないですよね。でも蜜波知さんなら大丈夫なのでは?」
ボクが言うと蜜波知さんは俯いた。
あれ?
暫くの沈黙ののち、彼は口を開く。
「……雅知佳のところに、愛瑠々ってのがいるの知っているか」
名前は聞いたことがある。
会うことは叶わなかったけれど、ボクに様々な電子機器を供給してくれた雅知佳さんのまさに『電脳』ともいえるひとだ。雅知佳さんが好意的に接していたから、おそらく女性である。
「……ええ、まあ。ああ、そっかだから――」
「……遠瀧愛瑠々」
「え、遠瀧……?」
思考が、止まる。
「……俺の妹だ」
「!」
「……」
「い、妹さん……?」
「……ああ」
「……」
「……愛瑠々は雅知佳にえらく懐いてな。……俺はうさんくせえから信用できなかったが」
「え……」
「愛瑠々はまだ……雅知佳の手の中だ」
「……!」
その言葉が意味するもの。
ボクは瞬間的にすべてを理解した。
彼が決死の覚悟で『楽園』に与した理由。
余儀なくされた綱渡り。
全ては――
「……俺んち、両親がクソ野郎でよ、頼れるのがお互いだけ、ってな。……だから、瑠々は……妹は、母親が恋しかったんだろうよ……」
額を覆っていた手が目元に移動した。
ますます彼の表情は読めなくなる。ああ、でもわかる。
纏う空気に滲む、苦悩が。
妹のために楽園に加担し、でも彼はボクのために『楽園』を裏切った。
ボクのため? 違う。
「……ボクのせい」
こぼれた言葉に蜜波知さんがはっとなって顔を上げた。目が合う。
琥珀色に滲んでいる悲哀の色。悲しくて辛いのに、泣くこともできない子どもの目だった。
ボクのせいで、雅知佳さんを裏切って、〝大切なもの〟を置いてきて、そして今もボクのために?
苦しそうだったのは、ボクに失望されたからじゃない。
最愛の家族と離れなくちゃいけなかったから。
彼女を裏切ることが、たったひとりの家族すらも裏切ることになるから。
あの時、ボクはなんて言った?
――苦しまないでください
馬鹿じゃないのか、元凶はボクなのに。
ボクがこのひとに選択を迫ったんだ。選ばせてしまった。
言うべきは、苦しませてごめんなさいだったんじゃないのか。
ボクは、ボクってやつは。
「……遊兎都!」
蜜波知さんの声に現実に引き戻される。
彼はすごく辛そうだった。そりゃそうだよな、辛いに決まっている。
ああ、やっぱりボクは最低だ。最悪だ。
このひとの、〝大切〟を奪ってしまった。
「遊兎都……泣くな」
「……え?」
言われて初めてボクは、自分が泣いているのに気付いた。
「お前のせいじゃねえ、これは俺が選んだことだ」
「……でも……」
「もちろん、妹をそのままにしちまったことになんも思ってねえわけじゃねえ。俺のたったひとりの家族だからな」
「……」
「でも、お前を選んだことに後悔してない」
力強い言葉だった。
力強くて、あたたかくて、苦しい声だった。
「……なんで……?」
「惚れてるからに、決まってんだろ」
蜜波知さんは濁りのない目で真っ直ぐにボクを見つめたまま、明瞭に言った。
対するボクはぼろぼろ涙をこぼすばかりで、まともに言葉が出てきやしなかった。
「雅知佳は女にはやさしい。とびきり、な。……だから妹にどうこうすることはねえし、俺の傍にいるよりよっぽど安全だ。……裏切ったこと、あいつがどう思うかは知らねえ。だが、たとえ恨まれても俺はお前を選んだことを後悔はしない。お前のせいだって責めるつもりもない」
「……」
ボクは何を返せる?
このひとの覚悟に何を返せばいい?
手を伸ばそうとして、気づく。
ボクはこのひとの気持ちに、答えたか、と。
「……ボクは、……」
「遊兎都」
伸ばそうとした手を蜜波知さんにぎゅっと掴まれた。
強い力だった。
「別に同情誘おうってんで、こんな話したわけじゃないぜ。いつか知られる話だ、誰かの口からバラされるより俺の口から話しときたかった……そんだけだ。だから、気の毒に思って俺の気持ちに答えようとするのだけはやめてくれねえか」
「……あ」
「凛彗だけってんなら、それでいい。ついでに言やぁ、性処理扱いでもいい、使い勝手のいい情報屋でもいい。……だから、傍にはいさせてくれ」
「……」
――怖がってもいいよ。憎んでもいいよ。利用するだけしてボロ雑巾みたいにしてもいいよ。……ただ捨てることだけはしないでね。
凛彗さんもボクに同じようなことを言った。
誰も彼も、ボクに使えと言う。
傍にいさせてくれと、願う。
蜜波知さんは返事に窮したボクを慮って、頭をぐしゃぐしゃ撫で回した。それからにかっと笑う。
いつも思う――少年みたいな、無邪気な笑顔だ。
「今日は自分の部屋で寝ろ。……ぶっちゃけ疲れてっから、どこで箍が外れるかわかんねえ」
蜜波知さんは立ち上がった。
行ってしまう――ボクは咄嗟にその服の裾を掴んだ。
「遊兎都?」
「……」
「……遊兎都、よせ」
「……どうして?」
「ん?」
「どうして……ボクなんですか……」
わからない。
非力だし、すぐ捕まるし、言葉に困れば泣いて誤魔化すし。
「……お前が俺自身を見てくれているから、かな」
寂しそうに蜜波知さんは答えて、そっと裾を掴むボクの指を剥がした。
「ちゃんと部屋に戻れよ」と言い残して、彼は部屋を出て行った。
ボクはしばらく呆然としたままだった。それからのろのろ立ち上がって、自室に戻った。




